第71話 青森めぐり桜吹雪編⑤
たらふく食べた後はコタツで丸くなる、というのはエルフも黒猫も変わらないようだ。
とはいえ、ぽこんと膨らんだお腹のせいで猫は丸まれず、仰向けに近しい姿勢で寝そべっていた。
そして少女はというと、ぽやんとした瞳を天井へ向け、うつらうつらと舟をこいでいる。美味しい食事とお酒により幸せそのものという表情をしており、それを眺める僕らまで頬を緩めてしまう。
ぽんと老人から肩を叩かれたのは「お風呂に入れてあげなさい」という意味がある。このまま眠ったなら空を登るよう気持ち良いだろうけど、お気に入りの洋服が皺になってしまうからね。
「マリー、眠る前にお風呂へ入ったらどうかな」
「……ひゃい。ええと、あれ、お風呂ってどこかしら……」
囁きかけると、少女は寝ぼけた顔を見せたあと「起こしてちょうだい」と両手を伸ばしてくる。よいしょと抱き起こせば黒猫は枕を失い、こてんと反対側へ寝転んでしまう。
猫にとっては寝床が急に消えたようなものだろう。ようやくビー玉のように綺麗な瞳を開いたころ、僕らは薄暗い廊下に出ていた。
しばし黒猫は悩んだが、田舎のお風呂というものに興味をもったらしい。のたのたと歩く姿はいかにも眠そうで、伸びをひとつし、それからようやく居心地のよい居間を離れる決意したようだ。
かつかつとガラスへ爪を立てるとおじいさんは戸を開けてくれ、するりと廊下へ飛び出した。田舎の廊下は薄暗くて寂しいが、この先には2人がいるだろう。
お腹はたっぷり重いけど、軽やかな足取りで黒猫は暗がりへと歩いていった。
――がららっ。
立て付けの悪い戸を開くと、そこには広めの風呂場が待っている。しかし薄暗い様子に怖がっているのか、二人してそおっと覗き込んでいた。
「今日はたくさん汗をかいたろうからね。この椅子に座って、しっかり身体を洗うんだよ」
「う、うん……妙な雰囲気があってすこしだけ怖いわね。その……」
言おうか言うまいか迷う素振りをし、それからおずおずと上目づかいに訊ねてくる。
「お化け、出ないかしら……」
あれ、彼女は精霊を操るエルフであり、僕よりずっと不可思議な存在を見ているはずなのに。とはいえ心細げに言ってくるものだから茶化すのも難しいか。
お化けなんていないさと答える代わり「はい、どうぞ」と僕はプレゼントを差し出した。
「わ、赤い、リンゴ?」
ずしりと重みのある林檎は、暗い脱衣所でも照りを見せる。十分に熟しているため手に持っただけで甘い香りが漂うほどだが、その唐突な贈り物に少女と黒猫は瞳を丸くさせていた。
「痛みがあって売り物にならない青森産の林檎だよ。お風呂に浸けると香りを楽しめるらしくてね。どうかな、2人で確かめてみるというのは?」
そう伝えると、2人の瞳にほんのすこし輝きを灯らせるのが分かる。
どうやらお化けなどより未知なる入浴剤への興味が勝るらしく、エルフと黒猫は顔を見合わせコクコクと頷き合う。
「それに、もし心配なら近くにいても構わないよ」
「もう、最初からそう言ってくれたなら怖がらなかったのに。ウリドラも一緒に入るかしら?」
返事代わりとして黒猫は一足お先に風呂場へと入り、遅れて少女も服を脱ぎ始める。ぱさぱさと脱衣カゴへ放られ、それから待機していた僕へ「いいわよー」と呼んでくる。
そういうわけで風呂場には林檎の香りがぷうんと広がり、黒猫は桶を湯船にして風呂を堪能することになった。
「お湯加減はどうかな、2人とも」
「ええ、ちょうど良いし甘酸っぱい匂いがとても新鮮。私たちの入浴剤コンテストに出たら優勝してしまうかもしれないわ」
どぽんという音は、たぶん林檎が湯にもぐる音だろう。
もうひとつ、どこまでも音が吸い込まれてゆくような静けさは田舎ならではかもしれない。まるでこの風呂場の外には何も無いかのようだ。
ふう、という息づかいもどこか鮮明に聞こえ、湯気に乗って届けられる香りは甘い。
やがて少女は鼻歌を口ずさむと、風呂場はより華やかな場となる。
もしお化けがいるとしても、空気を読んで退散するかもしれないね。まあ子供のころに見たきりだし、きっともういないだろう。
合いの手のように「にうー」という鳴き声も混じると、なかなかに賑やかな歌を味わえたものだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パジャマに着替えて廊下へ戻ると、縁側でたたずむエルフを見かけた。
ほっそりとした身体はどこか儚げだ。
しかし黒猫を優しく撫でている姿からは母性さえ感じ取れる。
肌の色素はうすく、そして綿毛のように白い髪をしているものだから妖精じみた繊細さを覚える。辺りから切り抜かれたよう強調されており、床がきしんだのか彼女はこちらを振り向く。
月明かりの下で見ると、色彩鮮やかな瞳へ吸い寄せられそうだ。もうアメシスト色から目が離せない。
からんと鳴るグラスに、ようやく僕は声を上げることを許された。
「……林檎ジュースをもらったのかな?」
「ええ、先ほどおじいさまから頂いたの。お風呂からあがっても楽しめるとは思わなかったわ」
どうぞ、と隣の縁側を示される。彼女はいつでも僕を迎えてくれるらしい。
誘われるまま隣へと腰掛け、それからひとつの提案をした。
「いい夜だね。よければ少しだけ散歩をしないかな」
「あら、素敵なお誘い。けれど、あなたが戻ってきたら私から誘おうと思っていたのよ」
にこりという綺麗な笑みに心臓は少しだけ高鳴る。
手を差し出せば重ねられ、きゅうと指先は間へもぐりこむ。それからゆっくりと、僕らは夜道を歩き出した。
すこしだけ風があるのだろうか。
さわさわと頭上から響く葉の音がひどく新鮮だ。
林のなかまで月明かりはさほど届かず、そして土を踏み固めた道のせいで足元は少々悪い。しかし半妖精であるエルフが一緒であれば問題は無いだろう。
蛍のように浮かび上がる灯火へ、ちょん、ちょん、とエルフは指先で突付く。二度ほど触れるとほのかな明かりが広がり、おかげで足元に苦労する必要は無くなる。
振り向いた彼女はやはり得意げな顔をしており、手を差し伸べて迎えると「んふ」と満足そうに微笑んだ。
「たぶん、これくらいの明かりなら周りから驚かれないと思うわ」
「やっぱり便利だね、光の精霊を操れるだなんて」
少女はいつの間にやら日本でも精霊を操れるようになり、そして世界有数の困難さと言われている日本語でさえ習得してしまった。普段は幼いとさえ思えるのに、そのギャップには常々おどろかされる。
その彼女は、木々へ囲まれるとまた異なる姿を見せてくれる。
神秘的、あるいは静かな躍動感とでもいうべきか、真夜中に出会う鹿へ良く似た雰囲気をまとう。
「ああ、夜が静かでとても綺麗ね。連れてきてくれたお礼を言わせてちょうだい」
「田舎だから退屈するかと心配していたけどね。ただ、ウリドラも来れたのは計算外だったかな」
と、文句を言うように黒猫からすねを引っかかれてしまう。エルフより夜目のきく瞳を輝かせ、ズボンに登ったまま「にう」と彼女は鳴いた。
「まさか、退屈するだなんて。たったの一日とは思えないほど濃い時間だったもの」
「ずいぶんと鍋を楽しんでいたね。2人とも気に入ったかな」
「ええ、凄かったわ。あれほど味わい深い料理というのは初めて。きっと青森と聞くだけで毎回のように思い出してしまうわ」
暗がりのなか、同意するよう「にう」と黒猫の鳴き声も混じる。どうやら彼女たちは鍋というものを堪能してくれたらしい。
「なら迷宮で鍋を作ってみても良いかな。あれなら身体も温まるし、出来上がるのも早いから」
何気なくそう呟くと、ぐんと腕を引かれた。どうやら足を止めたマリーに引っ張られたらしい。見ればエルフだけでなく黒猫まで瞳をキラキラとさせていた。
「わ、わ、いいわね、ぜひやりましょう。ねえねえ、迷宮に青森の味を持ち込みましょうよ」
にうにうと黒猫と揃ってせがんでくるのは、まるで僕を説得しているかのようだ。その必死な表情には思わずぽかんとさせられる。
となると、僕はもう頷くことしかできないだろう。
「それじゃあ日本の代表料理、鍋を持ち込んでみようか」
「やったあーっ! んふふ、また迷宮攻略が楽しみになってきちゃったわ」
猫ちゃん!とマリーが振り返ると、待っていたかのようにウリドラは腕の中へと飛びこむ。がしい、と夜道に抱きつく様子はなんだかちょっと変だ。
「おじいちゃんは僕の師匠でもあるからね。同じ味を再現してみせるよ」
「どおりで。何となく雰囲気も似ていると思ったもの。ひょうひょうとしているのに、何でも知っていそうなところがそっくり」
え、僕はおじいちゃんに似ているのか。
なんだか年の割りに老けていると言われたような気になるね。
ざざ、という葉擦れの音は途絶え、頭上を覆うものは無くなる。
林を抜けた先には、ずっと先まで続く小道があるきりだ。
なにげなく見上げると、二人して声を漏らしてしまう。都内とは比べようも無い星がそこにあり、解放されたような思いをしたせいだ。
ほお、と息を漏らした。
夜のなか、ぽつんと僕らだけが取り残されているようで、物寂しさだけでなく手を繋いだ者の存在感に気づかされる。だからだろう、彼女の響かせる声がずっとそばから聞こえた気がした。
「またあとでね、光の精霊たち」
わずかな光も消え去ると、星々はさらに輝きを増した。
山側へ歩いたせいで街頭ひとつ無いなか、彼女はぽつりと呟く。
「夜の時代は、こんな光景だったのかしら」
「ああ、夢の世界のことだね。どうなんだろう、ずっと昔はこんな光景だったのかなあ」
ただひとつだけ分かるのは、こうして寄り添う者がいなければ、きっと厳しい時代だろうということだ。もしもこの手を離したならば、彼らと同じ思いをするだろう。
ただ一人、その時代を知るだろう魔導竜は沈黙を守り続けている。
毛並みのせいですっかり闇へ溶け、今はどこにいるかも分からない。
ざあと梢が鳴り、ようやく僕ら以外の音が世界に響いた。
横に並べられた布団を見て、僕らは顔を赤くするでもなく片方へもぐりこむ。
いつもより少しだけ硬いものの、陽の香りがする布団は気持ちよく寝れそうだ。
向こうの枕を引き寄せ、そしてエルフはするりと腕のなかへやってくる。考えてみれば最近はもう枕はひとつで足りていることに気がついた。
どこにしようかと黒猫はうろうろ歩き、それから僕らのあいだ、わずかな隙間へすぽりとへと潜り込む。
「たくさん移動したから疲れたよね。ゆっくり休もうか」
「そうしましょう。ほんと夜が静かで、あなたの音ばかり聞いていたわ」
にうう、と布団の中から声が聞こえ、くすりと互いに笑う。
ごく自然に彼女は脚を乗せ、首筋へと潜り込み、そしてふうと満足げな息を漏らす。どこか甘酸っぱい匂いがするのは、たぶん林檎のせいだろう。
それを嗅いでいるうち、まぶたは重くなってゆく。
呼吸はゆっくりしたものへと変わり、やがて意識はとろりと溶けてゆく。
とぷんと水へ沈むように、僕らは夢のなかへと足を踏み入れた。
「どれ、まだ起きているかな?」
少しだけ経ったころ、ふすまは静かに開かれる。
この家の主人が、2人の起きる時間を訊ねに来たらしい。
と、刻まれた皺はより深まり、老人は瞳を見開かせる。
静けさに満ちた部屋には、ふくらみのある布団はひとつきり。そしてゆっくりと平らになってゆく光景を見たからだ。あとには眠気を覚えるほど温められた布団だけが残され、しかし老人は穏やかに笑った。
「ふ、ゆっくり遊んできなさい、2人とも」
ぱたりとふすまは閉じられ、古い廊下は足音を響かせる。
彼の気配が遠ざかると、雪深さを思わせるほど世界はシンとした静けさへ包まれた。




