ある騎士の手記 ~民話『王様と竜』より~
本作に登場する『王様と竜』は架空の民話であり、実在の書籍や古典作品とは関係ありません。
本作の出来事が伝聞によっていろいろ抜け落ちたり混同されたりしたすえに、のちの世で語られる民話の形になるという設定だけの存在です。
お嬢様の身辺警護役を仰せつかっている私は、侯爵閣下じきじきの特命により寝室へ立ち入ることを許され、すやすやと寝入っておられるお嬢様に気づかれぬように巨大なクローゼットの内部へ潜り込んだ。召使いの間で「夜な夜な寝室から物音がする」との噂が立っており、その“悪い虫”の噂が閣下の御耳にも届いたのだ。色とりどりのドレスに紛れ、甲冑は着けず(がちゃがちゃとうるさいからだ)、長剣ひと振りのみを抱えて、月夜の寝室を小さな鍵穴から覗き見る……。青白い月明かりが優しく寝床を撫で、枕に包まれるお嬢様の美しい寝顔を照らし出したとき、鳥の羽ばたくような音とともに巨竜の影が月光を遮った。噂の主が空から来て窓に手をかけ、人の姿で室内に降り立つと、その気配に応じてお嬢様も天蓋付きの寝床から上半身をお起こしになった。
男女の逢瀬というものを私は見たことがなかったが、少なくとも目の前で行われているそれは、話に聞くよりもずっと穏やかで静かだった。暗黒の天空をゆく青い月だけが奏でる無音の調べのもと、口づけはおろか愛の言葉さえ交わすことなく、互いに立ったまま微動だにせず、いつまでも、いつまでも、固く抱き締め合っている。やがて東の空のかすかに白む頃、竜が沈黙を破った。
「愛しい人、じきに夜が明けます」
「行かないで。あと少しだけ、このままでいて」
「次の夜更け頃、またお目にかかりましょう」
「必ず……」
「ええ。必ず……!」
人目を忍び、吐息や衣擦れの音ひとつ漏らせず、朝になれば別れざるをえぬ二人……。こちらの私情はともかく、なんと絵になる情景だろう!相思相愛なのは充分すぎるほど分かった。任務がなければ朝まで観客でいたかったが、潮時だ。クローゼットの扉を蹴って鞘から剣を抜き放ちつつ躍り出てみれば、意外にもお嬢様が竜を庇った。
「無礼者!」
私は剣を引き、反射的にひざまづいた。
「御父上の命により控えておりました。ご無礼をお許しください。ところで……」
立ち上がり、剣を構え直す。
「……ご婦人の寝所に立ち入る無礼者がもうひとり居るようですが」
逆光の中で金色に輝く竜の眼が私を見、私も竜の眼を見据えた。
「こそこそと逃げぬところを見るに、お嬢様への愛は本物らしいな。だがこの私、アローソ・ド・コンバルこそ、お嬢様を愛している!」
「!!」
「貴様、その愛が本物ならば、なにを恥じることがあろうか!」
「……なんだと?」
「ここで貴様を討てば、お嬢様を悲しませることになる。さりとて討たずに逃せば、閣下の騎士団が地の果てまでも追いかけ、けっきょく貴様を討つだろう。私はお嬢様を愛する。愛するがゆえ、貴様を助ける!」
私は剣を鞘に納め、お嬢様に向き直った。
「お嬢様。密会のつもりでしょうが、噂はすでに広まり尽くしており、御父上にも民にも隠し立てはできません」
「ではアローソ、どうせよというの?」
「騎士の名誉にかけて、私にお任せ下さい」
翌朝、私は私の見たことを包み隠さず侯爵閣下にご報告申し上げ、御前に引き出す約束の竜の到着を待った。万全の警備が整った城門で腕組みをしていると、竜は黒い甲冑を纏う長身長髪の美男の姿をとり、ひとりで歩いてきた。私と並んで堀を渡り、城内へ入り、朱のカーペットを踏みしめて、幾百もの槍が左右に林立する謁見の間を玉座の前まで進み、ひざまづく。閣下に対してわずかでも無礼を働けば即座に首を斬り落とすつもりでいたが、所作に於いても言葉遣いに於いても一片の無作法もなく、竜は侯爵ご夫妻と家臣達とお嬢様本人とが見下ろす前で正直にお嬢様への愛を告白した。騎士として、私は誤魔化しや見て見ぬふりを好まない。正直に出頭し、正直に話す。ここまでは私の教えたとおりだが、告白の方法はやや意外だった。
「侯爵閣下、私は人間達が“帰らず山”と呼ぶ山の峰に棲む竜です。本日は閣下に我が首を差し上げるべく参りました」
「ほほう、自ら首を。それはいかなる理由かな?そちが竜なら、娘を攫い、残りの皆を炎で焼き払うこともできように」
「事の始まりは空中散歩の途上。お城の窓から麗しい寝顔を見かけ、私は毎晩、窓辺へ立ち寄るようになりました。麗しの寝顔……ただそれだけで充分だったのです。竜の一生に比べれば、人の命など儚いもの。まして少女ともなれば、花のつぼみが咲きほころび、しおれて散るまでのひとときを慈しむがごとき密かな楽しみでした。ところがあるとき、たまたま目を覚ましたご息女に姿を見られてしまいました。しかしご息女は人を呼ぶどころか、ごつごつした鱗だらけの私に触れてさえ下さいました」
「それで逢い引きを?」
「はい。今晩こそは山奥のねぐらへ連れ去ろうかと、幾度考えましたことか……。ですが、この少女にも父母があろうと思い至りますと、我が恋心のみによってご両親を悲しませることはできません。また竜族には“人間を恐れよ”との言い伝えもあります。ひとりひとりは脆弱でも、十人殺せば百人が、百人殺せば千人が復讐に現れ、決してあきらめることがない、ゆえに人を恐れ、人を避け、家畜や財物にも手を出すべからず、と。……侯爵閣下、私はいにしえの言い伝えに背き、人の世界に近寄りすぎたせいで、愛のために退くことも進むこともできなくなりました。この恋叶わぬなら、幾百年、幾千年を苦しみのうちに生きたところで何の意味がありましょう?どうか我が首を門前に掲げ、ご息女を愛する一頭の愚かな竜がいたと語り伝えて下さい。さすれば今後、にどと同じ過ちは繰り返されますまい」
侯爵閣下は夫人のお座りになる側の肘掛けにもたれた。
「どうかな?女の勘では。この男、愛娘をかどわかすつもりではあるまいか?」
「あなたがこの者の首を刎ねるとおっしゃるなら、わたくしはあなたの首も刎ねさせて、首と首とをすげ替えたいですわ」
「ふぅーむ。……娘よ、いずれおまえを王家に嫁がせるつもりでおった。何故だか分かるか?」
「はい父上。お家のため……です」
「そうだ。我が領地は弱小ゆえ、絶えず侵略の脅威にさらされておる。だが王家とつながりを持てば、レサレスに攻め込む者は王家の敵となる。要するに、おまえの嫁ぎ先が我が家を守ってくれればよいのだ。ときに竜よ、そちはレサレスに災いあるとき、我が力になると誓うか?」
竜はかしこまった。
「それでは日を改め、神の御前で誓ってもらうとしよう」
「ありがとうございます閣下!!」
家臣達がいっせいに拍手する中、竜が横目でこちらを見たので、私は「ほら、素直に想いを打ち明けてみるものだろう?」と肩をすくめてみせた。
お城を去る竜が本来の姿に変じて舞い上がったとき、巻き起こる暴風に衛兵達は驚嘆の声を上げた。
お嬢様と竜との婚礼は都からの使者を招いて盛大に行われたらしいが、詳しいことは知らない。身辺警護のお役目はそのままに、竜を捕らえた褒美として砦を授かったからだ。到着してみれば、それはせいぜい宿泊もできる見張り塔といったていどの廃墟だった。お城と“帰らず山”との中間地点にある砦の主に任命された理由はよく分かる……一万の騎士を犠牲にして竜の首を得るかわりに、閣下は一万騎ぶんの戦力をもつ竜を配下になさった。そして同時に、大切なご息女を竜に引き渡す結果にもなった。侯爵家へ竜を引き込んだのは私だ。あの晩、私が竜と刺し違えなかったばかりに、閣下は国王陛下から目をつけられる危険を冒して竜を召し抱えるはめになった。だから、他ならぬ私の責任に於いて“帰らず山”を監視し、もしも竜がレサレスの地や王国に対して害意あるときは知らせよ、というわけだ。
暮らせども暮らせども“帰らず山”に変わった様子はない。砦の守り手はわずかに三名で、お城から毎日違う召使いが派遣されてきては蜘蛛の巣を払い落とし、汚れた衣類を回収し、私と部下達の食事を用意した。囚人のごとき日々の気晴らしに街へ繰り出せば『王様と竜』という歌が(侯爵家と王家とを取り違えたまま)流行っていたが、どの場面でも身辺警護の騎士の出番はなかった。愛し合う二人は結ばれました、めでたしめでたし。誰の歌も皆そこで終わっている。……神よ、騎士の愛は、愛する人が誰の腕に抱かれようとも変わりはしません。けれども私は、お嬢様に仕えた日々が報われることを、心のどこかで望んでいました。砦の窓からよく見える“帰らず山”の山奥の、いずことも知れぬねぐらで仲睦まじく竜と暮らすお嬢様の姿に思いを馳せるたび、そのようなことをつい考えて胸が張り裂けそうになる自分が恥ずかしくてたまらない。騎士は誇り高くあろうとすれば、その代償として孤独を背負い込まねばならぬのですか?そうまでして守らねばならぬ誇りとは何なのでしょうか……?
それから六年ののち、あの晩を思い出すような青白い月が輝く夜のこと。
就寝前の祈りを済ませ、寝床に入り、しかしなかなか眠れずにいた私は、窓の外に何かがぶつかる音で飛び起きた。見れば、窓枠にしがみつく両手があるではないか!両手首を掴んで引っ張り上げてやると、竜の角と翼と尾をもつ幼い娘が抱きついてきて、その勢いで私は娘もろとも寝床の上に倒れた。
見知らぬ娘は私を「おとーさま!」と呼んだ。鼻と鼻とが触れ合わんばかりの近さで見る娘の顔は、あの頃の……互いに幼かった頃のお嬢様と瓜二つで、あまりの懐かしさから、つややかな唇に唇を重ねてしまいたい衝動に駆られたが、年端もゆかぬ子供だぞ、と自分自身に言い聞かせ、どうにか理性を保った。
「お父様だって?私に娘はいないよ」
「あろーそ・こんばるさまですよね!やねのうえのはたにもんしょうがみえました!」
「いかにも」
「やっぱりおとーさまです!あっ……おとーさまが、おとーさまにこれをわたせと!」
「“お父様が、お父様に”?」
娘が差し出した封書には見間違えようもない侯爵家の紋章があった。手紙を封印するとき封蝋に紋章付きの指輪を押し当てたのだ。そして侯爵家の紋章を刻んだ指輪は誰でも持っているような代物ではなく、婚礼の際、侯爵家の一員となった証として、あの竜に与えられたと聞く。手紙を読んでみれば、まさしく竜からの伝言だった。
“アローソ殿、いつか借りを返そうと思っていた。あなたの仲介がなければ結婚はなかったのだから、その子はいわば、あなたと私と彼女の娘だ。竜と人の血を引く娘は、人間の世界で人間とともに生きるべきだと考える。竜の身である私に代わり、広い世の中を見せてやってほしい。山を恋しがるようならときどき帰らせて、しかし尾行は付けないでくれ。どうか娘をよろしく頼む”
「……おとーさまがふたりいてはいけませんか?」
私が悩まされていた孤独の正体は、どうやら職業病のようだ。仕えるべきレディを求めてしまうのが騎士の性らしい。私はひざまづき、寝床に腰掛ける娘の柔らかい手に口づけた。
十年後、娘の産んだ大きな卵から、私とお嬢様の血を引く子供が孵化した。
おわり