第76話 映画を見ましょうかエルフさん(修正版)
エレベーターの扉が開くと、まっさきに黒猫は歩いてゆく。
てんてんと濡れた足跡を残し、そして部屋の前でくるりと振り返った。大きな瞳をぱちぱちとさせ、可愛い声で鳴いてくるのは「開けて」という意味だろう。
お望みどおり玄関を開ければ、今度はエルフが活躍してくれる。
指先を伸ばすと「ちゃぷんっ」と涼しげな音が響き、淡い群青色をした魚が宙を泳ぎだす。これは水の精霊であり、部屋にこもった無駄な湿気を吸う役割をしてくれる。
もうひとつ、指先へ少女が「ふう」と息を吹きかけると、半透明の桜の花びらに似たものが舞った。とたんに上品な香りが広がり梅雨とは思えぬ快適な空間へ変えてしまう。
「あれ、桜の精霊か。まだ残っていたんだね」
猫の足をゴシゴシ拭きながらそう聞くと、マリーは靴を脱ぎながら振り返る。どこか得意げな表情をしているのは、日本でも精霊を操れることが嬉しいのだろう。彼女は日に日に成長しており、いつか夢の世界と同じくらい自在に扱えてしまうかもしれない。
「んふ、そうなの。たっぷり友達になってくれたから、まだしばらく一緒にいてくれるわ」
「あの青森のときか。うん、便利だねぇ。これならアロマもいらなそうだ」
つい先月、ゴールデンウィークに帰省したところ、桜の名所でエルフと精霊は触れあった。少女を中心に花びら舞い散る光景は、周囲の人々さえ驚いていたものだ。あれ以来、こうして小さな楽しみを与えてくれている。
さしずめ青森旅行の小さなおみやげ、といったところか。
と、足を拭き終えるなり黒猫はトコトコと部屋へ歩いて行く。
振り返りもせず「にう」と鳴いてくるのは「ありがと」くらいの感じかな。ともかく梅雨時期でもこのように快適で、読書でも映画でもゆったり楽しめるのはエルフさまさまと言ったところか。
それからいつものように紅茶を淹れ、ベッドと窓のあいだへ向かう。この時期は差し込む日が弱々しいので、ちょうどこの位置が本を読むのに適しているわけだ。
少女は先に読書を始めており、すぐ隣へ紅茶とクッキーを置くと「ありがとう」と綺麗な笑みを見せてくれた。
本当に眺めているだけで嬉しくなるほど可愛い子だと、腰を降ろしながら思う。妖精のような子がクッキーをかじり、こくりと紅茶を飲んで、そしてみるみる機嫌を良くさせてゆく様子を見るのは僕の密かな楽しみだ。
と、マリーへ伝えるべきことを僕は思い出す。
「そうだ、来月にはボーナスが出るよ。そうしたら家具を見に行こうか」
「……ぼーなす?」
本を開いていたマリーは小首を傾げ、こちらを見上げてきた。ああ、そういえばボーナスという響きは夢の世界では馴染みが薄いか。
「特別手当のことかな。年に2回あって、働きに応じてお金をくれるんだよ」
「あら、問題なく暮らしているのにお金をくれるだなんて。あなたが優秀なのか、それとも会社という所がよほど儲けているのか……」
うん、前者であってくれると嬉しいね。
どうやら黒猫は冷たい床は嫌らしく、見比べたあとに僕の膝へ乗ってきた。単純に少女が本を広げているので場所が無かったようだ。
小さな爪でぷちぷちとズボンを何度か踏み、それからぽすんと寝転がる。
と、そんな黒猫の様子を見てマリーは呟いた。
「……そういえばウリドラもなかなか戻れないわね。お子さんが落ち着くまでどれくらいかかるのかしら」
うーんと黒猫は考えこむ顔つきをし、それから「にうにう」と鳴いてくる。
「あと2日ね、分かったわ。もし遊びに来れるなら第2階層の攻略を本格的にしましょうか」
そう、あれからウリドラはなかなか僕らのパーティーに参加出来ていない。なんでも子竜にとって大事な時期であり、安定するための儀式を行っているそうだ。
「まあ、育児休暇みたいなものだね。こちらは困ってないから無理しないで構わないよ」
了解という意味で黒猫は「にう」と鳴いた。
そのような事情があって迷宮攻略はおざなりだ。もっぱら書物を読んだり、ごく安全なエリアにしか立ち入っていない。
退屈になればウリドラの寝床へ行き、ダラダラと過ごしていたのだが、あと2日もしたら本格的に挑むことになりそうだ。
「ま、それまでは時間もあるし、文字の練習がてら字幕付きの映画でも見ない?」
「あら良いわね。ではあなたへ読み聞かせるのは夜にしてあげる。そのまま寝かしつけてしまうから覚悟なさい」
おや、それは楽しみだ。
僕が先に寝たら夢の世界へ一緒に行けるかは疑問だけど……まあたぶん、きっとマリーのほうが先に寝てしまうだろう。
そういうわけでベッド脇のモニターを床へ降ろし、だらりと見れる体勢を整える。少女はクッションを僕の前へ置き、なかなかどかない黒猫を抱えてから小さなお尻を下ろしてくる。
以前からそうだったが、少女はより密着することを好むようになってきた。脚のあいだに柔らかいお尻の感触が伝わり、そしてほっそりとした背中を重ねてくる。……とはいえ背もたれとして合格をいただいたに過ぎないかもしれないが。
どうぞと少女が両腕を上げたのは「腰を抱き支えてちょうだい」という意味だろう。望むまま華奢な腰を抱くと、真っ白で綺麗なうなじが目の前だ。
少女特有の甘い匂いを覚えつつ、近くにあるリモコンを手に取った。
……うん、学生服に近しい白シャツと黒スカートの組み合わせのせいか、軽く犯罪っぽい光景になるなぁ。とはいえ彼女は僕よりずっと年上なのだし問題は無い、か?
まあ、細かいことは気にせずエルフさんと映画を観ましょうかね。コクリと頷かれたので僕はリモコンのスイッチを押した。
さあさあと窓からは細かい雨の音が響いている。
差し込む陽光はずいぶんと弱く、梅雨らしい天候だ。
それでも映画が始まると雨の気配は遠ざかる。
物語とは、そうあるべきだ。
ひとつの物語へ引きずりこまれるうち、周囲のことなどすっかり忘れてしまう。
……それがたとえ悲劇から始まるものだとしても。
傲慢に過ごす男へ、決して己では解けぬ呪いがかけられた。それは傲慢な態度に似つかわしい「怪物」として一人きりで過ごす、という呪い。
序章が終わり暗転するあいだ、かり、と少女のクッキーを齧る音が響いた。
場面が切り替わると少女はとても驚いただろう。
色彩もそうだが人や動物は華やかで、誰もが表情豊かだということに。そのような娯楽を知らない少女と黒猫は、やはり瞳を真ん丸にさせていた。
「これはミュージカルと言うんだよ。歌というのは言葉よりも感情を伝えることが出来るからね」
そう静かに囁きかける。音楽を邪魔しないように、物語へより没頭できるように。
もうひとつ、物語へ没頭できる要素があったろう。ヒロインの若く美しい女性は、趣味をこよなく愛する人物なのだ。まるで日本で暮らすエルフ、マリアーベルのように。
「あら失礼ね。趣味や映画を愛さない人こそ変わり者なの。彼らはきっと、人としての心を失っているのよ」
おや、真面目だったはずのマリーも、いつの間にやら娯楽を愛する女性になったようだ。失礼しましたと彼らに代わって謝ると、こちらを見上げてきた少女は色づいた唇を微笑ませた。
そのような所作ひとつで、一般市民である僕なんかはイチコロだと少女はもう気づいているかもしれない。ときどき唇が触れそうなほど近くで彼女は囁いてくるのだ。
甘い吐息がくすぐると、その柔らかさを知ったせいで思考がぼんやりするほど魅了されてしまう。彼女の声、きれいな瞳、ふっくらとした唇には抗うことなんて出来やしない。
じいとアメシスト色の瞳に見つめられ、それからエルフは満足したよう頬を撫でてくる。まるで「おあずけ」をされたような気分だが、彼女の魅惑的な笑みを見るとあながち間違いでは無いかもしれない。
さて、いつしか女性は怪物と出会うことになり、物語はようやく動き出す。
とはいえブーイングを送るのはエルフの少女だ。
「なにかしらこの人、すごく嫌な男ね。女性に優しく出来ないなんて」
どうやらマリーは怪物じみた男性のことがお嫌いのようだ。見た目の問題ではなく、ひどく乱暴的な言動が耐えられなかったろう。とはいえ汚い面があってこそ人間味は増す。だからこそ、ただの絵がまるで生きているよう息吹を放つのだ。
魅力的な女性から触れられるたび、怪物は隠れていた感情をひとつずつ見せ始める。そのような感情がある事を知らなかったのはヒロインだけではない。この怪物でさえ、己にそのようなものがあるとは思っていなかったのだ。
そして物語は進み、いくつかの試練を乗り越えてゆくうち、また新たな面を見せ始める。それは女性への愛とも呼べる儚い感情だ。
「……不思議だわ、こんな怪物が可愛いと思えてくるなんて」
そう、彼らが触れ合っているうち育ちゆく愛情は、確かな絆を芽生えさせていた。たとえ怪物であろうとも愛情で繋がっている以上、本来持っていたはずの印象は大きく変わりゆく。
いつの間にやら少女と黒猫は前のめりになり、2人の仲を応援していた。変わり者同士が近づき、日に日に仲を良くさせてゆくそれは、花が育つのを見守るような感覚だったろう。
そのような楽しい時間だけであれば良かったのだが……。
物語には必ず谷が待っていると、既に少女も黒猫も知っている。
起伏に富んでいるほど物語には深みがあらわれ、そしてやってきた不穏な音楽へエルフはべたりと抱きついてきた。
なにしろ明るい雰囲気に包まれていた作品だ。
そのぶん転調は分かりやすく、とても残酷に見えたに違いない。マリーにしては珍しく怯えた顔をし、すがりつくよう華奢な身体を預けてくる。わずかな膨らみからはトクトクという心音まで伝わって来た。
それでも瞳を閉じないのは、この先の結末が気になって仕方ないからだ。今まで見守ってきた彼女らが幸せにならなければ嫌なのだ。怖くても夜遅くまで読み進めてしまう小説のように、少女は物語に没頭していた。
さて、それは星降るような夜のことだった。
幾つもの苦難を乗り越えているうち怪物はいつの間にやら女性を敬い、そして礼儀正しく手を差し伸べる姿を見せた。
そして女性もまた怪物を愛し、差し出された手を優しく受け取る。
怪物には似つかわしくない。けれどどこか「似合っている」と感じさせるのは、きっと2人の仲が近づいたおかげだろう。
祝福をすべき人々はそこに無く、代わりにあるのは彼女らの微笑みきり。
鋭い爪が大事な人を傷つけてしまうかもしれない。そのように不安げな顔へ、女性はとても柔らかい笑みをかえした。そして戸惑う彼を無視し、より身体を近づけるよう促してくる。
そう、不安を覚える必要はまるで無いのだ。
ここには彼女たちしか居ないのだから。
観衆もなにも無い、星だけが静かに見守るささやかな場だ。
それなのにマリーがぼろぼろと涙を流しているのは、この場には奇跡が満ちていると知っているからだろう。
決して手を取り合うはずのない2人が、いまこうして互いを支えあい、そして舞踏をするように身を寄せ合う。そう、かけがえのない時だと互いに知っているからこそ、誰がいなくとも華やかさを生む。
満開の花などでは決して無い。
怪物には似つかわしくない、たった一輪の可愛らしい花だ。
いや、だからこそ美しく感じさせるのだろうか。呪いを受けても怪物が望んでいたのは、こんなにも小さな、それでいてかけがえの無いものだったことが。
やがて唇は重ねられ、星降る夜に起きたとても小さな奇跡に、エルフと黒猫はただ幸福感へ酔いしれた。
これ以上ない極上の時間が過ぎると、ようやく梅雨の気配が部屋に戻る……はずだった。膝の上へまたがるマリーがこちらを向き、うっとりとした顔で囁いてくるまでは。
「素敵……、いまとても幸せな思いをしているの。あなた、このために映画を選んだのね?」
そう言いながら、つんつんと僕の唇をつついてくる。マリーが首筋へ腕を絡めてくると指一本分の隙間しか無くなり、少し動くだけで触れてしまいそうだ!
「ちがい、ますよ……?」
たらりと汗を流しつつ答えるも、視界にあるアメシスト色の瞳はどこか夢見心地のそれだ。頬は赤く染まり、そして色づいた唇はとても柔らかそうに見えてしまう。
赤い唇はわずかに開き、吐息が絡むほど近づく。ああ、もう言葉を発するだけで触れてしまいそうだ。ふうふうという吐息が当たり、それが脳髄を溶かすほど甘い香りを運んでくると、僕の理性は音を立てて崩れはじめる。
いかん、いかん、マリーの香りにのぼせそうだ。
とはいえ互いの心臓はばくばくと鳴り続け、密着した少女の身体は確かな柔らかさを伝えてくる。
と、マリーの背へ黒猫が飛び乗ると、ぷるりと唇は絡んだ。半開きだったせいで前よりも深いキスになり、その柔らかさへ呆然としてしまう。
ふすふすという彼女の吐息はくすぐったく、それでいて互いに薄目をして見つめあう。すると支えていた腕の力は抜け、ずるずると床へ後ろ倒しにされてしまった。
それでも彼女が離さないものだから、どうしようもなくマリーの柔らかさを全身で味わうことになる。とろりとしたエルフの甘い唇、重ねた身体、そしてまたがる太もも……。
これは、ちょっと、マリーさん、のぼせてしまいます……。
そうして映画のスタッフロールが終わるまで口付けをしあうと、ちゅっとわずかな音を立て、ようやく彼女の唇は離れてくれる。
ああ、これは本当にのぼせているかもしれない。身体がどこかふわふわしており、なおも密着されているとわずかな理性さえ崩壊してしまいそうだ。
とろんとした顔のままマリーは囁いてきた。
「残念。寝ぼすけ顔の呪いは解けなかったみたい」
「……これ、呪いだったの? 生まれつきだと信じていたよ」
もう一度試してみようかしら、と思案をしているエルフへと僕は囁きかける。とびきり彼女の気を引ける言葉だ。
「途中、綺麗な城があったのを覚えているかな。あれに似たものが近所にあると聞いたら……どうしたい?」
そう言うと、彼女の瞳は輝きを増す。
僕が嘘をつかないのは知っているし、さきほど魅了されたばかりの物語だ。やはり少女……だけでなく黒猫まで視界いっぱいに迫ってきてしまう。
「行きたい行きたい、行きたいわ!」
「にうにう! にうにう!」
うふふ、猫のヒゲがくすぐったいね。
よし、ウリドラが戻ってきて、それから梅雨の切れ間があれば行ってみましょうか。
「わっ、やった! ウリドラ、お出かけですって!」
「にゃんにゃん!」
まさかエルフと黒猫が僕の上でハイタッチするとはね。
それにしても可愛い子からお願いされると、たまらなく嬉しいのは何故だろう。なんとなく、僕はわがままな子が好きなのかもしれないけれど。
まあ、そういうわけで僕らのお出かけ予定は埋まったわけだ。




