第75話 蛙さんとエルフさん
息を殺し、辺りを警戒しながら進む。
迷宮の通路は広く、天井は見上げるほど高い。しかし迷宮慣れしている精鋭なのに、泥のなかを歩むよう足が重い。まるで何かにしがみつかれているようだ。
さて、この暗い道にいったい何がいるのだろう。
そう思っても決して振り返ってはいけないよ。
後ろを歩く仲間が1人、すでに姿を消しているのだから。
すうっと伸びてくる指は骨が透けるほど肌が薄く、氷と思えるほど全身は透明だ。ひらひらとヴェールは舞うものの音と気配は一切無い。
その指は背後から伸ばされて……ああ、どうやら古代迷宮第2層の主人は、もうひとり巣へと持ち帰りたいらしい。
やがて迷宮には魂を吸われる悲鳴が轟いた。
2層の攻略は難航している。
どこからやって来るか分からない階層主、シャーリーが邪魔をして来るのだ。
この階層へ足を踏み入れてからというもの、四六時中いつでも監視されるような嫌な思いをしていた。
それでもルビー隊のガストンの活躍により階層主を撃滅したのだが……すぐに新たなシャーリーが姿を現した。傷のひとつもない綺麗な身体で。
以来、いつ終わるか分からない戦いを彼らは続けていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しとしとと降る雨が、ビニール傘を伝い落ちてゆく。
6月になると本格的に梅雨入りし、この東京都江東区にもしつこく降り続けていた。とはいえ、紫陽花の花をじいっと見つめる少女にとっては苦でもないらしい。
半袖シャツ、それに黒のスカートとどこか学生服に似た服装をし、背丈や顔立ちは15歳くらいだろうか。もっとも、日本人とかけ離れた容姿をしているので年齢は分かりづらい。
透き通るような肌。さらりと腰まで伸びる髪は、この空よりも白い。そしてアメシスト色の大きな瞳は、通り過ぎる誰もが妖精かと思うほど。
それ故にこの江東区……いや、日本において少女は浮いている。しかし人々の好奇な視線さえ、梅雨と同じくらい苦にならない顔つきだ。
それよりも、と少女は花壇を覗き込む。
目の前には先ほどの紫陽花があり、大きな花と葉をつけている。すっきりとした青、品のある紫と色調は株によって異なり、また同じ株でも色が混じる。それが不思議で少女――マリアーベルは見つめていた。
と、その興味は異なるところへ移ってしまう。
よじよじと進むかたつむり、そしてよく見れば足元にはカエルがいたのだ。雨宿りをしているのか、新緑色のカエルはじっと動かず、ぶくぶくと喉を膨らませている。
「わあ……、かわいい。あなたはカエルね」
そっと囁きかけるとカエルはぶくぶくを止め、黒い瞳で少女を見上げてきた。彼が不思議そうな顔をしたのは、ひょっとしたら少女が半妖精のエルフ族だと見破ったかもしれない。東京で暮らしているけれど、彼女は少しだけ人と異なるのだ。
しゃがみこみ、じっと互いに見つめ合う。それが彼女らの挨拶だったらしく、そっと指を伸ばすと彼はぴょんと乗ってきた。ぺたぺたと歩み、小さな目でまた少女を見上げてくる。
と、そのときマリアーベルへ影が落ちた。
少女とカエルが見上げるとそこには一人の青年が立っている。髪も瞳も黒く、どこか眠そうな印象をした男だ。
「やあ、お友達ができたのかい?」
顔つきと同じくらい柔らかい声が響き、少女はこくりと頷いた。
できたばかりのお友達を見せてあげると青年は眺め、そして足元にいた黒猫が「にう」と鳴く。
変な紹介になるが、この黒猫こそ魔導竜……の使い魔であり、青年はというと「夢と現実」を行き来できる稀有な人物だ。名を北瀬 一廣と言い、社会人として働いている。
今はまだ、その能力を得た理由は分かっていない。
「ええ、たったいまお友達になったの。でも家まで連れてゆくことは出来なさそう」
「彼の住処はここだからね。雨がとても好きな生き物だよ」
ふうんと少女は返事をする。
いつの間にやらカエルは喉をぶくぶくと膨らませており、青年の言うとおり雨を喜んでいるように見える。そして指先を住処へ向けると、カエルはぴょんと帰って行った。
彼らはもう2ヶ月も同じ屋根の下に暮らしている。
いや、夢のなかでも一緒なのだから、その倍は一緒にいる計算になるだろう。
彼と少女の出会いは夢のなかだった。
北瀬 一廣から見ると「夢だと思っていたら異なる世界だった」という事らしく、エルフ族の少女はそこで暮らしていたわけだ。
2人は黒猫――の主人である魔導竜により即死させられ、こちらの現実世界で互いに目覚めてしまった、という経緯がある。
それがきっかけで夢のなかは夢ではなく、異なる世界であることに一廣は気づいた。
とはいえ何か凄いことへ発展する……などという事も無く、互いの世界を満喫すべく、ごくのんびりと平和な時を過ごしている仲だ。
その気になれば他者より有利な点を活かし、のし上がっていただろう。しかし今の生活に満足しているのだから仕方ない。
そしてまた日を重ねるたび2人の距離は近づきつつある。このままだと、いつかぴたりと重なってしまうかもしれないわ、などとエルフがひっそりと思うほどに。
「それじゃあ、家で読書でも楽しもうか」
「ええ、そうしましょう。文字にも慣れてきたから、今日は私が読んであげる」
少女は意識せず、にこりと微笑んでしまう。
笑うような会話では無くとも、紅茶を飲み、しとしとと降る雨を聞きながらの読書は楽しいだろうと想像したからだ。
手を伸ばすと当たり前のように握られ、そして互いの指は絡みあう。指のあいだを触れられるとくすぐったく、腰のあたりへむずりとした感覚が走った。
……きっとこれがそうなのだろう。現の世界でも夢の世界でも、少女がまるで不安を覚えない理由は。彼がそばにいることで、不安を覚える間もなく楽しんでしまうのだ。
彼らが歩き出すと黒猫はどちらの傘がより雨を防げるかウロウロし、迷ったあげく2人のあいだを選んだ。
梅雨というのは長く長く降り続ける。しかし、言われていたほど嫌な天気じゃないわ、などとエルフはやはり考えた。
彼らは今日もずっと一緒にいるだろう。
そして遊び尽くした後には、悲鳴轟く古代迷宮へ挑むのだ。




