六月十三日 木曜日 15時30分
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木曜日の午後三時半を回った頃、少しずつ熱さを増してきた日差しが窓から差し込む。
気づけばあやめが入社してからもうすぐ三か月が経とうとていた。
中華料理屋の男、シェンと出会ってからの一ヶ月もほとんど残業をしていたあやめは、体に疲労が蓄積していることを日々実感していた。
シェンと友達になった日から、三日に一回ほどのペースで中華料理屋に通っているが、当初の目的であった「自分の意見を言う」というのはなかなかクリアできずにいた。
「何事も練習が必要ネ! 焦らずゆっくりやっていこう」と相変わらずあやめの前に座ってニコニコ食事を見ているシェンは優しく励ましてくれている。
それに、友人と美味しいご飯を食べることが意外にもあやめの心の支えにもなっていた。
家庭環境も厳しく、友人もほとんどいないあやめにとっては、初めてといっていいほど心落ち着く時間。
今日も帰りにシェンさんところ寄ってこうかな、と考えつつカレンダーを横目で確認していると、上司である西田が声をかけてきた。
「市橋さん、手が動いてないみたいだけど大丈夫? お疲れ気味?」
「あ、すみません。ちょっと考え事してて……」
「そう、いつも真面目な市橋さんがぼーっとしてるから少し珍しくて」
上司はそう言いながら忙しなく机の上を片付けている。
育児で時短勤務中の上司の西田は、いつも16時には退勤するのだ。
子育てと仕事の両立って大変そうだな、と西田の方を見てから、自分のパソコンに向き直る。
(さて、私も今日は早く仕事終わらせちゃおう。原さんから仕事の手伝いのお願いもされてないし)
今日はシェンに返すタッパも持ってきているし、定時退社を目標に気合を入れ直した。
「あ、そういえば市橋さん。ちょっと相談してもいい?」
「はい、なんでしょう?」
帰り支度をおおかた済ませた西田はこっちこっち、と少しだけ離れた自分のデスクからあやめに手招きをする。
(他の人に聞こえたらまずいこと? 叱られるのは嫌だな……)
平静を装って返事をしたあやめは上司からの個別の呼び出しに内心びくつきながら、メモを手に西田のデスクに近づいた。
あやめの表情から怯えを感じ取ったのか「悪い話じゃないから身構えなくて良いよ」と西田は困り顔で笑った。
「単刀直入に言うと、市橋さんの業務量もう少し増やしてもいいかな?」
「え?」
「あのねぇ、うちのチームって他のチームに比べて人数が少なめでしょ? でも業務量は結構多いのよ」
「はい……」
それは原の仕事を肩代わりしているあやめは常々痛感している。嫌な滑り出しの話だが、上司の話を遮るわけにもいかずとりあえず頷いておく。
「それに加えて私は時短勤務させてもらってるから、業務が少しずつ溜まってきちゃってて……でね! 市橋さんっていつもテキパキ仕事してくれるでしょ? すごく助かってるのよね」
「褒めて頂けて嬉しいです……」
「時短勤務だから私が帰った後のことは分からないけど、いつも真面目に仕事してくれてるし! だからもし良ければなんだけど、市橋さんにもう少し多く仕事を任せたいなって思ってて」
「えっと……」
西田は時短勤務をしているから知らないのだ。あやめが原の仕事を断れずほぼ毎日残業していることを。
原があやめにお願いしてくるのも、毎回西田が時短勤務を終えて帰った後。
今この流れで伝えることも出来ず、あやめは言葉に詰まる。
「スキルアップにもつながると思うし、市橋さんのこと信頼してのお願いなんだけど、どうかな?」
あやめが相槌を打つ間も与えずそう言い切ると、西田は両手を合わせてお願いのポーズで頭を下げた。
(原さんに仕事押し付けられてること相談したいけど、今言ったら本人にも聞こえちゃうかも……)
それに上司にお願いされたことを断るなんて、今のあやめには到底出来なかった。
だってまだ入社して二ヶ月だ。
「はい、大丈夫です……」
「本当!? 良かった! 市橋さん達の先輩の佐藤くんと田中くんにも相談してたんだけど、あんまり乗り気じゃなくてねぇ」
西田はほっと胸を撫で下ろす仕草をする。
前から分かっていたことだが、あやめの先輩二人は、仕事にも後輩にもチームにも無関心だ。
言われたことはやるけど、助け合うイメージはない。
(私にも勇気があれば、先輩たちみたいに断れたのかな……?)
「呼びつけちゃってごめんね、もう席に戻っていいから。詳しくはまた今度話すね」
「はい、よろしくお願いします」と頭を下げて自分の席に戻るあやめ。
さっきまでのシェンに会いに行くことを考えて頑張れそうな気分から一転、もやもやの海に沈んでいく。
(でも頼ってもらえたってことだよね。仕事も早いって褒めてもらえたし)
なんとかポジティブに考えようとしてみるが、どんどん暗い感情で塗りつぶされていく。
(チーム全体のことなのに先輩は手伝ってくれないんだ……それに西田さんは時短だから知らないけど、私ただでさえ残業続きなのにこれ以上業務量が増えたらどうなっちゃうんだろう……)
ぐるぐると考え込んでいたあやめの脳内に、突然シェンの笑顔が浮かんだ。
(そうだ! ここ一ヶ月くらいシェンさんとお話の練習してるし、相談してみなきゃ……!)
どんよりと自席に戻ったあやめは、今一度席を立つ。
座ってすぐに立ち上がったあやめの不審な行動にチーム全員の視線が集まった。
原なんかは「どしたの市橋ちゃん〜」と面白そうにニヤニヤ笑っている。
西田のデスクを見ると、彼女もあやめを心配そうに見つめていた。
今だ、言わなきゃ。自分を奮い立たせたが、あやめは結局そのまま自席に静かに座り直した。
(だって、一回引き受けた仕事を出来ません。なんて言えないよ……きっと失望されちゃう)
だめだ、やっぱり相談できない。私がやるしかない。
息苦しさに気づかないふりをしてあやめは作業に向き直るが、両手と思考回路はバグったように同じことばかり考えてしまっていた。
あやめがやっといつものペースを取り戻してきた頃には16時になり、西田は「お疲れ様、じゃああとは皆でよろしくね」と笑顔で退勤していった。きっとこの後は保育園のお迎えだろう。
(西田さんと違って私は一人暮らしだし、少し帰りが遅くなるくらい我慢しなくちゃ)
あやめは自分に言い訳をして、無理やり手を動かした。
今日は早くシェンに会って話を聞いてもらいたい。きっとまだ上手く話せないだろうけど、シェンなら優しく聞いてくれるはず。
すると西田が退勤して十分経ったくらいだろうか、同僚の原が「市橋ちゃん~」と椅子ごとこちらに滑ってきた。
「今日、私さぁ、ネイルの予約入れてたの忘れてて、18時からなんだけどさぁ」
「う、うん」
「でも仕事まだ全然終わってなくて~」
「そっか……」
原さん、今日も先輩や上司に隠れてスマホ触ってたもんなぁ、という小言はぐっと飲み込んだ。
この後に続く言葉はお決まりで、あやめがいま一番聞きたくないものだった。
「だから市橋ちゃんに残りお願いしたいんだけどいい〜? 17時までは私まじでめっちゃ頑張るから! それでも残った分をお願いしたいんだけど、だめ〜?」
原はこの二ヶ月であやめに一度も断られたことがないので、了承してもらえるのが当然のように軽いノリでお願いしてくる。
いつもなら少しの抵抗で考えるそぶりをするあやめだったが、西田からの話で疲れていたあやめは「分かった」とすぐに頷いた。
とにかくもう誰からも話しかけられたくなかった。
だってこれ以上誰かのことを悪く思いたくないから。
近くで聞いている先輩もちらりとあやめ達の様子を見ただけで全く我関せずだ。
「やった! さんきゅ! 持つべきものは優しい同僚だよね! マジ感謝!」と変わらず軽い言葉で感謝を述べながら、原は再び椅子で自分のデスクへ戻っていった。
デスクに戻った原を横目で見ると、さっそくスマホでどこかに連絡しているようだった。フリック入力の速度が凄まじい。
原のやり口はいつもこうだ。
上司である西田が帰った後でしかお願いしてこないから、西田も気づかないんだろう。
今日も残業かぁ、と凝り固まった首を回して、ギュッと締め付けられた胸の奥に余計息が苦しくなった気がした。