第38話 秩父めぐり旅情編⑤
娯楽施設ながらも和風らしく落ち着いた旅館だ。
廊下を歩いていると余暇を楽しむ家族連れも多い。差し込む陽はもうすぐ真上になるころで、食堂へと向かう者もちらほらと見かけられる。
このまま食堂へ向かっても良いのだけど、温泉あがりならばのんびりと過ごしたほうが良いと思う。手を繋いでいるエルフにとっては初めての温泉なのだし、正しい楽しみ方というものを教えてあげないとね。
「温泉あがりにはね、好きな飲み物を選べるんだ。ほら、そこに売店があるのはそういう意味なんだよ」
「……ふ、ふーん。あなたのくれた巾着袋はそのためにあったのかしら?」
返事が少しだけ遅れたことに振り返ると、少女の頬は温泉にのぼせたのかと思うほどに赤い。
浴衣からはうっすらとした鎖骨が覗き、白い肌をいつもより上気させる姿には、正直なところ年頃に合わない色気さえ覚える。ふっくらとした柔らかそうな唇を見て、少しだけ僕の頬まで熱くなった。
もちろん百年を生きたエルフなのだし、ずっと年上なんだけどね。
「う、うん、だからほら、マリーの好きなものを選ぼうか」
指差すとようやく少女の瞳は、ずらりと並んだジュースへ向けられる。
ガラスで仕切られた冷蔵庫には珈琲牛乳や苺ミルク、それに缶飲料などが様々に並んでいる。子供の興味をこれでもかと引く光景に、わああと少女は瞳を輝かせた。
ふと横からの視線に気がつくと、廊下の片隅でウリドラは泣きそうな顔をしていた。ええと、だいぶ離れた場所に立ってるけど、一体何をしているのかな?
彼女は後ろ髪を思い切り引っ張られるような表情をし、廊下の向こうへ消えていったが……ジュースが飲みたいなら一緒に買うのになぁ。
「これがいいわっ。すごく綺麗な色をしているもの」
「あ、うん。じゃあ僕も同じのを選ぼうか。――すみません、これを……」
からんっと音を立て、ラムネ瓶を2本ほど購入した。
面白かったのはマリーがなかなかビー玉を抜けなかったことかな。タオルの上にラムネ瓶を置き、ぐりぐりと押しても少女の力では上手くいかない。
手伝おうと上から手を重ねると、少しだけマリーは身を震わせる。そしてこちらを振り向きかけたとき、しゅぽん!と良い音をしてビー玉は抜けた。
「あっ! なあに、これ。透明な玉が入っていたの?」
「うん、ビー玉……まあ正確にはA玉って言うんだけど……これで栓をしていたんだよ」
へええ、と興味深そうに少女は覗き込み、しゅわしゅわと炭酸の浮き上がる光景に魅了される。こういう飲み物はやはり不思議に映るだろうね。
足湯へと向かうあいだ、ずっとマリーはラムネを覗き込んでいた。すぐに飲みたくてウズウズとしているようだけれど我慢だよ。
さて、僕たちはすぐ近くの足湯へと辿りつく。
この施設には湯を楽しめるものが幾つかあり、その一つが膝にも満たない深さをした湯の道だ。
縁側に似た腰掛へと座り、ざぼりと僕らは足を入れる。すると程よい温度をした湯が待っていた。
「あら、面白いわ。こんな湯の使い方をするだなんて。ねえ、これはきっと身体を温めるためのものなのでしょう?」
「正解。足を浸けるだけで全身に熱が伝わるんだ。まあ、もちろん寒い日は温泉のほうが良いだろうけどね」
幾分か少女の赤みは消え、表情も明るいものへ戻っていることに安心する。ちょんと僕の隣へと座り、脚をくっつけあうと随分と肌の色に差があるのだなあと思わせる。
にゅーっと少女は足の指を開き、湯のなかでにぎにぎと握る。僕の足よりもずいぶんと小さく、そして透き通るように白い。同じように指を開いて見せると、ころころとエルフは笑った。
「それで、温泉はどうだったかな。ここの湯はなかなか良いらしいんだけどね」
「ええ、凄かったわ。温泉だなんて初めてだから比べようが無いけれど、全身を浸けたときに身震いしたの。エルフとして駄目になると思ったほどよ」
ふふ、人間が駄目になると言うときはあるけれど、まさかエルフも同じように思うなんて。
「なら、ようこそ温泉文化へ、と言っておこうか。言うまでもなく僕は歓迎するよ」
「あら、歓迎を感謝すべきなのかしら。エルフとして堕落してしまうかもしれないのよ?」
くすくすと互いに笑い、チリンと音を立ててラムネを当てあう。
よく冷えたラムネは喉を通ると心地よく、すっきりとした後味を残してくれる。少女は炭酸にすこしだけ目を丸くしたものの「美味しい」と、にっこり微笑んでくれた。
「私、お礼を言いたいの。恥ずかしかったのに、あなたの眠そうな顔を見ているうち、すっかりと落ち着いてしまったのよ」
ん、恥ずかしい? どういう意味なのかな?
お礼だなんて望んではいないけれど、少女はざぽりと湯から足を引き抜く。何をするのかと見ていると、小さな手が僕の胸元を握った。
「私と同じように、少しは気恥ずかしい思いをしなさい」
「え……?」
陽をさえぎり繊細な造りをした人形じみた顔が近づき、僕の瞳は見開かれる。
額にぺたりと少女の鼻が触れ、そして髪の毛を左右に払われる。いかにも柔らかそうな唇は、想像していたのと同じ――いや、それ以上の感触を額へと与えた。
空白の時間だ。
思考は綺麗に消え去り、ただ少女からの熱を覚える。ちゃぷりと鳴る湯の音は、どこか遠いところから聞えてくるようだ。
視界には少女の首筋だけがあり、そして吐息が髪の毛をくすぐっていた。
エルフの髪はまぶしく、絹に似たさらさらとした感触を頬へと伝える。そのような状況で言葉など発せられるわけもなく、ただ額に灯された熱だけを感じた。
そして、みるみるうちに頬は熱くなる。
ほんの少し音を立てて身を離すと、今度は視界いっぱいにエルフの顔が現れる。頬を赤く染めた少女は、女性的であり清らかとさえ感じるもので、僕はこれまでに無いほど彼女へ見とれてしまった。
そんな僕の顔を見たせいか、エルフはにっこりと満足そうに笑う。
「ふふっ、これでお礼になったかしら?」
「あ、ああ――すごく、びっくり、しました。ええと、ありがとう」
「もう、私がお礼を言っているのに。……ほら、冷えてしまうでしょう。もう少し脚を開いてくれないかしら」
まだ混乱の最中だというのに、少女は脚のあいだへとお尻を割り込ませる。そして足湯へと浸かり、機嫌良さそうに鼻歌を響かせた。
額に残った感触はまだしっかりと残り、そのせいかエルフがいつもより近くにいるように思える。浴衣から剥き出しにされた太ももは眩しく、この不可思議な感情を静めるにはしばらくの時間が必要だった。
僕の知らないことだが、ウリドラは少女にこう助言をしたらしい。
気に入った場所へ、一度だけ口付けをしてみなさい、と。もしも脈があるならば、そのとき僕の顔を見ればすぐに分かる……などという乱暴ながらも的確な助言をしたのだそうだ。
ゆっくり頭が混乱から立ち直ってゆくと、ふと気がつくことがある。少女はもう一歩だけ近づき、そして根が怖がりな僕も同じくらい踏み出していることに。
つまりは、この瞬間から僕らは友達以上の関係になったらしい。
ラムネを飲み、湯に浸かり、しばらく静かにしていると少女を抱える格好で足湯を楽しむ余裕が戻ってきてくれた。
そして日本にある他の温泉地について教えてあげることになる。
少しだけ軽率だったのは、日本は世界有数の地震国家であり、おかげで優れた温泉地が山のようにあるのだと教えてしまったことだろう。
「そうだったわ、あの夜っ! 地震があったのはたまたまじゃなかったの!?」
「う、うん、けっこうね……頻繁だから。今度、一緒にマンションの避難訓練にも出てみようよ」
顔を青ざめさせ、こくこくとマリーは小刻みに頷く。
まあ都内というのは地震にめっぽう弱い地域とされているのは黙っておこうか。ほら、テレビで「地震が起きたときに危ない地域」っていうのがよく流れるじゃない。あれの分布マップで真っ赤になっているのが江東区なんだ。
まあ、埋立地が多いとか言っても分かりづらいだろうしね。
「だいぶ前に大地震があってね。僕のおじいちゃんの家も大変だったんだ」
「えっ、今はもう大丈夫なのかしら?」
「もちろん。地震に対しては世界で一番強い国だからね。海外の人が勉強をしに訪れるくらいなんだ」
そう伝えるとマリーはほっと胸をなでおろし、慰めるよう僕の脚をさすってくれた。近々やってくるゴールデンウィークには、彼女と一緒に祖父の家へと向かうつもりだ。
そんなこんなで部屋へ戻ると、ぐったりと畳に寝転がるウリドラが待っていた。
「あれ、いないと思ったら……どうしたんだい?」
「ううっ、美味しいものを食べれると期待しておったのに、あんまりじゃあー……っ!」
じわりと涙を浮かべ、さもひもじそうな顔をして身体を起こす。その様子にきょとんと二人して目を開き、そして悪いと思いつつ吹き出してしまった。
「ううーっ、せっかくわしが気を使ったというのに! ぬしらは魔導竜を苛めるのじゃあ! とんでもない鬼子じゃあーー!」
「ええと、これがお品書きかな。ほら、ここにもご当地名物があるみたいだよ。わらじカツって奴なんだけど、二人とも食べる?」
「「食べるっっ!!」」
おやまあ、声をそろえて可愛らしい。
とはいえ来るときには味噌ポテトなるものに舌鼓を打っていたのだし、この反応も仕方なしかもしれない。
個室をとっていると食堂に行かずとも料理を届けてくれるのが楽でいいね。
わらじカツというのは、字面そのままに「わらじのように大きなカツ」のことらしい。平べったくしたカツに、たっぷりと甘いタレを付け、そしてご飯に乗せてやって来る。
その豪快さにウリドラは目を輝かせ、そして少女は口を大きく開けて驚いていた。
個室の露天風呂はそれほど楽しめなかったけれど、ウリドラが畳の上をバタバタとのたうちまわる様子はレストランでは見れなかっただろうし、まあ良しとしようか。
お詫びというわけでは無いけれど、風呂上りの日本酒、それに美味しいツマミに囲まれて子育てのストレスはすっかりと吹き飛んでくれたようだ。
正直ね、彼女のための旅行というのを忘れていたよ。
少々長いため2つに分けます




