【番外編】はじめてのお寿司
コミカライズ第2巻発売カウントダウン企画中です。
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発売日まであと『2日』!
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と肩を揉む。
椅子に座ったマリアーベルはすっかりご満悦らしく、ぽやんとした瞳で僕のマッサージを楽しんでいた。
「ひゃー、そこの肩甲骨のところをもう一回……うんうん、うあっ、そこっ!」
ぐうっと上半身を仰け反らせて、酸素を求めるように唇を開いてあえぐ。そこ、そこ、と喉をわななかせながら繰り返し言われると、なぜか赤面しちゃうな。
「いっそのことベッドで横になる? そのほうがちゃんとマッサージできると思うけど」
「あえ? ええ、そうね、でもその前にもうちょっと肩甲骨のところをお願い。昨夜、私の日記をのぞき見した罰なんだから、文句を言っても聞かないわよ」
ふふーん、と得意げな顔をされたけど……僕の弱みを握ったときは本当に嬉しそうな顔をするなあ。とはいえこれは許しを得るための罰であり、となれば彼女が許してくれるまで続けなければならない。
「ごめんね、日記を読んじゃって。つい好奇心に負けちゃって」
「いいわ、その調子で肩甲骨をしっかりマッサージしたら許してあげる。だからもう少しがんばって頂戴。だ、ん、な、さ、ま」
振り返ってきた彼女はそう囁いて、ちゅっと唇を合わせてくる。弾むような感触と花の香りを頬に残して、たったの一挙動で視界がグラつく思いだった。
そんな僕の動揺を知ってか知らずかマリーはご機嫌だ。ぶらぶらと足を揺らして、がんばれ、がんばれ、と口にする。
エルフ族の女性は美しく、ひとたび目にすれば生涯忘れられないという噂がある。ただの逸話だと彼女は笑うけれど、世の男性たちは「真実だ」と口にするだろう。この僕も含めて。
仕方ない。彼女と出会ったときから忘れられない運命だったのだと思い、日ごろの家事疲れをいたわるとしよう。
可愛らしい声援を浴びながら肩もみを再開したとき、ふと思い出したように少女は声を漏らす。
「私、日記というのを初めて書いたけど、新しい発見があって意外と面白いわ。あなたも書いてみたらどうかしら? もしかしたら新しい趣味になるかもしれないわよ」
そう言い、テーブルに置いたままだった日記を彼女は手にする。ぺらりとめくって読みだすと、ついつい僕の目は吸い寄せられる。
弱みを握るのが大好きなマリアーベルだ。くるんと唐突に振り返って、またも嬉しそうな笑みを見せた。
「あら、意外。そんなに気になるだなんて」
「まあね、マリーが初めて触れた世界というのは、どう感じていたのかなって思うよ」
「じゃあ特別に教えてあげようかしら。その代わりに、明日も、ね?」
小首をかしげる可愛らしいお願いは、肩甲骨マッサージに味をしめてのものだろう。特にお風呂あがりのあとに受けるとたまらないらしい。
しかし僕としても嫌な気はまったくしない……どころか、もう少しきちんと覚えたいと思っている。つまりは、エルフさんの大好きな肩甲骨マッサージを会得して、ぐにゃぐにゃの骨抜きにしてみたいんだ。
なので取引として良い条件だと思う。頷き返すと「やった」とマリーは拍手をして喜んだ。
「じゃあマッサージのあいだ、特別に読んであげる。どれにしようかしら。えーと、これはダメ、これもダメ……あっ、これはぜったいにダメ!」
えぇ? その駄目だしをしたお話こそ聞きたいよ。
やがて当たりをつけたのか、もったいつけた表情で振り返る。
こうして小さな女の子の冒険を、今宵も知ることが許された。
代償として肩甲骨マッサージの技能上げを余儀なくされ、やがては「あなた無しでは生きていけないわ」とまで言わしめることになるのだが……ともあれ、およそ一年前のできごとを語り始める。
しとしとと細かな雨の降る夜に、エルフ族の綺麗な声が部屋に響いた。
§
ウニ、イクラ、トロ、軍艦巻きなどなどなど、照りのあるいかにも美味しそうな光景を見て、うわぁーと少女は歓声をあげていた。
それもそのはず、お寿司は途切れることなく続々と回り続けているのだ。ずんどこ、ずんどこ、と頭のなかで音楽が鳴っていそうなほどマリーは驚いていた。
「え――、動いてる!」
「回転寿司だからね。これが意外と歴史が古くって、昔から庶民に愛されていたんだって」
そう答えながらお箸と小皿を手に取って、彼女の卓上に用意する。
ここは築地にほど近く、隅田川を渡ったらすぐに辿り着けるお店だ。夜はかなり混むと聞いているので、こうして明るい時間にやって来た。
マリーは春らしい明るい服を着ており、見開かれた薄紫色の瞳も色鮮やかだ。
「思っていた回転とまるで違ったわ。こう回転している思ったら、こんな周りかたをするなんて」
う、うん、指先でクルクルされても違いがよく分からないな。
摩訶不思議な光景にもようやく見慣れてきたのか、ため息を漏らしながら少女はカウンター席にストンと座る。そこに置かれていた「湯のみ」をしげしげと観察しながら唇を開く。
「はー、信じられないわね。そんなにずっと前から回り続けていただなんて」
「最初は手で握って、その場で出すのが主流だったんだよ。でもこっちのほうが安くて早く食べられるから、僕らのような庶民にとってはありがたい」
言うまでもなくお寿司というのは日本独自の食文化……ではなくて、すでに世界中に広まった魚料理だ。しかし夢の世界から訪れた半妖精エルフ族にとっては摩訶不思議な光景だろう。次から次へと周り続けるお寿司をじっと見て、大きな瞳をぱちぱちとまばたきさせていた。
「……なにかしら、お皿の色が違うわ」
「うん、色によって値段がそれぞれ違うんだ。取ったお皿はそれぞれ重ねておくと、あとでお会計が楽になるから」
どうやら驚きの最中でもしっかりと観察していたらしい。他の卓上を指さしながらそう伝えると、納得したようにフンフンと頷く。
こんな外見だしもちろん周囲の目を引くんだけど、好奇心を膨らませた少女にとっては気にならないらしい。
サラリーマンたちはさりげなくチラ見をして、はしゃぐ外国人さんの様子を楽しんでもいる。もしも逆の立場なら僕だって覗き見しかねない。
「最近は魚が減っているらしくてね、ひょっとしたら寿司の人気があり過ぎるせいかもしれない」
「まあ、信じられない話ね。お魚たちのために、あなたたちも少しは食事を我慢をしたらどうなのかしら」
などとお箸をぱちんと割りながら呆れの表情を浮かべる。
しかし食事に関するものは覚えが本当に早い。ごく自然と割りばしを手にしているし「いただきます」という言葉づかいもだいぶ流暢だ。これには周囲のお客さんも「おっ」という感心の顔を浮かべていた。
どうお皿を取れば良いのかと、手を出したり引っ込めたりしながら少女は振り向く。
「ねえ、スシというのは生魚なのでしょう? ちゃんと魚臭くない料理だと思って良いのね? 期待しても平気?」
「もちろん。ただでさえ日本人の舌はうるさいから、もしも生臭かったらお店が潰れているんじゃないかなあ」
そう答えると、ふむふむと少女は納得してうなずく。
いままで口にした料理のうち、マリーの舌に合わないものはなかった。それどころか美味しい美味しいと身もだえするほどであり、この国の料理に対しての期待値もうなぎのぼりだ。
なのでこんな摩訶不思議な光景であろうとも、期待に満ちた瞳に変わる。少女は艶のある唇に笑みを浮かべて、こう尋ねてきた。
「あなたのおすすめ、教えて」
「うん、そうだな。食べやすさで言ったら、あのサーモンと中トロはどうかな。外国の人にも親しまれている味だからね」
流れて行ってしまいそうなお皿に向けて、懸命に腕を伸ばして取る。見事なキャッチに小さな拍手をすると、えへんとマリーは得意そうな顔でピースをした。
さて、気になるお味のほうはどうかな。
じーっと見慣れない食事、お寿司を見つめるマリーと僕。お互い不安そうな顔をしているのは、いくら舌の肥えた日本産の料理であろうとも生魚という点だ。
慣れない箸でそろそろと口に運ぶ様子には、思わず僕だけでなく板前さんまで固唾を飲んで見守る。がんばれ、がんばれ、僕らのお寿司。
――ぱくっ!
怖くてまだちゃんと噛めない様子のマリーだけど「あれっ?」という顔をする。臭みがまるでないわ、と言いたそうに僕を見て、それからもぐりと噛む。
トロという名の通り、とろんと溶けるかのようだ。マグロの油は良質で、臭みなど一切ない。それでいてご飯粒と絡みあい、どろっと溶けたと思った瞬間に……。
「ん~~~……っ!」
口元を手で押さえて、か細い声をマリーは漏らした。
甘いとさえ感じる旨味、それがどっと押し寄せる。これが中トロの人気たるゆえんだ。ダムが決壊するように一気に味わいが口いっぱいに広がる恐ろしさ。この味ひとつで世界にどっと広がった。
何度も僕の腕を叩いてくるのは、こらえきれない衝動によるものか。薄紫色の瞳はきらきらと輝いており、それは「当たり!」と言いたそうな感じだった。
ごくんっと飲みこんで、ようやく彼女は感想を口にすることができた。
「待って、これ、本当に美味しくて……ンはーっ、驚いたわ! これは何? 中トロ? 中トロと言うのね、分かったわ、大事に覚えておくようにするわ!」
たとえエルフ語であろうとも、中トロを連呼する様子は周囲のお客さんにとって丸わかりだ。びっくりするほど可愛い子に舌鼓を打たれて、ニヤニヤとまんざらでもない顔をする。
それを見ていた店員さんも、近づいてくると内緒話をするように声をかけてきた。
「今日の大トロは美味しいですよ。大トロ、分かります? 好みはありますが、今日のやつは中トロよりもずっと上ですよ」
にこやかな笑顔に、マリーは瞳を丸くする。でもそんな顔をする理由は少しだけ分かるなぁ。向こうの世界だと店員さんというのは無愛想であり、無言で皿をドンと置くのが一般的だからね。
日本語の勉強中ではあるけれど、それでも小さな声で「アリガトウ、ゴザイマス」と答える様子は微笑ましい。にっこりと店員さんも嬉しそうに笑った。きっとあれは営業スマイルなどではないだろう。
「驚いたわ、日本の食堂はどこでも笑顔なのね。それで、オートロってなにかしら?」
「どうやら中トロよりも上の、大トロという存在があるらしい。僕も噂には聞いていたけど、まさか実物があるとは」
そう冗談混じりに答えると、ぱちんっと薄紫色の瞳を丸くさせた。
強烈な味わいを知ったばかりで、また次の存在が現れてしまった。これでは「やつは四天王最弱よ」というノリと同じであり、やはり少女は「そんなわけがないわ」とかぶりを振る。
「本物かどうか、この私が確かめてあげるわ! ひとつお願いします!」
と元気よく人差し指を立てながら言う。負けてたまるかというセリフだったけど、実際は瞳をきらきらさせているからね。こんなの周囲のおばさんだって「あらー」という微笑ましい顔を浮かべていた。
そうそう、微笑ましいんだよねマリーって。おすましをしていても表情にすぐ出るし、それは声の響きからも伝わる。
だから店員さんは「あいよっ!」と笑みを返してくれるし、きっと日本の味を知ってもらおうと腕によりをかけて握ってくれるに違いない。
魚貝たっぷりのお味噌汁に「ほっとする」と言っていたとき、本日の目玉商品である大トロがやってきた。
デンと金のお皿に乗っており、言うまでもなく最高級品だ。先ほどよりも全体的に白っぽく、また艶がある。そーっとお箸を近づける様子は、きっと高価な品だということを分かっているのだろう。
「し、信じられないわ。中よりも上の大が実在するだなんて……じゃ、じゃあ、いただきます……」
ぱくっと行った。
先ほどのようなためらいは既にない。たっぷりの警戒心を先のお寿司が木っ端みじんに破壊したからだ。
さりげなく様子をうかがう板前さんと共に見守っていると「おふっ」という声が隣から聞こえた。
なぜか背筋をピンと伸ばして少女は咀嚼を止めた。
脂っぽさが強いので、大トロというのは好みが分かれてしまう。だけどそれは大きな間違いだ。ただの脂の塊なら深い味わいなど得られないし、いかに赤身を引き立てるかという味の調整は自然による運任せ、そして板前さんの腕次第だ。
そして今日はというと本物の大トロである。
ここまでの良い品となると霜降り状態の大トロは、もう口に入れた瞬間に溶ける。一気に溶け、そして一気に味は口内を奔流し、赤身のもつ旨味と酸味をこれでもかと味わって、少女は身体をぶるりと震わせた。
うーん、振り向いた表情のたまらなそうなこと。
瞳は宝石みたいに輝いているし、もぐ、もぐ、というゆっくりとした噛み方で味わいを楽しんでいる。いや、たまらないね。思わず前のめりになって、こう問いかけてしまうよ。
「どうなのかな。中トロを上回るだなんて僕にはあり得ないと思うんだけど、実際のところはどうなんだい?」
ぱんぱんぱん、と勢いよくパーで肩を叩かれた。
すぐに伝えたくて仕方なさそうに唇を笑みの形にしているし、おくちに大トロが入っていなければ吹き出していたかもしれない。瞳が線になるほどの本当に綺麗な笑みを浮かべて、ようやく彼女は口を開く。
「食べて、食べて、あなたも食べなさい! これを食べないと絶対にあとで後悔するわ! 絶対よ! 精霊魔術師の私が保証するし、もしも心配なら仕方ないから私が一緒に頼んであげる」
いやー、これは可愛いでしょう。
見とれるほど綺麗な子がこんなにはしゃいでいるんだし、くいくいと袖だって引いてくる。周囲のお客さんたちのニヤニヤも止まらないし、あちこちで大トロの注文が聞こえてくるほどだ。
「この上に、実はカマトロというのがあってね」
無理無理、これ以上はもうエルフとしてもう無理!と言わんばかりに、ぶんぶんと首を振る様子の面白いやら可愛いやら。なぜか腹の底から笑いが込み上げて、それをこらえるのは大変だったよ。本当にね。
§
「いけないわ。こんな時間なのにお寿司が食べたくなるだなんて……」
ほふう、とため息混じりに少女はそう言う。
お腹にそっと手を置いており、いつの間にか僕に背中を預けている。ぐんにゃりとした姿勢で日記を見つめているものだから、ついこんな提案をしたくなるよね。
「この時間でも開いているお寿司屋さんがあると言ったらどう思う?」
「…………っ!」
ごくんっと喉を鳴らすのが伝わってきた。
もう眠りにつく時間だけど、しかし突如としてお腹の欲求が高まってしまい、もう己では止められない。もし止める方法がひとつだけあるとしたら……そう、実際に食べてしまうのが最も早いだろう。
あのお寿司屋さんのときのように、いやいやとマリーはかぶりを振った。
「駄目よ、駄目。そんなのは絶対にいけないこと。許されないわ。だってあの美味しさをお腹いっぱいになるまで食べたら、もしも食べてしまったら……」
「じゃあ行かない?」
そう問いかけると、くるんと少女は振り返る。
薄紫色の瞳でじっと見つめてから「行く」と極めて簡潔に答えた。
「ならすぐにお着替をしないと。マリー、ちゃんと立てる?」
「もちろんそれくらい……あら? 足がちゃんと……待って待って、これはマッサージのせいなんだから置いていったら嫌!」
面と向かって「だっこして!」と言われるのは生まれて初めてだなぁ。
そう思いながら羽のように軽い少女を持ち上げる。すぐに首にすがりついてきて、あったかいなと僕は思った。
閉じられた日記をちらりと眺めてから、僕らは夜のドライブに向かう。日記を書くと新しい発見があるというのは、どうやら本当のことだったらしい。
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