第86話 うなぎ、そして作戦会議 ①
電車の吊り革につかまりながら、水滴の流れてゆく窓をぼんやりと見ている。がたっがたっと揺られるいつも通りの通勤光景だ。しかし僕は少しだけ緊張をしている。
マリーが推定レベル140もの相手から求愛をされた。
詳しい出来事はまだ聞いていないが、どうやら頭突きをして追い返してしまったらしい。
そう少しだけ恥ずかしそうにマリーは言っていたが……どうも嫌な感じだ。
わざわざ僕がいない所で声をかけるあたり――いや、飲み物を取りに行ったとき絡んできた女性は、オアシスで見かけた事のある人物だ。彼の身内であり、協力をしていた可能性だってある。
となるとザリーシュなる男は、要注意人物と考えておいたほうが良いかもしれない。
などと、いつになく僕は後ろ向きに考えている。それもこれも胸のモヤモヤのせいだろう。
普通の告白であり、マリアーベルが断ったというだけなら良い。しかしモヤモヤは落ち着くどころか強まりつつある。その正体を探るうち、ハッと違和感の正体に気がついた。
――頭突きをしたって、なんだ?
思わず吹き出しそうな出来事だけど、あの頭の良い子があえてそれを選んだ理由は気になる。まさか……言葉でも態度でも通じず、極端に距離を詰められた?
モヤモヤの最高潮を迎えたそのとき、ブーブーとスマホが振動した。少々苛立ち混じりにスマホを取り出し、画面を見る。
月曜日ということで予想していた通り、やはり画面には「薫子」の文字があった。図書館勤めの彼女にとって、この日はお休みを意味する。
―――
おはようございます、出勤ご苦労様です。
―――
その一文を見て、少しだけ僕は落ち着けた。
要件もない楽しむことだけを目的にしたチャットに、なぜかホッとしたのだ。
同じマンション住まいの一条さんと、こうしたやりとりを楽しむ時がある。夫妻と外食に行くこともあるし、たまにおすそ分けをすることもある。
そういえば、マリーと約束している事があったっけ。天気が良ければ週末に大きな娯楽施設へ連れて行くのだった。せっかく連絡を受けたのだし、相談をしようかとしばし悩む。
―――
週末、近くの娯楽施設へマリー、ウリドラと遊びに行きます。
といっても今回は下調べなんていらなそうですが(笑)
―――
何度か打ち直し、送信をする。
一条夫妻は国内旅行に詳しく、不慣れな僕を何度も助けてくれている。今回も相談しようかと思ったが、考えて見ればただの遊園地のようなものだ。状況報告をするだけで十分だろう。などと思っていたのだが……。
―――
北瀬さん…、何を言っているんですか。
あそこほど下調べのいる施設なんて無いですよ。
―――
彼女からの返答に、ぱちりと目を見開いてしまった。
いやだって、家族やカップルで遊びに行くところだし、ふらふらと興味があるところへ向かえば良いと思うんだけど。あれ、僕の認識が違ってたかな。
―――
認識が間違ってますねぇ…。
田舎出身の男性は特に多いのですが、プラン無しで遊びに行って喧嘩別れをした方はたくさんいるという噂です。
―――
ええー……まさかぁ。
いや僕は青森出身だし条件に当てはまっているけれど、まさかそんな、ねぇ?
―――
……フリーパスもご存知無いのでは?
―――
ふりー、ぱす?
ハテナという疑問符を頭に浮かべてしまう。
僕は一人身だったし、友達づきあいも無いものだから遊園地などの施設はかなり足が遠い。というか行った記憶が無い。
知っているかな、青森のテーマパークは多くが潰れて廃墟になっているんだよ。
―――
仕方ないですね。
今夜、作戦会議をしましょう。
私はサラダ、北瀬さんはおかずで手を打ちませんか?
―――
ああ、またご主人は残業の日なのか……。
誘いを受けようか悩んだけれど、ふと想像してしまった。人ごみの嫌いなマリーを連れてゆき、乗り物にもなかなか乗れず不機嫌になってゆく光景を。
いや、もしそうなったら最悪だぞ。ひょっとしたら日本をほんの少し嫌いになるかもしれない。彼女は気の優しいエルフだけど、ウリドラはどんな事を言ってくるだろう。
「おぬしは本当ー……に使えぬ男じゃのう……」
あ、すごくリアルに想像できるね。
僕はいつになくスマホを素早く操作し「ぜひお願いします先生」と返信をした。
よーし、久しぶりにお食事会をしつつ、週末のプランを練るとしましょうか。
スマホをしまうと、先ほどのモヤモヤはだいぶ薄れていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
買い物袋を持ち、カツカツと廊下を歩く。
結局あれから雨は止むことなく、雲はしつこく関東平野を覆い続けていた。見上げれば弓型の細い月はおぼろげに輝き、どこか寒々しい印象を与えてくる。
一人暮らしは寂しくないの?と同僚からよく言われる。
以前なら「そんなことは無いよ」と笑って答えていたけれど、今となれば……がちゃりと扉を開き、部屋の明かりに包まれると正反対の意見に変わってしまうね。
「あら、おかえりなさい」
エルフの過ごしていた暖かい空気へ触れ、そして彼女から嬉しげな顔を向けられる。
アメシスト色の瞳を細め、少しだけ悩んでから両手を開いてきたのは……そういう意味かな。こちらも手を広げると、すぽりと少女は腕のなかへ収まる。
こうなるともう、以前の生活には戻りたく無くなるよ。
「やあ、ただいま。んー、あったかいね」
「雨が続くから冷えているのかしら。あら、濡れているわ」
ぱっぱっと肩の水滴を払い、マリーは宝石のような瞳を向けてくる。そして胸元へ顔を埋め可愛らしい声で囁く。
「ほら、アリライ国もそうでしょう。雨が続くと太陽が隠れて梅雨寒になるの」
「それが終わると一気に夏へ変わるよ。日本の夏はマリーは初めてだね」
そう言うと、いかにも楽しそうにマリーは微笑む。それくらい季節ごとに日本というものを楽しめているのだろう。
頭ひとつ小さな子とはいえ、色づいた唇は女性としての魅力が強い。そう思うのは、きっと彼女の味を知ってしまったから。両手にある買い物袋が無ければ、さらりと流れる白い髪まで楽しめるというのに。
「あら、四角い箱? 靴か何かを買ってきたのかしら?」
「ううん、これはデザートと言って……ま、後のお楽しみだね」
ふうん、とマリーは小首を傾げてくる。
「あなたがそう言うのなら楽しみね。ふふ、ウリドラもぱちりと目覚めてしまうかもしれないわよ」
靴を脱ぎ、部屋にあがるとやはり魔導竜の使い魔である黒猫は、ベッドの中心で丸くなっていた。近くに紅茶が置かれていることから、彼女らはのんびりとした1日を過ごしたのだろうと思う。
僕のカバンを受け取りながら、少女は長耳を揺らしながら話しかけてくる。
「それで、一条さんは何時に来るのかしら?」
「7時半くらいと伝えておいたよ。その前に僕も料理しておかないと」
ウリドラの作ってくれた魔具のおかげで、僕らはいつでも会話を楽しめる。猫の首輪についたアクセサリーを通じ、そして僕のほうは変な目で見られないようスマホを持って話すわけだ。
いやあ、電話代を気にしないで済むのはありがたいね。
などと話しながら着替えを終えたら夕飯作りだ。とはいえ今夜はかなり手抜きというか、ほぼ出来合いのものを選んでいる。
袋からがさりと取り出したものを見て、少女は不思議そうに覗き込む。
「魚……にしては色艶があるわねぇ。もう美味しそうな色をしているわ」
「これはウナギと言ってね、川底を泳ぐヘビみたいな……あ、ほら、第一層で悪魔の呼び出したやつに似ているんだけど」
そう伝えると、はあ?という顔をされてしまう。
「川底のヘビって、あのぬめぬめしたアイリニャのことかしら?」
「ああ、そうそう、それそれ。日本とは呼び名が違うから、なかなか覚えられないね」
「……臭くてひどい味のするアレのこと?」
などと、じとりとした胡散臭げな目を向けられてしまう。
やあ、しまったねこれは。向こうの世界は味へのこだわりが薄く、味覚の鋭敏なマリーにとって悪いイメージがあるらしい。
ならば今夜はその悪いイメージを払拭しようかな。
一緒にがんばろうね、うなぎ君。
などと内心で囁きかけながら、取り出したそれを蛇口の水で洗うことにした。




