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彷徨

作者: 緑川 新一郎

冷たい風が、足元から吹きあげてくる。ビル風というやつか、秋分の日もとっくに過ぎたというのに、僕にはその風は心地よく感じられた。屋上のフェンスに顔を押し当てるようにして下の方を見た。向かいの高層アパート・・・・この建物より三、四階低いが・・・・との

狭い隙間にある芝生のちょっとした敷地に、子供用のすべり台が見える。そして、アリのように不規則にちょこまかと動く人々。 向かいのアパートの三階の一角で、洗濯物を取り込んでいる主婦の姿を視界の隅に認めた僕は、こっちを見られるのを恐れて、慌てて視線を上へ上げた。その向かいのアパートの奥にも、同じ高さの高層アパートが四棟並んでいる。 急速に明るさが失われていく空を遠く眺めると、歪んだオレンジ色の太陽と、その直ぐ下に拡がる山々がかすかに見えた。十七階建ての高層ビルから見た夕焼けは、普段のよりさらに雄大さが増しているようだ。僕はこの、時間が静止していながら動いているような奇妙な世界に厭くことなく浸った。

突然、車の急ブレーキ音と、続いてバカヤロー、という怒鳴り声が聞こえた。僕はこの無音の世界の乱入者にひどく驚いたが、それは一瞬のことだった。僕は再び自分の世界へと戻った。

・・・・富沢は、バカヤローの一言も掛けてもらえなかっただろう。

明るい音楽にのった牛乳販売車の宣伝が、僕を自分のいるべき世界に引き戻した時、既に夜の帳は降りていた。僕は西の方の夕焼けの残りかすに背を向けて、非常階段へと歩いた。



「ただいま」

家の扉をことさら強く開けながら、僕は怒鳴った。

「あら、今日もまた随分遅いのね」母が台所から顔を出した。「このところ、ほとんど毎日じゃない」

「うん。ついつい止められなくてね。どうしてもきりのいい所までやっちゃうんだ」

「そう…。新しい問題集が欲しくなったら言いなさい、いつでもお金出してあげるわよ」

母との会話をそこで打ち切った。いつも同じような内容だ。母には、少し離れた総合図書館で毎日受験勉強している、と言ってある。だから、僕が多少疲れた顔をしていても、不機嫌そうな顔をしていても、なんの疑いもなしに気を使ってくれる。その図書館は広い自習室があって、僕と同じように高校受験の勉強をしている中学生も一杯いる。

僕は二階に上がり、鞄を放り投げ、ベットにどさっと倒れこんだ。ラジカセに手を伸ばし、適当なFMを付けて、近くの棚の本を手に取った。何とかいう教授が書いたもので、ある中一の男子生徒の自殺について研究したものだ。豪華本で、この少年の一生・・・・果たして一生と呼べるかどうか分からないが・・・・について、心理学的分析というやつを加えながら詳しく書いている。自殺の原因を無理矢理社会の不条理に持っていこうとする大多数のとは違い、あくまでもその判断を読者に委ねている。僕のお気に入りの本の一つだ。

隣りの部屋から交響曲が響いてくる。妹が掛けたらしい。僕と違って有名私立女子中学にすんなり入った妹は、吹奏楽部の部活で夜遅く帰宅する。明かりも付けずに本のページをぱらぱらとめくっていくうちに、僕は眠ってしまったらしい。 ・・・・気がついたら窓から日が差していた。



「よお、元気してる?」

僕が教室に入ってきたのを見付け、高橋が寄って来た。授業開始二十分前で、まだ数えるほどしか生徒はいない。高橋と一緒に話していた女子達は、好奇心から僕の方を盗み見ている。高橋は、今はまともに学生服を着ているが、普段はどっかのトレンド・マガジンから抜け出てきたような格好をしている。背も高く、いろんな話題で人を惹きつける魅力を持っている。そんな彼が、至って地味な僕と会話するのが女子には不思議でたまらないらしい。

「ああ…」

僕は曖昧な返事をした。高橋が僕に話し掛ける時は、大抵僕の表情が曇っている時だ。高橋のそういう優しい面を知ってから、僕は彼とただのクラスメート以上の仲になった。高橋は僕の前の席に後向きに座り、僕の顔を覗きこむようにして言葉を続けた。

「いい加減元気だせよ。いつまでもそんなんじゃあ、富沢だって喜ばないぞ」

「別に富沢のことはもういいんだ」

「じゃあ、なんでここんとこそう暗いわけ?俺にはまだ落ち込んでるように見えるぜ」

僕はなんとも返事が返せなかった。そんな僕を見て高橋は、

「まあ、とにかくしっかりしろよ。授業中までぽーっとしてたんじゃ、俺が期末の時困るからな」と笑いながら肩をたたいて、女子の方へ戻った。

そんな高橋の姿を無意識に目で追いながら、僕は一週間前、事故で死んだ富沢の事を想った。

富沢はクラスのヒーローだった。しかも今時分の剽軽なヒーローではなくて、本当のヒーローだった。成績も優秀で、スポーツも万能、性格も優しさと強さの両面を兼ね備えていた。野球部での練習を終えて自宅に帰る途中、富沢は居眠り運転のダンプに轢かれた。警察の話では、ほぼ即死だったという。 富沢とは小学校の時からの友人だった。いや、正確に言うと塾で知り合った仲だ。僕も富沢も中学受験のための塾に毎日通っていた。その時は僕の方が成績は優秀だったし、富沢はもっと大人しかった。 ・・・・女子のかん高い笑い声が響いた。高橋がなにかジョークを言ったらしい。 結局二人揃って、私立中学の受験に失敗し、同じ公立中学に進学した。それから富沢は急に変わった。大人しいのが取柄だったのに、バスケットをやってガッツをつけ、勉強も人一倍熱心に取り組んだ。小学校時代の友人が富沢を見たら、誰だか分からかったに違いない、それほど人が変わっていた。 富沢の両親から訃報が届いた時、僕はなにか別の世界の事のように話を聞いていた。棺桶のなかの青白い富沢の顔を見ても、僕には何の感情も浮かばなかった。まるで儀式のように富沢が墓に入るまで黙って見守った。 富沢が死んでから時間が立てば立つほど、彼がいないということが実感となった。僕が他人と会話する数が、目に見えて減っているのが分かったからだ。 僕は、彼の死以前から『死』について興味を抱いていた。しかし確かに富沢がいなくなってから、あの高層アパートへ足を運ぶ回数が増えたことは否めない事実だった。

・・・・予鈴が鳴った。待ち構えていたかのように、担任の教師が教室に入ってきた。

「起立!」

日直の僕はそう怒鳴ると、頭を振って回想を止め、立上った。



高橋に言われた日からちょうど一週間後が、模擬テストの日だった。僕の通っている中学はどちらかといえば進学に熱心な学校で、毎月一回テストを設けていた。テスト前の一週間、僕はあの屋上に行くこともなく、真面目に学校に通った。

当日、僕ははっきり言って学校に行くのが嫌だった。数学、国語はいいとしても英語がちんぷんかんぷんだ。適当に知ってる単語を並べ、いつも胡麻かしている。その日も溜息をつきながら帰宅した。 自宅は学校から十五分位の所にある公団の住宅だ。ほぼ私鉄の駅を挟んで学校と反対側にある。いつもより時間は早かった。 「お帰りなさい。おやつは冷蔵庫にケーキがあるわ」

母は僕がいつもより早いのに驚いていたが、僕がケーキを食べ始めると、見ていたテレビを消し、テーブルの反対側の椅子に座った。

「どうだった?試験」

「…まあまあ」僕は月並みな答えを返した。

「どうするのあなた。もっと大きな塾へ行きたければ行ってもいいのよ」

母が受験に関してどうこう言うのは珍しい。僕は週に一回、近くの団地に住む元英文科卒のおばさんに、英語を習っていた。しかし中二の三学期からだから、今どうにか中二課程の英語を復習し終わったところだ。

母は僕の気乗りしない返事が戻って来ると、軽く溜息をついて呟いた。

「富沢さんの所だったら心配しなくて良かったのにねえ……」

胸が疼いた。僕はごちそうさま、と会話を打ち切ると、階段を上がり、二階の自分の部屋の扉を荒々しく閉めた。



「ひやっほう!やったね、俺びりじゃねえ!」

「畜生~!ここやっぱり最初書いたので、合ってたんじゃねえか」

テスト終了後三日で、結果が返ってきた。男子が喚きちらし、女子が他人の結果を見てきゃあきゃあ声を合わせて喜んでいるなかで、僕は黙って小さな紙切れを見つめていた。コンピューターで点数、偏差値、順位が書きこまれている。その黒く並んだ数字は、僕が真ん中よりちょっと上の順位にいるということを表していた。

全員に結果を配り終えた教師が、極く極く差障りのない激励の訓示を垂れている。僕はその紙をぽおっと眺めながら、教師の話を聞き流していた。僕には成績を見せ合うような友達はいない。富沢なら見せられただろうし、そして彼は多分にやっと笑って、頑張ったじゃん、とか声を掛けてくれただろう。もちろん富沢の順位は一桁である。

「頑張ったじゃん、前回より上がってるんじゃない?」

富沢かと思い、一瞬心臓が跳ね上がったが、横から覗いているのは高橋だった。高橋は僕がたまにぽおっとしていると、こうやっていつも驚かす。高橋は自分の紙切れをひらひらさせて言った。

「俺はどうやらびりじゃないらしい。緑川サンキュー、また今度も頼むわ」

高橋の順位は後ろから一桁だった。僕は高橋と知り合ってから、結構高橋に勉強を教えている。と言ってもせいぜい質問に答えるくらいだが。高橋は別に落胆の表情も見せず、他の連中の間を回って冷やかしている。

・・・・ただぼんやりと結果を眺め、喜びも落胆もしない僕。一体僕は何なんだろう?

回りの喧騒とは裏腹に、僕の気分は益々滅入ってきた。

結局その日の授業はほとんど頭に入らなかった。授業終了のチャイムが鳴ったと同時に僕は荷物をまとめ、学校から飛び出した。

初めはどこか公園ででものんびりしたいと考えていたが、そんなことをしても空しいだけだと思い直し、足を家へと向けた。

「ただいま」

「お帰り。おい、ちょっと来い」

父の声だ。父は東京の二流会社のサラリーマンだ。どういうシステムなのだかよく分からないが、時々平日でも家にいたりする。僕はその時の父の声に、嫌な予感を抱かずにはいられなかった。

「なに?」僕は、居間で新聞を読んでいる父の傍に腰掛けて聞いた。

「ちょっとお前に話がある」

この言葉を聞けば、父の話とやらが楽しい話ではないことは誰だって分かる。父の口調に確固たる意志が秘められているのを敏感に感じた取ったので、僕は大人しく父の言葉に従い、手前のソファに座った。

「今日確かテストの結果が戻って来る日だろう。見せなさい」

新聞をテーブルの上に広げ、顔だけ僕の方を見ながら、父は言った。まだ頭は薄くなっていないが、また少し腹が出てきたようだ。僕は黙ってポケットからくしゃくしゃになった紙を父の読んでた新聞の上に置いた。父は身じろぎもせずその紙を見つめた。

「……どうするんだ、一体?」数十秒の沈黙の後、父は口を開いた。「もしレベルの高い高校を狙うなら、もっと頑張らなければ駄目だぞ」

こういう時の父は大嫌いだ。普段は優しいのに、時折り頑固になる。どうも今日の父は後者のようだ。

「さあ。どうしようか……」

ただ今日は僕もあまり虫の居所が良くなかった。大袈裟に肩をすくめ、ついつい父を馬鹿にしたような口調で言ってしまった。

「なんだその口の聞き方は!」

どん、とテーブルを叩いて、案の定父は激した。 僕は非常に好戦的な気分になっていた。家を追い出されてもいいから、父と徹底的に戦いたかった。僕は父の次の言葉を待ち構えた。

ところが父は大きな溜息をつくと、それ以上こぶしを振り上げなかった。

「いいか、新一郎。この日本ではな、学歴がものを言うんだ。父さんはな、別に好きで今の会社に勤めているわけじゃないんだ。分かるだろ?お前にそういう思いはさせたくないから、こうやってお前のことを考えてやっているんだ」

醜かった。頭を項垂れて背を丸めて、ぼそぼそと僕に説教する父は、どこにも父の威厳は見られず只々醜いだけだった。その上僕は、父のその陳腐なぼやきに、ひどく傷つけられていた。テレビドラマにでも出てきそうなこういう説教は、傍から見物して同情するのはいいが、聞かされている身にとってはたまったものではない。父はどうやら少し酔っているようだった。

「そんなの父さんの勝手じゃないか!」

僕は父から目を外らし、家を飛びだした。



家からちょうど九分、学校から歩いて五分位で、私鉄の駅に出る。そこから郊外に向かって三駅ほど乗れば図書館があり、都心に向かえば二駅で例の高層団地が見えて来る。

商店街の雑踏を抜け、駅に出た。この商店街の熱気は、いつも僕にはひどく空虚なものに聞こえる。切符を買って改札を通った時、上り列車通過のアナウンスが聞こえた。急行のすぐ次に、列車が来る。

僕は勢いでここまで来てしまった。どうやら自然とあの高層アパートに足が向いてしまったようだ。最短区間の切符を買い、改札を抜けたところで足が不思議と止まった。

正直言って、僕はその時なぜか迷っていた。何に迷ったのかはよく分からない。 上りの急行列車がぽつんと小さく、レールの上に現れた。 僕が上りホームへと地下通路へ動きだした足を止め、振り向いた瞬間、上りホームの端にいるベージュのブレザーを着た中学生らしい女の子が目に入ってきた。僕の興味を引いたのは、雰囲気がどことなく自分に似ているような気がしたからである。しかも、屋上にいる自分に・・・・。

一瞬の観察の内、彼女の考えが手に取るように分かった。いや、分かった気がした。

・・・・彼女は列車に飛び込む気だ!

急行列車は、その輪郭を急速に巨大化させていた。僕は慌てて地下通路を駆け降り、上りホームへと上がった。だが、このままでは僕が階段を登り切る前に、彼女は身を宙に踊らせるだろう。

「ねえ、きみ!」

僕は思わず叫んでいた。彼女はびくっと身体を震わせて振り向いた。抗議するような視線で僕を睨んでいる。怒ったような顔だが、どこか美しく知的な雰囲気を感じた。その瞬間、列車が警笛をけたたましく鳴らしながら通過し始めた。

「ちょっと話があるんだけど」

階段を登り切って呼吸を整えてから、僕は他に適当な言葉が浮かばず、そう彼女に言った。彼女は黙り込んでいる。見知らぬ人から声を掛けられているのだから、当然と言えば当然だ。僕は彼女の心中を読めたかもしれないが、彼女は僕の心中をまったく知らないことに気がついた。アナウンスが次の普通列車が入線してくることを告げている。

「えっと…。どこまで乗るのかな?」

「……次の次までよ」

初めて彼女が答えてくれた。僕は彼女と一緒に列車に乗った。



整然と並んだ商店街の中の一軒の喫茶店に入った。彼女は列車の中でも一言も話さなかったが、どうやら警戒しながらも僕に興味を持ったらしく、黙って一緒に喫茶店まで来てくれた。この駅で降りるのはもう十数回になるが、今までとは違った目的で降りると、また街も違って見えた。

僕は自分の意志で喫茶店に入るのは初めてだったので、メニューに載っている値段に驚いたが、どうやら二人分くらいなら払えそうだと分かって、ほっとした。学生服のまま家を飛び出したので、財布の中身は心細い。

「何にする?」

まるでお見合いだな、と僕は思った。棘々しい雰囲気を除けば、この緊張感、好奇心は話に聞くそんな感じだった。

「どんなものがあるの?」

彼女が聞いた。僕はメニューを彼女の方へ軽く投げた。そのメニューは水の入ったコップにぶつかってさざなみを立て、方向を変えて彼女の膝へと落ちた。彼女はメニューを手に取って、質問するような目で僕を見つめた。

「ただのメニューだよ」

彼女はメニューを開いた。逆さまのまま!

僕ははっと息を飲んだ。彼女の異常な警戒心の理由が分かったからだ。

「・・・・メニューが、逆さま、だよ」

彼女は慌てて引っ繰り返した。角がコップに当たり、また少し水をこぼした。

「もしかして、君、目が悪いの?」

「……そうよ、色男さん。私をナンパしても無駄よ」

彼女はメニューを閉じ、ふっきれたような冷たい微笑を顔に浮かべた。それから急にまたあのきつい表情に戻った。冷たい美しさを湛えたあの顔に。

「あなたと同じ物でいいわ」

僕はコーヒーを二つ頼み、質問を再開しようとしたが、彼女に先を越された。

「私の名前は岡崎めぐみ。中学三年生よ」彼女は続けて、自分は総合図書館の近くにある私立女子中に通っている、と言った。 「へぇ、僕の妹も確かそこに通っている筈だよ。今中二だけど」 「偶然ってあるのね」 めぐみはくすっと笑った。そこにはあの凛とした表情は微塵も感じられなかった。 僕はあっけにとられてめぐみを見つめた。感情の起伏の激しい娘のようだ。 「目は三ヶ月前位から見えなくなって来たの。なんて言ったらいいのかしら。そう、段々目の前に霞が掛かってくる感じね。まだ一応あなたの輪郭とかは見えるわ。でも細かい字とかはもう全然だめよ」突然またふっと自嘲的な笑みを浮かべ、僕に質問した。「あなたはどういう話があるの?こんな私に」

僕は言葉が出なかった。簡単に自己紹介し、しばらく考えてから自分の意見を述べた。

「あんなことするのは、良くないと思うよ」

「人はねえ、情報の八十%近くを目によって得ているそうよ。私はもうすぐその機能が停止するの。これからどうやって生活しろと言うの?」

めぐみは僕の質問には直接答えず、そんなことを言った。 「でも君は今生きている。目が見えない人間なんて一杯いるじゃないか。何も、あんな・・・・」

「どうやって私の考えを読んだの?緑川君」 「え?いや、その…」どうもめぐみとの会話では主導権は握れなさそうだ。「僕に似ていたから……」 「あなたに?」 さっきのめぐみとはまるで別人のようだ。あの刺すような視線ではなく、幼稚園生が先生に質問するような無邪気な目つきで僕をまっすぐ見つめている。 「屋上にいる自分さ。僕はたまに高層アパートの屋上で物想いにふけるんだ」 僕は視線を外らし、なんとも言えずそう言った。 「ふ~ん。面白い人ね」 めぐみにもなんとなく僕のことが分かってきたらしい。女の直感、というやつか。

「逃げろや逃げろ、どこまでも」 「え?」 「ドゥエール・カタリって人の言葉。フランスのポスト構造主義を代表する哲学者」 僕はめぐみの言いたいことがさっぱり分からなかった。僕は突然構造なんとかとか、さっぱり分からない未知の言葉が出てきたので、目を白黒させた。 「ぽすと…こうぞうしゅぎ?」 「あなたはどこへ行くの?物事に真っ向から取り組まず、かといってそれから逃げない。あなたはそれじゃあ、どうするの?」 まるでなぞなぞだった。でもなんとなく意味は分かる気がした。 そして僕が黙っているのを見て、再び口を開いた。

「最近の診察で分かったんだけど、私の命は後半年なの」

驚いて僕はめぐみを見つめた。 めぐみはただいたずらっぽい笑みを浮かべるだけだった。



「うわァ、奇麗ねえ・・・・」めぐみは子供のようにはしゃいだ。「お星さまをちりばめたみたい」

・・・・僕達は、今、あの屋上に来ていた。めぐみが是非連れて言って欲しいと、僕に頼んだからだ。なかなか首を縦に振らない僕に対し、めぐみは初めは懇願し、次に拗ねたようにそっぽを向き、さらには哀願、色仕掛け(?)、脅迫など、ありとあらゆる手段を使ってとうとう僕に承諾させてしまった。

「まだ日が完全に沈み切っていないけど、もう少し経つと、もっとはっきり見えるようになるんだ」僕は小さな子供を見守る老人のように、めぐみの様子を眺め、そして解説をしていた。「そういえば、見えるの?」

「ええ、大丈夫。さっきも言ったでしょう、霧の中に居るみたいだって。だけどこれだけ明るいと、一つ一つ分かるわ」

めぐみは屋上のフェンスに顔を押し付けるようにして、まだ残照の残る地上を眺めていた。東西南北、忙しなく動き回り、刻一刻と変化する風景に一喜一憂している。

「見て見て。あれ東京タワーかしら?」

僕は嬉しかった。喜々とした表情のめぐみは、一番自然な本当のめぐみの姿のように思えたからだ。それが例え僕の幻想であったとしても、そういった姿を僕の前で見せてくれたことがまた、めぐみと親しい証のようで嬉しかった。

めぐみのはしゃぎ様を、ただ微笑んで見ている闇の中の自分の姿を想像すると、僕は祖母のことをふと思いだした。

祖母は、僕のことをよく可愛がってくれた。何をやっても褒めてくれたし、怒るということは滅多になく、また僕に色々なことを教えてくれた。僕はおそらくお祖母ちゃん子だろう。

その祖母は、僕が小三の時に老衰で亡くなった。一晩泣いて眠れなかったのはまだおぼろげに覚えている。しかし、それから気付いたことは、自分を褒めてくれる人間がいなくなったということだった。母も父も叱ることはよくあるが、褒めることは滅多になく、口を開けば勉強勉強と決まっている。まあ、これがどの家庭でも典型的なものだろうが、いままで祖母がいた僕にとってはかなりのショックだった。

自分を理解してくれる人が誰もいなくなった、と子供心に思ったっけ……。

・・・・物思いに耽り、腕組みをして屋上の小部屋の壁により掛かっている自分にふと気が付いた僕は、頭を振って忘れていためぐみの姿を探した。

「お~い、めぐみ?」

フェンスに近付きかけたその時、僕は脇腹をくすぐられて笑い声を立ててしまった。

「……ひどいなあ。また私のこと忘れて物思いなんかに耽っちゃって。人が尋ねても、うん、そうだね、しか言わなくなったと思ったら、その内沈黙しちゃうんだもの。やっぱりなにか考えていたようね」

「ああ、ちょっとね」僕は一度伸びをすると、大きなあくびをした。「・・・・で、どう?ここの景色は?」

「最高よ。『百万ドルの夜景』って感じね。こんな所独り占めするなんて、信じられないわ」 めぐみは少し怒ったように言ったが、やがて段々と感情も落ちついてきたようだ。あれだけ騒いでいたのが嘘のように、次の言葉は完全に冷静なめぐみのそれに戻っていた。

「ありがとう、緑川君。私をここに連れて来てくれて……」



「おい、岡崎めぐみさんって知ってるか?」

僕はめぐみと別れ、そのまま真っ直ぐ家へ帰った。なぜかあの高層アパートに行く気が失せてしまった。家では父はもうすっかり酔い潰れていて、僕が帰って来たのも気付かなかった。八時過ぎ、妹が帰っているのを確認して、僕は妹の部屋の戸を叩いた。

「え~?岡崎さん?」

妹は鞄の中をいじくりながら、突然あっ、と声を上げた。

「その人お兄ちゃんの彼女かなんかなの?」

「まさか。ちょっとその名前を耳にしたから、お前なら知っていると思って……」

僕は苦笑してみせたが、妹にはあまり効果がなかったようだ。

「ふうん、どちらかというと本の虫の兄貴がねえ」

完全に誤解されたようだ。あながち勘違いとは言い難いが、とにかくめぐみの正体が知りたかった。苦笑したまま頭を振り、僕は妹の答えが帰ってくるのを待った。

妹の部屋の中は僕のより大分華やかだ。やはり女の子だけあって、ぬいぐるみや簡単な小物がインテリアとして部屋のあちこちに飾られている。

「岡崎めぐみさんってね。うちの学校の中学の生徒会長」

僕は軽い驚きを覚えた。だがめぐみの態度や言動から、なんとなく納得がいくような気がしたので、そう驚かなかった。

そういえば、富沢も生徒会長に推薦されたことがあった。富沢はあっさりそれを断わった。彼は一言、僕にはそんな大役は努まらないよ、と笑って話してくれたっけ……。

「ねね、本当に顔見知りなの?」

芸能レポーターのようにしつこく聞いてくる妹に適当に返事をしながら、僕は自分の部屋に戻った。めぐみの心情がまた少し、分かったような気がした。



その四日後、僕は校門のところでめぐみに捕まった。突然後ろから目隠しされたのだ。「今日は私につき合ってくれない?」

めぐみはまたあのいたずらっぽい笑みを浮かべながら、僕にそう言った。例の高層団地近くの駅からバスで十分、そこに県立の総合病院がある。今日は定期診察の日なのだそうだ。僕は周囲に知り合いがいないの確かめて、足早に駅へ向かった。

「どうやってここまで?」

「あなたの制服から」

「よく分かったね。その目で……」

「雰囲気があなただったから、賭けてみたの」

そこまでして僕を探す理由があるのだろうか?僕は自問自答しようとしたが、さっぱり分からないので諦めた。どうせまためぐみの気まぐれなんだろう。

僕達は当たり触りのない会話をしながら、電車、バスと乗り継いて病院へ向かった。

この病院は五、六年前に改築され、この周辺の市の中でも一番の規模を誇る。

「こっちよ」 めぐみは僕を引っ張りながら複雑な建物の中を進んだ。そして『外科』と書かれたプレートのある所で、待合の長椅子に僕を座らせ、自分はそのまま診察室に入っていった。

僕は病院は嫌いだ。あの独特の臭いと、雰囲気……。

特に外科の待合室にいて、なおさら病院が嫌いになった。かなり人はまばらだが、老人ばかりで、若い人はほとんどいない。みんな少しでも長く生きようともがいている、妖怪のようだ。

富沢はここに運ばれる間もなかった。きっと救急車から降りた救護隊員が、脈を取り、瞳孔反応を確かめ、黙って相棒に首を降って見せたのだろう。めぐみはまだチャンスもあるだろうし、助かる可能性だってあるに違いない。それなのになぜ、そんなに死に急ぐんだ?

僕はめぐみの態度に、段々腹が立ってきた。

しかし、妹の話を思いだすと、腹立ちも納まってきた。生徒会長・・・・おそらく成績も優秀なんだろう。友人関係は……。

めぐみの笑顔が頭に浮かんだ。まるで彫刻のような笑み。暖かそうだが、中になにか冷たいものを含んでいる。彫刻家が、魂を入れるのを忘れた彫像。彼女は友達ともあんな態度で接するのだろうか?

それとも、三ヵ月前はまだ、魂があったのだろうか。あの屋上の時のように・・・・。

・・・・ふと診察室前の時計に目をやると、めぐみと別れてから三十分が過ぎていた。慌てて僕は、診察室の中を覗いてみた。通路にある長椅子の他に、診察室の中にさらに椅子があり、そこに座ってまた順番を待つようだ。中には第一から第四まで本当の診察室があり、カーテンが引かれていた。どうやら、まだ終わっていないらしい。

僕はめぐみが入ったように見えた第二診察室の前の椅子に座った。

「君自身の身体なんだぞ!分かっているのか?!」

僕が腰掛けてから五分も経っただろうか、静かだった待合室に突然医者の怒鳴り声が響いた。そして中から乱暴にカーテンを開け、めぐみが出てきた。順番待ちの老人達は驚いてめぐみと診察室の方を注目した。

僕は診察室から出ようとしためぐみに、横から手を振って合図した。

「終わったわ」めぐみが声を弾ませながら言った。「入院は来週からだって」

「・・・・本当に後半年なの?」

めぐみの元気な姿を見ていると、とても信じられなかった。目は確かに悪いようだが、身体は丈夫そうだ。大体こんなぴんぴんしているわけがない、と思って僕は尋ねた。

めぐみは僕の隣りに座って、黙って僕の右手を取った。そして右の胸にあてがった。僕は右手に柔らかいものを感じたので、もう少しで声を上げる所だった。

「ここに腫瘍があるの。もう大分大きくなっている」

それから腹へと手を動かした。

「ここにもいっぱいあるわ。……気づくのが遅れたの。気づいた後でも、私は入院を拒否したわ。母も父も怒ったけど、もう手遅れだと聞いて最近は諦めてる」

僕の右手を解放してから、彼女は笑った。本当に寂しい笑いだった。めぐみの話ではこの年齢で腫瘍が出来ると、若いだけに成長も早く、すぐ手遅れになるそうだ。

「本当はね。私はずっと前から知っていたのよ。自分の身体のこと位、よく分かっているわ。でも、私は放っておいた…。私の夢が壊されるのが怖かったから・・・・」

僕はどうしていいか分からなかった。めぐみは、本で知っているどんな薄幸な人間よりも不幸な子のように思えた。僕が押し黙ったままでいると、めぐみは立上った。

「あなた、優しいのね。・・・・今日はありがとう。また会えたら会おうね」

めぐみは明るい笑みを浮かべて、手を振りながら出口へと消えていった。あの屋上での笑みとはまた違った、寂しくどこかふっ切れたような表情で・・・・。

僕は引き止められなかった。微笑み返すことも出来なかった。 僕は、弱々しく手を振り返した。

・・・・魂を失った彫刻は、どうなるんだろう?



しばらくして僕は重い腰を上げ、ロビーへと歩いた。よく分からないが、なぜか無性に悔しかった。そんな僕は、またふとある人物に目を留めた。

同じ学校の学生服を着ている。受付の看護婦と何か話していたが、こっちの視線に気が付いたのか、僕の方を振り向いた。僕は思わず彼の方へ走り出していた。 「富沢!」

その男は富沢だった。いや、富沢に似ている男だ、と気付いたとき、僕と彼の間はわずか一メートルもなかった。僕はなんて言ってよいか分からず、困惑した。

相手はもっと驚いていたのかもしれない。富沢・・・・じゃなくてその似た男は、表情がこわばったままだ。二人の無言の睨めっこは、一呼吸置いた後の女の子の声で終わった。

「大ちゃん、どうしたの?」

彼はやっと表情を元に戻した。そして僕の顔を見て首を傾げた。

「確か…緑川じゃなかったっけ?」

同時に僕も彼のことを思いだしていた。前に一度富沢と間違えて、やっぱり驚かせたことがある。確か陸上部の山田だ。良く見れば富沢とは顔立ちも違うのだが、ふと見ると、どことなく面影がそっくりなのだ。

「あ、ごめん。つい富沢と間違えて…」

僕は素直に謝った。山田は、富沢と同じようにスポーツをやっているが、不良っぽい奴だ。性格もがさつで、富沢とは似ていない。

「驚かすなよ。そういえば富沢はこの間・・・・」

「ああ」認めたくはなかったが、事実は事実だ。

「いい奴だったな」

山田の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。僕は軽い驚きを覚えた。

「ねえってば!大ちゃん」

肩を揺すられて、山田は傍にいる女の子に簡単に僕のことを説明した。

その女の子は、結構日焼けしていた。めぐみが長髪で知的な雰囲気を漂わせているとすると、この娘は短髪で全身から健康な雰囲気を発散させていた。山田の話を聞き終え、僕が紹介されると、よろしく、と手を差し出した。僕はその手を握った。温かかった。

「緑川、この渡辺久美さんは、前の大会の時にうちの地区で、百メートル走部門で二位だった・・・・」

なるほど、山田と知り会ったのは大会後のことだろう。なんとなく二人の関係が想像できた。看護婦がなにか紙切れを山田に渡した。

「お前もちょっと寄っていけ。久美の部屋は、すぐそこだ」

富沢とは違った、不躾けなお誘いだ。富沢だったら相手の都合をまず第一に考えるだろう。やっぱり似てはいても、まったくの別人だ。僕は彼の言葉に少し反感を覚えたが、それと同時にほっとしもした。

一瞬の躊躇の後、僕は学校とは違った顔の山田を見たい気がして、久美の病室へと一緒に行った。

病室は個室だった。パジャマ姿の久美は、直ぐベットに潜り込んだ。

「ねえ、緑川くん。あなたの夢ってなに?」

思いがけない問いをされて、僕は返事に窮した。久美は、どうやら会話を切り出したかっただけのようだ、答えがないと続けて言った。

「私はねえ、看護婦さんになること。ここでこうやって入院していると、看護婦さんっていうのは立派だなあ、と感心することばかりなの。だから、かな?」

うふ、と久美が笑った。めぐみとは違い、妙に自制したところのない、自然な表情だ。僕はなんとなくほっとした気がした。山田は黙って僕らの会話を聞いている。

「私ねえ、一月前検査で足に病気が見つかったの。それでこんな所で寝てるわけ。もうすぐ手術して、そして、早く退院出来たらいいな……」

最後の方は独り言のようだった。めぐみならばもっと自分の感情を押し殺して言うだろうが、久美は違った。考えていることが、自然と透き通って見える。僕にとっては、新鮮で優しく感じられた。僕は思わず口を開いた。

「きっと、良くなるよ」僕は力を込めて言った。「きっと良くなって、山田と一緒に走れるようになるよ」

ありがとう、と久美は微笑んだ。山田が立ち上がり、もう面会時間が終わるから、と言って僕を促して病室を出た。病院玄関の別れ際に、山田は僕の肩を掴んだ。

「久美は人見知りの激しい子だが、お前は気に入ったようだ。また俺と一緒に見舞いに来ようぜ」

・・・・強引なやつだ。



山田と別れてから、僕の足は自然と団地へと向かっていた。

いつのまにか時計の針は八時を過ぎていた。夜来るのは初めてだが、昼間何度も来ているので、迷わず目的のアパートに着いた。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。非常階段を登り、屋上に出た。

冷たい風と暗い空が僕を迎えてくれた。照明はなかったが、この夜空の下にある何千という街の明かりが、夜空を照らしていた。僕はフェンスに手をつき、遠くに見える東京の明かりを眺めた。病院の近くを通る首都高の上ののろのろした車の明かりが見える。まるで無声映画を見ているようだ。 無数の光の粒が、瞬いたり動いたりしている。色も様々だ。夜空に星が見えないだけあって、まるで星空が地上に降りてきたようだ。 僕の眼下に広がる光の群れは、とても美しかった。

僕はこのままフェンスを乗り越えたい誘惑に駆られた。フェンスについた両手に力が篭もったが、僕の脳裏になぜかめぐみと久美の姿が浮かび、辛うじてその衝動から逃れられた。僕は頭を振って幻想を追い払おうとした。 ・・・・今までこんなことはなかった。

この夜景の中で、街は確かに生きている。僕がフェンスを越えれば、街は僕を受け止めてくれるだろう。そんな安堵感があったのかも知れない。

僕は夜景に別れを告げ、非常階段を降りた。



「おい、兄ちゃん。金貸してくんない?」

商店街を足早に抜けていると、後ろからいきなり声を掛けられた。僕は身体をこわばらせて後ろを振り向いた。そこには髪を染めた、高校生風の格好良い男が立っていた。

「やっぱりお前か」

その声で僕はやっと高橋だとわかり、ほっと胸をなでおろした。

「驚かすなよ。・・・・これから家に帰るところだけど、高橋は?」

「これから街に繰り出すところ、さ。おごるから、ちょっとサ店、付き合えよ」

にやり、と笑って僕を喫茶店に誘った。

この間めぐみと一緒に入った店よりも、もっと高級な感じの店だった。照明もあまり明るくせず、落ちついた雰囲気をかもし出している。高橋は窓際の席に座り、まずは腹ごしらえ、とスパゲティーを二人分頼んだ。すっかり忘れていたが、僕は腹ぺこだったので異存はなかった。

「どうしたんだ?こんな時間まで彷徨いて…。親が心配するぞ」

「そういう君はどうなんだ?」

僕はやり返した。高橋は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

「さあな。おやじはどうせまた出張でいねえし、おふくろは出版関係の仕事で今日もどっか出歩いてるさ。家に帰っても誰もいやしない」

高橋は、煙草の煙をふっと吹き出した。天井に青白い煙が昇っていく。

「一つ聞いていい?」

僕は高橋が無言で頷くのを見て、言葉を続けた。

「いつも君はそうやって豪遊してるけど、お金足りるの?」

「……足りねえよ、いつも」高橋は煙草を灰皿にぎゅっと押し付けた。「おやじに塾の金って言ってもらって、おふくろから参考書代っていってもらい、じいちゃん家行って小づかいもらって、それでやっととんとん、かな…」

「そんなに何に使うんだい?」

「まず、洋服代かな?・・・・これ、上下全部でいくらだと思う?」

高橋は両手を広げた。その濃緑のスーツの値段なんて、僕はさっぱり分からない。

「二万…くらい?」

「惜しいな、半分だ。四万円が正解。あとグラサンが五千円」

そう言って高橋はポケットからサングラスを取り出して掛けた。どんな格好をしても不思議と高橋には似合った。いや、似合わせているだけなのかもしれない。

スパゲティーが来て、しばし僕らは食う事に専念した。

「……そうだな。後はメシ代とか付合いの金だな」

店を出る時、高橋はぽつりと言った。

空しくない?そんなにお金使って…。そう言おうとして僕は途中で止めてしまった。高橋だって分かっている筈だ。それでもまだ遣わざるを得ないのだろう。

僕は高橋に礼を言って、駅で別々のホームに別れた。



結局その日帰ったのが十時過ぎで、親に文句を言われたが、夕食を外で食べて列車に乗ったら寝過ごして、それで遅くなったと弁解したらどうにか納得してもらえた。その代わり、遅くなる時は電話を入れなさい、と釘を刺された。

次の日、放課後教室から出る時、さっそく山田に捕まった。久美の見舞いに行くから一緒に来い、と命令口調で言われた。まるで富沢に命令されているようで反発を覚えたが、結局僕はなぜか素直に山田についていった。

「今日は二人なの?」久美が明るい声で迎えてくれた。「久しぶりの大人数じゃない」

「昨日も来てやっただろう」

山田と久美はさっそく会話を始めた。僕はあまり二人の話題に入れず、自分が部外者であることを痛感せざるを得なかった。それでも久美が時折り気を使って、話を僕に向けてくれる。

その日は二時間ほどいた。五時から久美はレントゲンを取るというので、僕達は帰ることにした。

「渡辺さんの病気って一体何なんだい?」

落ちかかっている真っ赤な太陽を背に駅へ歩きながら、僕は山田に尋ねた。

「俺もよくは知らないけど、なんでも閉塞性大動脈硬化症とかいう病気だって聞いたことがある。足が痛いって久美が医者に見てもらって、それで分かったらしい。要するに血管が詰まりかけているんだそうだ」

「大分長く入院していたみたいだったけど……」

「初めは薬で直そうとしたらしい」山田は肩をすくめた。「けど時間がかかるっていうんで手術することに決めたんだ。ったくやぶ医者だらけだぜ、あの病院」



二日後の土曜日の朝、僕はまた高橋に話しかけられた。まだ元気がない、と高橋は言った。いいかげん富沢の亡霊から逃げろよ、と。

「そうかい?富沢のことなんか本当に最近考えていないよ」

本当だった。僕はめぐみのことをぼんやりと考えていたのだ。

「へえ」高橋は意外そうな表情を浮かべた。「それにしちゃあまり変わってないぜ。相変わらず憂鬱そうな顔している。今度たまには一緒に映画でも見に行くか?」

思わぬ誘いに僕は驚いたが、机から頭だけ上げてかぶりを振った。

「ありがとう。でも気持ちだけもらっとくよ。最近親がうるさいしね」

「そうか、惜しいな」高橋はいつものように軽く背中を叩いて、あまり一人で悩むなよ、と最後に一言残して会話を打ち切った。

僕は、なんだか少し肩の荷が降りたように楽になった。一体何を背負っていたのか自分でも良く分からないけど。おかげでその日は授業がいつもよりか楽しかったような気がした。放課後、待ち構えたように山田が僕を捕まえた。

山田は部活があって行けないから、と僕に見舞いを頼んだ。相変わらず自分勝手なやつだ。僕は二つ返事でそれを引き受けて、もう馴染みとなったあの病院へ向かった。

「今日は一人?」久美が顔に不思議そうな表情を浮かべながらも、僕を迎えてくれた。

「山田は部活があるから来れないって……」

「じゃあ、今日はあなたが大ちゃんの代わりをしてね」

久美はベットから抜け出して、その上に枕を抱えながら座った。

「この前大ちゃんに向かって、オニサワ、とか叫んで突進して来たでしょう?あれって大ちゃんと誰かを勘違いしたの?」

「ああ」

「オニサワくんと?」

「富沢、というやつだ。僕の親友だった」

「だった?」

無邪気な視線だった。僕はこれならまだ、めぐみのなにもかも見透かすような冷たい視線の方がましだ、と思った。

「交通事故で死んだんだ。この間」

久美の表情が少し翳った。だが別に慌てたようすもなく、ごめんなさい、変なこと聞いちゃって、と一言言うと元の表情に戻った。そして明るい声で僕に尋ねた。

「緑川君の趣味は何?」

「読書、かな」僕は自分が趣味と呼べるものをほとんど持っていないことに気がついた。「強いて言えば、だけど」

「私はねえ、水彩画もやってるんだ」

久美はにっこり笑って、ベットの下からスケッチブックを取り出した。

「緑川君の似顔絵、描いてあげる」

そういって久美は鉛筆を取ってなにやら描き始めた。スケッチブックと僕の顔に視線を

往復させながら、鼻歌まで歌っている。僕は仕方無くじっとしていた。

「ねえ、何か有名な人の言葉とか引用できる?」

「え?」

「よく頭のいい人がやるじゃない。そんな感じで何か私に言って」

「君の愛情の発作をも君は警戒するがいい!孤独な人間は、たまたま出会った者に、すぐ握手を求めるようになる」

なぜかそんな言葉が頭に浮かんだ。めぐみにポスト構造主義のことを言われてから、哲学関係の本ばかり読んでいるせいだろう。久美はへえ、と嘆息して筆を休めた。

「それ誰の言葉?」

「確か……ツァラトゥストラだったと思うよ」

「私にはすごく分かりやすいわ、今の言葉」

そういって久美は、握手ね…、などと呟いてからまた素描を再開した。



次の週の火曜、僕はまた山田の強引な勧誘で、再び病院を訪れた。いつでも、あの命令口調で僕を無理矢理引っ張ってくる。そんなにしなくても、僕はちゃんと見舞いに行くのに……。僕は富沢のこと想って溜息をついた。

見慣れた階段、通路を通って『渡辺久美』と書かれている病室の扉を叩く。

「は~い」久美が頭をひょっこり出して笑った「いらっしゃい。いつも時間通りね」

「学校が終わってからだから…」

そうね、と久美は言って僕達を中へ招き入れた。

「検査とかどうだった?」

「どうやら一回手術するだけで済みそうだって。入院が早かったから良かったそうよ」

「やったね。これで山田とも仲良く走れそうじゃん」

話題の主である山田は、何も言わなかった。ぶっすりと黙りこんでいる。

「なんか今度は大ちゃんが暗いね」

久美の目にも奇妙に移ったらしく、山田の目の前で手を振った。

「大ちゃん、大丈夫?疲れてるんじゃない?」

「ああ。ちょっとな」山田はなにを思ったのか急に元気になって言った。「お前の世話が大変で大変で、もう寿命が縮まる思いだからな」

「ふん、大ちゃんのいじわる!」

久美はぷうっと頬を膨らませた。そんな久美を見て僕がぷっと吹き出すと、つられて久美も山田も笑った。山田の笑いに不自然さを見出したのは、僕の間違いではないだろう。僕にはその笑いは、わざととしか思えなかった。

「あのさ…」

久美が間抜けな看護婦の話をし始めた。

僕は久美の話に色々と茶々を入れたが、山田は口数が少ないままだった。



その後、久美の手術の日までの二週間、度々山田に誘われて見舞いにいった。見舞いに行かない日は図書館へ行っていたので、父も母も大分愚痴をこぼすという様な事もなくなっていた。 山田は部活があるのでそう毎日は行けないが、見舞いに行ってもなぜか口数が少なかった。おかげで僕は、山田に気兼ねしながらも久美とは大分親しくなっていた。

もしかしたら病院で、と思ったが、あれから一度もめぐみには会えなかった。めぐみの話はショッキングだったが、最近ではもう夢のことのようにまで思えてきた。 久美の手術の前の日、僕はまた高橋に心情を見透かされてしまった。

「どうした?なんか今日は人生一番の試練の日、ていう顔をしてるぜ。ここんとこ少しは元気になったと思ったら、また直ぐに落ち込んでる。忙しいな、お前も」

「ちょっとね。友達が明日大変なんだ」

「山田か?」高橋がけげんそうに言った。「お前も富沢の代わりなら、もっとましな奴を選べよ。例えばこの俺みたいな」

高橋の一言で、僕は自分のしていたことに気がついた。僕は山田の行動や言葉から、無意識の内に富沢との違いを探し、それで自分を納得させようとしてきたんだ。山田と富沢は違う、なぜそんな簡単なことを今でも悩んでいるんだ、僕は?

高橋は自分のジョークに僕が苦笑しないを見て、益々心配になったらしい。色々と僕を勇気付けることを言ってくれた。僕は高橋の気遣いに感謝しながらも、心は自分の愚かさに腹を立てていた。馬鹿な、まだ僕は富沢の死に納得がいかないとでも言うのか。

放課後、山田に呼び止められた時も、僕はまだ少し自分が腹立たしかった。

「緑川、俺は今日どうしても行けないんだ。頼む、俺の分も兼ねて久美の見舞いに行ってくれ」

山田の口調が真剣だった。いつもの命令口調然とした態度は微塵にも感じられない。だが僕は二つ返事は出来なかった。僕はかねてから疑問に思っていたことを山田に聞いた。

「最近きみの様子がおかしい、と久美も気付いているけど、一体何なんだい?僕はその理由が分からないと、久美に聞かれてもうまく答えられない」

山田は僕を見つめていたが、つと視線を外らし、こう答えた。

「久美はな、直る確率が五分五分なんだ。あまり質の良いものではないらしい」

僕は目の前が真っ暗になったような気がした。だが僕がこれだけ心配なのだから、山田の気苦労は並々ならぬものだったのだろう。

「大丈夫だよ。きっと直るよ。万が一でも足だから・・・・」

切断すれば命は助かる、という言葉を飲み込んだ。山田の真剣な視線を感じたからだ。

「お前久美にとっての足は希望なんだぞ。それを切られて生きていけると思うか?」

めぐみの淋しい笑顔が一瞬脳裏に浮かんだ。僕は二の句が告げられなかった。

・・・・久美も魂を失った彫刻になるのだろうか?



山田の話を聞いてから、まためぐみのことが強く思い出されてきた。二人の若い女の子が似たような病気に掛かっている。僕は否応もなくこの二人を比較せざるを得なかった。 物思いに耽けりながら病院へ向かう足取りは、なぜかいつもより重かった。 「あら、今日は一人なの?」

久美が明るい声で僕を迎えてくれた。久美はどうしてこう明るく振舞えるのだろう。どうしてめぐみみたいに絶望しないのだろう。僕はふと思いついた疑問を口にした。

「きみはいつも、明るいね」

「ええ、だって私まだ元気一杯だもん。別に直らない可能性がないわけじゃないけど、悲観に暮れたってどうにもならないでしょ?」

可能性か……。めぐみには選択肢はない。でも久美にはまだある。それだけの違いなのだろうか。

「例えば君が不治の病に掛かっているとするよ。そしてその事を知ってしまったら、どうすると思う?」

僕は思い切って聞いてみた。

「そうねえ…。私多分どうもしないと思う。いつも通り生活するだろうし、入院しても最後まで頑張ると思うわ」

久美は額にしわを寄せながら、考え考えそう答えた。

僕は胸にあった鈍い痛みが少し和らいでいることに気がついた。 「なんか初めて会った時みたいに暗いね」久美は僕の顔を覗き込んだ。「大丈夫よ。きっと私、元気になってみせるから」

久美のさわやかな笑顔を見ても、いつものようには気分は晴れなかった。

「それに、私は『不治の病』じゃないんだし…」

久美に言われて僕は自分の愚かさを呪った。何を馬鹿なことを言ったんだ、僕は。病人に対して、しかも一生懸命その病気と戦っているというのに。それに久美にそんなことを聞いたからといって、誰がどうなるわけでもない……。

なんとなく空虚な気持ちが僕を支配した。僕は疲労感に身を委ね、黙っていた。

「駄目じゃない、見舞いに来た人が暗くなってちゃ。おかしいの」

久美は微笑んで顔を近づけ、そして僕の額に軽くキスした。僕が驚いて久美を見返すと久美はいたずらっぽく笑って言った。

「元気の女神様のキスよ。これで元気にならなかったら、承知しないぞ」



僕はその日久美の両親が来ると聞いて、まだ日のあるうちに病院を後にした。

駅で切符を買った時、初めて今日が土曜日だと気がついた。なぜこの時間ホームが人で目一杯溢れ返っていないのか、駅についてからずっと疑問に思っていたのだ。僕は自分の間抜けさを周囲の人に見抜かれているような気がして、照れ隠しに反対側の下りホームの上にいる人々をなんとなく目で追った。 めぐみがいた。

前と同じ制服に身を包み、ホームの端に立っている。

「おーい、めぐみ!」

僕は上りホームから声を掛けた。周りの人がちょっとびっくりした目で僕を見た。

めぐみは僕の声が聞こえたのか、僕の方へにっこり微笑んだ。駅のアナウンスが下り特急の通過を告げている。今度は僕は、指一本動かせなかった。

・・・・めぐみを止める権利が、僕にあるのだろうか。この頭に浮かんだ疑問が、僕の動きを妨げていた。だが僕は、この答えにイエス、と答えられる自信はなかった。唯一の僕の抵抗が、目でめぐみを追うことだった。

めぐみの唇が動いた。なにか僕へのメッセージのようだ。列車がホームの端に差し掛かった。

めぐみは絶妙のタイミングで跳んだ。彫像のような笑みを浮かべたまま、特急列車の前部にぶつかり、空高く跳ね飛ばされた。

列車の急ブレーキの音とホームの女性達の悲鳴が上がった。めぐみはボールのように跳ね上がり、そして上りのレールの上へ落ちた。 僕は倒れているめぐみの姿を直視出来なかった。

僕には分かっていた。めぐみがわざわざ僕を待っていてくれたということと、僕への最後のメッセージが、『あなたに会えてよかった、さようなら』であることが・・・・。

「大変だ!女の子が飛び込んだぞ!」

駅が騒然としてくる中で、僕はその場にずっと立ちつくしていた。

激しい疲労感が僕をすっぽりと包み込んでいた。何かをやり遂げた後の心地よい疲労感にも似た、しかしどこかに燻った所が残っている……。胸の奥が疼いた。

僕は心の中の青白い炎に身を焼かれながらも、辛うじてやって来た列車に乗り込んだ。

窓から見えためぐみは、白い布に覆われて、担架でホームへと上げられていた。

・・・・僕は目を暝って、吊革にもたれ掛かった。



その日の夜、僕が布団をかぶっていると、妹が部屋に飛び込んできた。

「お兄ちゃん!あの生徒会長の岡崎さん、死んだんだって!」

妹は続けて色んなことを喋ってから、暗闇の中で身じろぎ一つしない僕の様子を伺い、寝ていると思ったのか、なんだ、と言って出ていった。

僕は妹からめぐみの死を聞いて、また昼間のことが強く思い出された。

めぐみはあれで良かったのだろうか。闘病生活など、確かにめぐみには似合わないものかも知れない。だが、それではあの黄昏の屋上で見ためぐみは、僕の幻想に過ぎなかったのだろうか?それとも……。

・・・・魂を失った彫刻は、壊れる運命にあるのだろうか。

脳裏に浮かんだめぐみの笑顔から逃げるように、僕は布団を強くかぶった。



「遅いぞ!」

山田が僕の顔を見るなり怒鳴った。もう手術が始まって一時間になる。山田のストレスも大分たまっているに違いない。

「ごめん」

僕は素直に謝った。そして初めてみる久美の両親に軽く会釈をしてから、長椅子の山田の隣りに座った。よくテレビのドラマなどで見る『手術中』のマークはない。大きな病院だから手術室が七、八室あり、その手術室全部の外に、大きめの家族用待合室がある。

「どんな様子?」

僕は山田に聞いた。山田は、分からん、と短く答えると、久美がお前がいなくて淋しがっていたぞ、とつけ加えた。

今日はあまり病院に来る気がしなかった。久美にあったら何を言い出すか分からなかったからだ。でも、一度久美の暖かい笑顔を思いだすと、ここに来ずにはいられなかった。

「もう一時間だから、そろそろ終わるはずだ」

山田が腕時計を睨みながら言った。その言葉が合図のように、総合手術室に通じる大きな扉が開いた。思わずその場に居たみんなが腰を上げた。

看護婦三人に横に付き添われ、久美が運搬車に寝かされて出て来た。弱々しいがはっきりとした笑みを浮かべながら、みんなを見回した。僕の姿を認め、にっこり笑って、ありがとう、と小さな声で言った。久美は集中治療室へと運ばれていった。

執刀医と思われる中年の医師が、待合室の方へ顔を見せた。マスクを外し、久美の両親に、もう大丈夫ですよ、と声を掛けた。

山田と両親は涙を流しながら喜んでいた。

・・・・久美はちゃんと戦い、そして勝ったんだ。

僕は急に、何か居たたまれなくなって病院を出た。



また、あのアパートの屋上へ来た。 日曜日なので団地全体が騒がしかった。風はほとんどなく、日が僕を照らしていた。

僕はまた、遠くを眺めた。ふと涙が出て、視界が歪んだ。

その中に、めぐみの姿が見えた。薄暗いこの屋上で、あのベージュの制服を着て、天使のような笑みを浮かべている。その笑みが凍りついた。あの冷たく、中身のない微笑みに・・・・。

それは列車に跳ねられるめぐみの姿に変わった。

『ありがとう』僕の胸が締付けられるように疼いた。

「ありがとう」

めぐみに重なるようにして久美が現れた。

「元気の女神様のキスよ」

久美のいたずらっぽい笑みと共に、額から暖かい温もりが広がった。 その温もりは胸の痛みをも和らげてくれる。

僕は涙を拭い、もう一度この屋上からの景色を眺めて頭に焼付けた。

そして屋上を後にした。

・・・・僕はもう二度とここに来ることもないだろう。



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