第56話 豚の角煮ですよ、エルフさん②
じゃっ!と炒めものをしているときに、ぴんぽーんとチャイムが鳴った。
見上げればすでに夜の7時半で、時間通りに彼女が訪れたと分かる。
「お願い、マリー。薫子さんを迎えてくれる?」
「ええ、もちろん。こちらは任せてちょうだい」
どんと頼もしく胸を叩き、そして耳隠しをつけた少女は軽やかに玄関へと向かう。先ほどまでずっとDVDパッケージを眺めており、文字は読めずとも上機嫌な様子が伺えた。
1DKの小さな間取りなのでキッチンのすぐ背後に玄関があり、がちゃりと開くと薫子さんの声が響く。
「こんばんわ、お二人とも。角煮を持ってきましたよ」
「いらっしゃいませ、薫子さん。どうぞ上がってください」
そうマリーが話しかけると、薫子さんは大鍋を両手にしたまま目を見開いた。
「あ……、びっくり。マリアーベルちゃん、すごく日本語が上手くなったわね!」
「んふ、だいぶ練習しましたから。ですが難しい言葉、それに文字はまだ覚えていませんよ」
はあ、と感心する表情を薫子さんは浮かべる。
普通であれば数ヶ月、いや数年がかりで覚えるものだというのに、ものの一ヶ月でほぼ習得してしまうという秀才ぶりだ。ぽかんと口を開いてしまうのも仕方無い。
彼女はシックな色合いをしたパンツルックをしており、きっと落ち着いた服装が好きなのだろうと思わせる。肩までの黒髪は清潔感があり、図書館勤めの司書らしい雰囲気をしている。
じゃっじゃっと具を炒めながら振り返り、呆然としたままの薫子さんへ声をかけた。
「さ、上がってください。手作りの角煮なんてひさしぶりで楽しみですよ」
「あら、あまり期待しないでくださいね。私の実家のレシピで、お二人の舌に合うか分からないんですから」
彼女から大鍋を受け取り、隣のコンロへと乗せる。
カチチと火をつけ、背後を薫子さんが通り過ぎてゆく。
「わあ、間取りはこちらのほうが狭いのに、ずっと広く感じられますね」
「そういえば薫子さんの階は1LDKでしたっけ。ええと、それほど家具を置いていないせいかもしれませ……」
ぎょっと僕の身はすくむ。
振り返れば薫子さんは、一つきりのベッドを見て固まっていたのだ。
そうだった、すっかり忘れていたけどマリーと僕は同じ布団で眠っているのだった。とはいえこの広さだと2つ並べるとだいぶ部屋は狭くなる。
「……北瀬さん?」
やや硬質な声音と共に見上げてくる薫子さんは、少しだけ頬を赤くさせていた。
いやいや、一切手を出してませんからと無言で伝えたのだが……ちゃんと伝わっているのかな、これ。
火にかけた大鍋はコトコトと鳴り、甘く美味しそうな香りを運んでくる。僕らの微妙な雰囲気に、少女は不思議そうに小首を傾げていた。
かつんとテーブルへ角煮、炒飯、チンゲンサイの炒めもの、そしてビールを置くと女性陣はわっと盛り上がる。
人前なのでマリーはお茶なのだが、やはり「あら……」としょんぼりしていた。ごめんね。
小皿やレンゲ、箸などを並べるのを手伝ってくれたので用意はあっと言う間に終わる。
どどんと中央に鎮座する角煮こそ主役であり、ぷるんと色づいた肉厚の豚肉、そして紹興酒や八角の香りが鼻をくすぐる。
「うあ、あ……いい匂いっ……! これも勝手に唾が出てしまう料理ね」
「角煮を美味しく食べるコツはね、口を大きく開けてがぶりと行くことだよ。では、いただこうか」
いただきますと挨拶をし、大皿に乗せられた角煮へと少女は慣れないお箸でプスリと刺す。とろんとろんに煮こまれた豚肉はあっさりと奥にまで刺さり、宙で柔らかそうに震えながら彼女の口元まで運ばれてゆく。
照りのある美味しそうな色合い、ふわんと漂う甘い香り、そしてプルッと震える光景に、少女は魅了されるよう唇を大きく開いて待ち構える。
んもっ、と唇で挟み、そして歯を立てるまでもなくブ厚い肉は千切れる。いや、溶けるという表現が近しいか。
きっといま、ドロリと口内を占拠する肉に驚いているだろう。
口のなかいっぱいに旨味が溢れ、肉汁と中華ならではの豊潤な香りに少女はあっと言う間にノックダウンされた。
「~~~……っ!!」
ぎゅうと両手をにぎりしめ、たらりと口元を汁がこぼれても気にならないほど味の洪水を楽しんでいる。一気に噛め、一気に味が広がり、そしてどろりと脂身は原型を失う。咀嚼をしている間は鼻を香りが抜けてゆき、噛めども噛めども味が薄れることは無い。
びっくりした顔のまま咀嚼を続け、ごくんと飲み込んだ後も少女はしばし動くことを忘れていた。
「おいしい……」
そんな感動めいた表情を見て、僕と薫子さんは頬を緩ませる。
本当にこの子は味への反応が素直で、こうして見ているだけで楽しめるのだ。薫子さんはこちらを向き、今までに見たことのない満面の笑みを浮かべていた。
「たまらないですね、北瀬さん。私、角煮になりたいです」
ええと、あなたも少し変わった人なのですかね。
てっきり真面目な公務員だと僕は信じていたのですが。
……とはいえ、気持ちは少しだけ分かります。
「マリー、口元をぬぐっても平気かな?」
前に機嫌を損ねさせたことがあるので尋ねてみると、ぽやんとした顔でマリーはこちらを見て、こくんと頷いてくる。
了承を受けたのでティッシュで汁をぬぐうと、唇はぷるりと柔らかな感触を伝えてきた。
「カズヒホ、私、角煮になりたいわ」
あなたもですか、エルフさん……。
日本語として少しおかしいけれど、それより角煮の人気ぶりには僕も嫉妬しそうですよ。
まだひとくちも食べていないと言うのに僕と薫子さんは大きな声で笑った。
さて、炒飯は角煮の味を引き立たせるようあっさりとした味付けをしており、おかげでビールはたまらなく美味しい。
一杯、二杯と空けてゆき、食事を終えるころには薫子さんは顔を赤くさせていた。きっと飲み会の旦那さんよりも堪能しているだろう。
ふうー、と二人は椅子にもたれかかり、満足しきった表情を浮かべている。
「私、北海道出身で、このお肉は実家から送られたものなんです。ほら、夫は少し太り気味でしょう。カロリーを考えると悩ましかったんですよ」
「へえ、羨ましい。僕は青森出身ですが北海道に行ったことは無いんです」
薫子さんは頬杖をつき、赤くなった頬に触れていた。
お酒のせいかいつもより表情は豊かで、ときおりマリーを眺めては頬をにまにまと緩ませる。
「そういえば、お二人ともゴールデンウィークはどちらへ?」
「せっかくですので、その青森へ帰省しようと考えてます。農家のおじいさんに挨拶をしようと」
「あら、いいですねぇ。どのあたりへお住まいなのです?」
「ええと、弘前市のあたりですね」
ふむ、と薫子さんは考え込み、スマホを取り出すと操作を始める。
お酒が回っているせいかぶつぶつと何やら呟き、やがて目当てのものを探し出したらしく表情を笑みへと変えた。
ずい、と目前に見せられた画面に、僕は少しだけ目を見開く。
「でしたらこちらへ遊びに行かなければ損ですよ。今年はだいぶおすすめですね」
ああ、これは確かに――……。
おじいさんの軽トラックを借りれば……。
「ありがとう、薫子さん。ぜひこちらへ遊びに行こうと思います」
「はい、マリアーベルちゃんと仲良く過ごしてくださいね。楽しむコツは、着くときまで内緒にしておくことですよ」
先ほどの角煮のアドバイスを流用され、テーブルへ前のめりの薫子さんからにっこりと微笑まれる。
その柔らかな表情は彼女の女性としての美しさを感じさせるものであり、僕もつられて笑みを浮かべてしまった。
雨はしとしとと降り続け、予報によると明後日からは晴れる見込みらしい。
連休は待ち遠しいが、この待っている時間こそが最も楽しめているのかもしれない。
「美味しかった、マリー?」
「んふふっ! 美味しすぎっ! もしも日記を書いていたなら数ページを埋め尽くしてしまいそう」
そう言って夢見心地の表情で腕へ抱きついてくる少女と、もうしばらくその時を楽しもうか。




