五月十日 金曜日 21時 (1)
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「もう21時過ぎ……」
一週間の仕事を終えた、金曜日。
残業続きの疲れをひきずって帰り道を歩く市橋あやめは、思わず呟いた。
四月に新卒入社した会社で働き始めて一ヶ月。
普通なら、まだ定時退社で帰れる立場のあやめが週に三、四回も残業している理由は簡単だ。
あやめと同じく四月に新卒入社し、チームに配属された同僚の『原』という女性に仕事を押し付けられているから。
「市橋ちゃんお願い! 今日彼氏と予定あってさ〜」
「え、原さん今日も? 昨日も友達との用事だっていうから私が代わりに残業したんだけど……」
「ね〜! まじでごめんって! 来週は真面目に仕事するから!」
派手な見た目で声の大きい、いわゆるギャルっぽい原にそう言われると、あやめはつい怯んでしまい言い返せなくなる。
そのため、いつも理不尽な理由であやめは残業を余儀なくされていた。
(原さん、今週ほとんど私に仕事押し付けて帰っちゃった……おかげで私は残業続き)
交友関係の広い原とは裏腹に、あやめは人との関係を築くのがとても苦手だ。
親との関係も良好とは言えず、彼氏もいなければ友人も少ない。
それに加えて、就職ととも実家を離れ、地元から電車で四十分ほどの場所に一人暮らしを始めたあやめは、この土地での友人は皆無だった。
つまり、仕事の愚痴や相談をできる相手は皆無という心細い状況で毎日生活していた。
職場の上司である『西田』に今の状況を相談する手段もあるが、西田は育児で時短勤務中。
いつも定時より早めの時間に帰ってしまうので、当然あやめが残業していることを知らないし、原があやめに仕事を押し付けていることにも気づいていないだろう。
さらにあやめのチームにいる先輩二人も、我関せずな対応で、あやめがどれだけ残業していようと見て見ぬふり。
先輩は二人とも男なので、男性に苦手意識のあるあやめは自分から相談することも上手くできない。
元々人に相談するのが苦手なあやめにとって、ますます相談しづらい環境だった。
(それに、原さんも根っから悪い人なわけじゃないはず……こんな私にも明るく話しかけてくれるんだし)
加えて、幼少期から親に「他人の悪口は言わないこと、良いところを見るように」と厳しく教育をうけてきたあやめにとって、他人にネガティヴな感情を抱くことは罪悪感に繋がり、辛い気持ちを増幅させるのだ。
その結果あやめは、仕事を押し付けてくる原に対して本来感じて当然なはずの憤りを悪い感情だと思い込むことに。
代わりに「引っ込み思案な自分にも話しかけてくれる」と原の良い部分だけを脳に刷り込み、あやめは自分の感情を抑え込む日々を送っていた。
(明日は土曜日だし、ゆっくり寝ちゃおう)
知人のいないこの土地で、あやめが仕事以外で外出することは滅多にない。インドアだし、一人でどこかに遊びに行く勇気もないからだ。
地元の友達や家族ともほとんど連絡を取らない一人きりの生活に、あやめは心のどこかで寂しさを感じていた。
「……ん? ここ、どこ?」
重たい体を引きずって足元ばかり見ながら歩いていたあやめがふと顔を上げると、見覚えのない景色が広がる。
慌ててあたりをぐるりと見回すと、シャッターが下りた店らしきものがずらりと並んでいる。
どうやら寂れた商店街に入ってしまったみたいだ。
方角的には帰宅できる道だ、と疲れ切った頭で判断したあやめは、道を戻るのも億劫なのでそのままシャッターだらけの商店街を突っ切ることにした。
(思ってたより長い商店街だ……それに真っ暗でちょっと怖いかも……)
道を間違えた時は動揺で気づかなかったが、歩き始めると商店街の暗さに徐々に歩幅が小さくなっていく。
街灯も設置されてはいるが、普段誰も通らないのだろうか、灯りがついているものはない。
夜風が吹くたびに、真っ暗な商店街のどこかで物音がする。葉の擦れる音や、老朽化した店が軋んでいるだけだと頭では理解していても、あやめの心は恐怖に苛まれる。
周辺を警戒しながら進むあやめは、前方に薄らと灯りを見つけた。
(良かった……! ひとまずあそこまで行けば、ちょっとは怖くないはず!)
怖さからだいぶ遅いペースで歩いていたあやめは、光を見つけた安心から咄嗟に小走りになる。
灯りがついているなら、誰か人がいるということだ。知らない道を歩く心細さや、暗闇の恐怖から解放されたい……!
「……これは、中華料理屋?」
最終的にはほぼ全力で灯りの元まで走ったあやめは、たどり着いた先の明るい看板を見上げ首を傾げた。
煌々と光り輝く頭上の看板は、ラーメンどんぶりの縁に書かれていそうな「いかにも中華です!」っぽい柄が書かれているだけで、端から端まで探してみても店名は見当たらない。
何のお店か考えたあやめだったが、自分の疲れた脳では答えを導くことは不可能だと悟り看板から目線を落とした。
ただでさえ疲れが溜まった体で全力ダッシュしてしまったのだ、このまま残りの商店街の暗闇を歩き切る精神力はない。息が整うまでこのあたりで休憩しよう。
意識的に深呼吸を繰り返しながら、あやめはふと店内に視線を向けた。
「あ、」
あやめの口から思わず声が漏れる。
なぜなら、視線を向けた大きな窓から見える店内に男がいたからだ。
しかもあやめがこの店に走ってくるところから見ていたようで、男はきょとんと驚いた顔をしていた。
(ど、どうしよう!? お店の人かな? こんな夜遅くに走ってきて、私完全に変人だよね!?)
男がいたことに焦ったあやめがどうしようかと身じろぎしていると、男はすぐに表情を変え穏やかな笑みを浮かべた。
そしてこちらに向かってひらりと優雅に手を振ると、今まで座っていた円卓の席から立ち上がる。
(謎にフレンドリーだけど、私たち初対面だよね!? ていうかお兄さん背が高すぎる!)
店の出入り口に近づいてくる男は、距離があっても分かるほど背が高い。
精巧な刺繍があしらわれた黒い中華服のようなものに身を包んだ男は、口元に浮かべた胡散臭い笑みも相まって、怪しいオーラが漂っている。
先ほどとは違いするりと細められた目や、つんと高い鼻筋、薄い唇が綺麗に弧を描く美しい顔をした男。
センターで分けられた長めの前髪、緩く結われた黒い後ろ髪が男が歩くたび肩甲骨あたりでふわりと揺れる。
(胡散臭い雰囲気だけど綺麗な人……まるでモデルさんみたい……)
こちらに歩いてくる男にぼうっと見惚れていると、店の自動ドアが開き、ベルが軽快に鳴る。
男は固まったままのあやめの様子を気にして、こてりと首を傾げた。両耳に付けられた重そうなピアスが一緒にゆらりと揺れる。
「あ、あの! えーっと、こんにちは!」
男にじっと見つめられ咄嗟にあやめの口から出たのは、裏返った声と場違いな挨拶だった。
(やばい……! 絶対変な人だと思われた……!)
あやめの脳内はパニックだ。
しかし、目の前の男は明らかに焦っているあやめの様子を見て、ケラケラと笑い出した。
「ふふ、変なの」
「え?」
「だって今は晩上好の時間ヨ」
「は、はぁ……」
(「わんしゃんはお」って言った? どこの言語……?)
愉快そうに笑う男の第一声に、あやめは思わずぽかんと口を開けた。
聞き慣れない言語と、カタコトの怪しい喋り方。
男の胡散臭さは鰻登りだ。
だとえ男がどれだけ美人だとしても。
(絶対怖い人だ、とっとと通り過ぎれば良かった。)
今から逃げても遅くない。ぺこりと礼をして男の前を通り過ぎようとしたあやめだったが、最悪なタイミングでお腹がぐぅ。と空腹を伝えてくる。
あやめが最後に食べ物を口にしたのはお昼休みの小さなおにぎり一つだけ。
そこからご飯を食べる暇もなく、21時過ぎまで働いていたのだ。
体が空腹を訴えた理由はもうひとつ。
自動ドアを開いたことによって、店内から美味しそうな香りが漂ってきたから。
やっぱりここは中華料理屋で、男は店員なんだろうか?
あやめが恥ずかしさと焦りでぐっと押し黙っていると、男は満面の笑みを崩さぬまま、屈んであやめを覗き込んだ。
「お姉さん、中華料理好き?」
「え?……は、はい!」
「ここ中華料理屋だから、食べていきなヨ!」
「はい!?」
初投稿で、全23話完結です。
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