第37話 秩父めぐり旅情編④
脱衣所は湿気に満ち、ほんの少しだけ温泉の匂いが混じっている。
不思議な香りに少女はくんくんと辺りを嗅ぎ、そして他の客である日本人と目が合った。幻想世界からやってきた二人はどうしても周囲から目立ち、浴衣を脱ぐのに気恥ずかしさを覚えてしまう。
しかし一緒にいる魔導竜はまったく気にせず浴衣を脱ぎ、己の身体を周囲へさらす。
こちらの世界へ魔導竜を招いたことに最初は不安もあったが、今となれば同行者がいる事に感謝さえ覚える。そんな心中を知ってか知らずか、ウリドラはニッと笑みを向けてきた。
おかげで人の目はさほど気にならなくなり、全身を露にしてから鍵付きのロッカーへと衣服をしまう。そして最後に巾着袋を上に乗せ、薄紫色の瞳でじっと見つめる。
これは先ほど彼から手渡されたものであり、中には「お小遣い」なるものが入っているそうだ。これでお風呂上りに欲しいものがあれば買って良いらしい。
しかしそんな金銭などよりも金魚の絵が描かれた巾着袋は、少女の趣味を理解していると分かるのが嬉しい。こらえていたのに口元をほころばせてしまうほどだ。
「むふん、あやつはマメな男であるな。余程マリーが大事だと見える」
「そっ、そんなことは無いと、思うのよ? ただ、まるで女性かと思うくらい気配りをしてくれて……すごく優しいの」
もじっと恥ずかしげな表情をし、少しだけ慌てて少女はロッカーを閉じる。
その様子を眺める女性は見事なプロポーションをしており、腰に手を当て「んふーーっ」と愉快そうに微笑んでいた。
なぜか頬が熱くなる思いをし、少女はぐいぐいとウリドラの背中を押して温泉へと向かうことにする。
「んっははは! 顔を真っ赤にさせて、ういやつじゃのう」
「もう、笑いすぎっ! あなたが魔導竜じゃなかったらお尻を叩いていたところよ」
その言葉に弾かれたようウリドラはまた笑う。
背は頭一つ分くらい違うというのに、どこか姉妹のような雰囲気をした二人である。
そして外へ出ると天井の無い空間が待っており、空には青空が見えていた。春の日差しは温かく、そして目の前には湯が広がり、ぷんと独特の樹木に似た香りを漂わせていた。
エルフが「樹木のような香り」と感じたのは気のせいではない。その湯には樹木の産んだガスが含まれ、浸かればまるで森林に包まれた気さえするだろう。
半妖精であるエルフは胸をとくとくと鳴らし、期待を込めてどぷりと足を湯につける。
わずかな白濁した色と、そして樹木に囲まれていると思わせる香り。そしてぬるぬるとした湯質に二人は同時に目を開き、足元からじっくりと浸けてゆく。
やがて全身が湯に包まれると、おふーーと互いに息を漏らした。
「うああーー、お湯がこんなに……ほんと贅沢すぎてっ、もうっ!」
「んんーーっ! とろみのある湯じゃなぁ。しかしこの入り心地はたまらぬっ」
ぞくっぞくっと身体が震えるのを二人は覚える。
ぬめり気のある湯は全身をゆったりと包み、そしてひどく優しい温もりを伝えて来るせいだ。
先ほど身体を洗ったばかりの二人は、今は髪の毛をタオルで巻いている。それでもしっかりと長耳が隠されているのを確かめたので気兼ねなく湯を楽しめる。
さほど人もおらず、ほぼ二人で独占できるというのはまさしく贅沢な時間だろう。
「んはーー……、これが温泉……。エルフとして駄目になりそう……」
「たまには良いじゃろ……。わしは竜として駄目になっても一向に構わぬがなァ……」
じんわりとした湯の温かさに包まれ、ほうーっと二人は息を漏らす。
周囲はヒノキに囲まれ、そして傍には緑鮮やかな木まで植えられている。旅に疲れた者達を癒すことに、きっとこの湯は慣れているのだろう。
温泉というのは、実に懐が深い文化だと少女は思った。そして両脚を伸ばし、さらに両腕も伸ばす。空には青空が広がり、二人はもう一度深々と息を吐いた。
「んふーっ、これはマズいのう……。お遊びで来たというのに、これでは病み付きになりそうじゃあー……」
「私もー……エルフなのに、日本の風習を堪能しすぎて怖いわ……。耳がぽとりと落ちてしまっても、一向に構わないと思う自分がいるの……」
頭をヒノキに乗せ、二人はとろりとした瞳をする。
あたりには湯気がゆらゆらと立ちのぼり、それがまた日差しを柔らかくしてくれ、身体だけでなく思考までとろとろに溶かされてしまいそうだ。
「それで、地下迷宮とやらには入れそうなのかー……?」
「いいえー、今夜にはギルド長に説明をして……って、どうしてウリドラが知って……ああ、そうだったわ。あなたはこっそりと聞き耳を立てていたのね」
娘のトゲのある言葉に、くつくつと竜は楽しげに笑う。ぷかりと乳房を湯に浮かせ、少女を見る瞳に悪意は無い。
手渡された「竜の血」を通じ、二人の様子を伺っていたことにマリーは気づいていた。正しくは、猫族ミュイの「まだ繋がっている」という指摘により察したのだ。
しかし、竜人の様子からして悪意は無いのだろうと分かる。
「仕方ないのだ。現の世に渡れる者達など、わしの知る限りでは一人もおらぬ。それだけに気がかりでのう。悪用しようと考える輩がおらぬかと心配しておったが……いやはや、まさかエルフの娘と抱き合う日々とは」
ぼすんと少女の頬は染まる。湯にのぼせたわけではなく、身に覚えがありすぎたせいだ。
「~~……っ! ウリドラのことを、これからは覗き魔導竜と呼ぶことにするわ。もう温泉につれて来てあげないから」
「ああっ! それは困るのじゃあ! 誓って言うが微弱な音だけで、プライバシーも配慮しておる! ぶちゅっとしていてもわしには分からんのだぞ!」
「ぶ、ぶちゅっだなんて……そっ、そんなことしないわ!」
あれっ、とウリドラは小首を傾げる。
会話や二人の気配から、てっきりそのような関係だと思っていたらしい。しかし少女は口まで湯に浸かり、瞳を反対側へと逸らしている。どことなく、ぶすっとした表情をしているのは気のせいか。
「ふうむ、なるほどな。ぬしは子供で、あやつは臆病ということか」
「……え?」
ぬるりとした湯を分けて、魔導竜はエルフの手を掴む。
そして顔を上げた少女へ、ひっそりと囁きかけた。
「向こうに面白そうなものがあるのう。どれ、一緒に入ってみぬか?」
「……ええ、構わないわ。いまの言葉の意味を教えてくれるなら」
そう言うとウリドラはにかりと笑い、白い歯をこぼした。
むおうっと漂う熱気に、二人は慌てて扉を閉じる。あまりの熱風に生物が立ち入るべきでは無いと感じたらしい。入口には「サウナ」などと書かれているが、二人はまだ文字の意味までは分からない。
どうしようかと顔を合わせていると、中から数人の女性たちがドヤドヤと出てきた。そのさっぱりとした表情をした彼女らに、二人はもう一度顔を見合わせ、勇気を持って入室したようだ。
むおお、という強烈な熱気は変わらない。しかし薄暗い空間、そしてヒノキの椅子を見れば少なくとも癒しの場に近しいのだと分かる。ならばと魔導竜はどっかと椅子に腰を下ろし、その隣へと少女も腰掛け……尻を焼くような熱に「あつっ!」と飛び上がり、竜はまた笑った。
「ふ、ふ、これもどうやら湯の一種らしいのう。湯ではなく蒸気で温めるとは、人は思いもよらぬことをする」
「なら良いけれど……てっきり私たちを蒸し料理にしてしまうかと思ったわ」
まだ警戒を残しているが、ゆっくりと腰を下ろすうち熱気に慣れてきたらしい。もうもうと漂う蒸気に、両手両足を伸ばす余裕があらわれる。
それよりもと少女は竜人へと口を開いた。
「先ほどの言葉の意味を教えてくれるかしら? 私は子供、あの人は臆病だなんて、すごくひどい言葉に聞こえたわ」
マリーにしては珍しく、魔導竜へと冷たい視線を向ける。いや、それは彼が知らないだけであり、魔術師ギルドなどに滞在しているときにはこの表情が実は多い。
それでもウリドラは母のように柔らかい表情をまるで崩さず、少しだけ少女へと身を寄せる。
「わしの身体はのう、知っておると思うが精霊に近しい。ぬしもそうじゃ。エルフは妖精に近しく、人とはまた異なる存在なのだ」
そう、時折忘れてしまいそうに……いや、忘れたくなるが少女は人とは異なる。触れ合うことも会話をすることも出来る。しかしどこか人間とは根本から食い違うのだ。
そのような理由で、人とエルフが結ばれるなど非常に稀なことと認識している。
「ほれ、しょげるでない。だからこそぬしはまだ子供なのだ。あやつを深くまで触れたくて、少しずつ身体を変えておるのじゃろう」
その言葉に、ぱちぱちと少女は瞬きをする。何を言われたのかよく分からず、さりとて聞き逃すことも出来ない。重要な何かを竜は告げたのだ。
「あせらずとも良い。マリーはいつかあの小僧と番になるのだ」
ジンと頭の芯が痺れるのを少女は覚える。
竜の言葉からは真実が伺え、それは将来の姿を垣間見せるもの。
今まで形にできなかったことが、竜の一言により形を成してゆくのを覚える。魔導竜は様々な魔法を操れるが、これこそがまるで魔法のようだ。
……が、少女は憂いをこめた息を吐き、膝を抱えて小さな身体をさらに小さくさせる。
「うん、どうしたのじゃ?」
「あの人は……きっと私に魅力が無いと思っているの」
「ふうむっ? や、どうしてじゃあ。わしの目から見ても可愛らしいと思うがのう……」
恐らくは誰から見ても、あの青年が少女を大事にしているのは分かるだろうに。しかしマリーは唇を突き出し、子供のような顔をする。
「ほとんど彼からは触れてこないの……。さっき言った通りキスもまだ。たぶん女としても見られていないと思う」
「あ、ああー、それじゃ。わしが先ほど言いかけたのは」
エルフはほんの少しだけ瞳を竜へと向ける。ただしそれはジト目と言ってよいほど疑わしげなものだ。つい先ほどまでは信じてくれていたというのに、とウリドラは内心でため息を吐いた事だろう。
「あやつはのう、ぬしを大事に思うあまり臆病になっておる」
「……どういう意味、かしら?」
「ふ、ふ、分かりやすく言えば、脈ありという奴じゃ」
アメシスト色をした瞳は開かれ、鮮やかな色彩を見せる。まるで花が咲いたよう、と青年は思うそうだ。彼が見とれる理由をウリドラはほんの少しだけ理解したに違いない。
「ほ、んと……?」
不安げな声で言いつつも、身をずいと寄せてくる。
その綺麗な瞳には竜であろうとも魅力を覚えるらしく、少しだけ頬を赤くしてしまう。
「なに、本当かどうかは簡単に分かる。気になるなら後で試してみるがよい。例えば…………」
自信たっぷりなその言葉に、マリーはくらりと眩暈を覚える。いや、それは単にのぼせたからだ。
ふらーっと身体を斜めにしてゆく少女を、ウリドラは静かに支えてやる。それから外へと運び、長椅子へと横たわらせた。
のれんをくぐり、外へと出ると青年はすぐ近くで本を読んでいた。そういえば図書館で一緒に選んでいたような気はするが、せめて心の準備ができてから再会をしたかった、などと少女は思う。
彼もすぐに気がつき、こちらを見る。いつもの眠そうな顔を柔らかく微笑ませ、そして身を起こした。サムエなる簡易な服ではあるが、楽に過ごすにはぴったりだろう。
「やあ、いい湯だったかい。向こうに足湯があるんだけど、良かったら行ってみない?」
うまく言葉が出ず、ただこくりと少女は頷いた。
そして彼に連れられ足湯へと向かう。
振り向けばウリドラは小さく手を振っており、口だけで「がんばれ」と伝えて来るせいで心臓は変な音を立てた。
どくどくと胸は鳴り、足は夢の中のように頼りない。
きゅっと彼から手を握られると、小さな身体はびくんと跳ねる。
何かが起こりそうな期待に、少女は今にも気を失ってしまいそうだった。




