【番外編】はじめてのお参り
コミカライズ第2巻発売カウントダウン企画中です。
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発売日まであと『3日』!
がろりと戸を開けて、いつもの部屋に僕は戻る。
まだ肌寒い時期だけどお風呂あがりなら話は別だ。ぽかぽかして温かいし身体が軽くなった気もする。
やっぱり仕事の疲れを取るならお風呂だよね。手早く済むシャワーもいいけど、のんびりお湯に浸かれば気分もすっきりするし。
お風呂文化というのは世界でかなり珍しいらしいと聞くけれど、こればかりはいつまでも伝統を守り続けて欲しいと思うよ、うん。
そんなことを思いながら歩いていると、室内着姿の少女が現れる。これから入れ替わりでお風呂に入るつもりらしく、大きなバスタオルを手にしていた。
「お帰りなさい、私もあったかお風呂バフを……」
言いかけた途中でなぜかその笑顔がこわばる。
どうしたのかなと少女の視線を追うと、畳んだバスタオルの上には替えの下着が乗せられていた。淡いピンク色のセットであり、うさぎさんの柄もある。
室内でも過ごしやすく、また眠るときの邪魔にならないタイプで、そのふんわりとしたカーブがいやおうなく連想してしまう。つまり、その、最近だんだん丸みを帯びつつあるマリーの……。
ばばっと勢いよく後ろ手に隠されてしまい、僕は戸惑う。顔を近づけてきたのは、背中にちゃんと隠したかったのかもしれない。
すぐ近くに美しい顔があり、ほんのりと頬を赤くさせるのは反則だ。大きな瞳をあっちにこっちに視線を変える仕草も可愛らしく、僕の目は勝手に吸い寄せられる。
あれ、さっき何かを言いかけていなかったかな?
そう思うけれど、唇を引きつらせたまま少女はにじにじ横移動をして、僕を避けつつお風呂場に消えてゆく。とん、と戸が閉められて、ようやく自由になることを許される。
いや、ほんの少しだけ戸が開かれて、すねた顔がそこに現れた。
「……じっと見たらダメ」
こんなの「はい」としか言えないよ。
薄紫色の瞳に見つめられたあと、去り際にエルフ族の長耳を覗かせて、今度こそ戸は閉められた。どうやらあったかお風呂バフを受けに行ったらしい。
「ふむ」
ぺたぺたと素足で歩きながら僕は思う。
マリアーベルは少し変わっていて、すごく頭がいいのにそそっかしい。そのくせお姉さんぶりたがるし、甘いものや美味しいものには驚くほど目がない。
だから一緒にいて楽しいし、彼女の好きなものを発見したときは自分のことのように嬉しい。たまたまこの日本に訪れてからというもの、僕は楽しんでばかりだ。
コップに牛乳を入れて、近くの椅子に座る。テレビを消していると本当に静かなんだなと思いながら。
それから目の前に置かれていたものに気づく。それは一冊のノートだった。
「これは……日記かな」
何気なくぺらりとめくったところ、その日にあったできごとなどが書かれていた。ずいぶん前に書いたものらしくつたない日本語であり、ところどころ間違いが見られる。
そういえばずっと前に「意地でも読み書きも覚えてみせるわ」と言っていたかな。
「お気に入りの文房具も置いたまま、か。するとさっきまで書いていたのかな」
最初は読み書きの勉強目的だったのに、いつの間にか習慣づいたのかもしれない。
さて、どんな風に覚えたのかな。
最初はそんな軽い好奇心だった。ぺらりとめくりながら文字を目で追っているうちに、また異なる好奇心が芽生えてくる。
それは日本に訪れてまだ間もないマリアーベルが、どんな目で周囲を見ていたのかというお話だ。
ぺらり、ぺらりとめくってゆくたびに、僕は当時の情景に想いを馳せてゆく。
さて、エルフの森から出てきた少女、マリアーベルは一体どんな日々を送ったのだろうか。そんな興味に背を押されて、僕はページをめくってゆく。
小さな女の子の冒険が、こうして始まった。
§
しとしと降る雨のなか、薄紫色の瞳は空を見つめる。
雨粒は少女の肌に触れることなく流れてゆき、まとまった大きさの滴となって端から伝い落ちる。
指先でつついてみると、ぶにっとした弾力にはね返される。わずかに瞳を見開くと、いつもより大人っぽい彼の声が響いた。
「それはビニール傘っていうんだよ」
ふうん、と少女はつぶやいて振り返る。
同じようにビニール傘なるものを持った青年がそこにおり、にこやかに笑いかけてくる。のどかな光景が似合いそうな笑みでもある。もしかしたら彼の出身はもっと田舎なのかもしれないわ、と根拠もなく少女は思った。
「こんなものをわざわざ用意するなんて。この国の人はどうして雨を嫌がるの? 雨除けのフードを着れば済むじゃない」
「そういう風に傘を嫌がる国もあるんだけど、日本は雨の多い国だからね。おまけに山も多いから、昔はとても苦労をしたらしいよ」
ぼやんとマリーは想像する。
雨が多くて山も多いとどうして大変なのだろう。
たくさんの雨が降り、山々へと降りそそぐ。そうなると……。
「あっ、土砂崩れ? それと洪水?」
「うん、山あいや川のそばはいまでも大変みたいだ。いくら発展して治水をしても、万全にはできないからね」
正解、と笑いかけられてついマリーも笑みを返す。
こんなの子供でも分かることだけど、不思議と悪い気はしなかった。
そうそう、と彼女は昔のことを思い出す。不思議なことといえば、ずっと昔、エルフの里で感じたことがある。
落ちてくる雨粒が物珍しく、じっと見ていたマリーだったが、好奇心はまた異なるところに向けられる。彼の隣に並び立つと、ゆっくりとした歩調で雨の街並みを歩き出す。
「カズヒホ、あなたはどこか達観しているところがあるなぁって思っていたわ。子供のくせに変なの、って。まさか正体が大人だったとは気づきもしなかったけど」
「え、そうなの? でも、マリーと初めて会ったころは、たしか中学生……13歳くらいのころだったと思うよ」
チューガクセイという言葉の意味は分からないが、13歳ということは当時も幼かったのか、などと思う。
大人になっても口調や態度は同じだった。だから驚いたのは最初だけで、すぐにカズヒホだと思って接している。他の人ならともかく、半年ものあいだエルフの里で暮らし、一緒に語学を習い合った相手なのだから当然だろう。だからこんな見知らぬ土地に辿り着いてしまっても、そこまで心細くはない。
それよりも、と薄紫色の瞳は足元を眺める。
心細さよりも初めて見る光景のほうがずっと気になる。
たとえばこの足をすっぽりと覆う靴だ。しばらく歩いて分かったけど、これはすごい。水たまりを歩いても水が入ってこないし、やわらかいからちっとも足が痛くならない。ちっともよ。
「ナゴステ?」
「ながぐつ」
ながぐつ、ながぐつ、と繰り返しながら歩いてゆく。この国の言葉は、一文字ごとの強弱がよく混じる。まだ数日しか過ごしていない土地だけど、言語というのは自然と耳に入ってくるので、そんなことをよく考えるようになった。
赤信号の灯る十字路についたとき、ふと少女は辺りを眺めた。
見上げるような高い建物がどこまでも続き、街と自然の境目はない。ずっと奥まで住居が続いており、城壁はなく、山さえも見えないのは生まれて初めて見る景色だった。
この長靴のように物はたくさんあるけれど、畑や森、動物さえもほとんど見ない。きっとすべてが豊かなわけではないのだろうと少女は悟った。
「ちょっとだけ、あなたの言葉の意味が分かったわ」
「? ん、僕はなにかを言ったかな?」
「夢の世界へ遊びに行くのを楽しみにしていると言っていたことよ。ほんのすこしだけ息苦しいと思ったの」
ああ、と彼は納得した風だった。
ここにはないものを探しに彼は旅をする。はるか北方の雪国や、魔物はびこる迷宮へ。だれもが嫌がる旅であろうとも、きっと彼だけは嬉々として向かったに違いない。
「確かにね。日本は現実的だし夢がないし、ここを息苦しいと感じるのは僕だけではないと思う。幻想的な光景に憧れる気持ちも分かってくれるんじゃないかな」
そう言われて思わずという風に頷く。
とても楽しそうな場所だと思ったけれど、違ったのかしら。
ほんの少し残念に感じて溜め息をしたとき、風にはためく布が目に入った。それは鮮やかな赤色をしており、また幾重にも連なっている。少女の足を止めるのに十分な光景だった。
見あげれば石造りの門のようなものがあり、綺麗に整えられた小道の向こうにも同じものがある。その静まり返った空気を肌で感じて「わっ」という声が勝手に口から出た。
「カズヒホ、この場所は?」
「うん、ここは神社だね。神様の住むお社だよ」
ごく平然とそう言われて、少女は薄紫色の瞳をぱちぱちとまばたかせた。この神秘的で落ち着いた雰囲気、そして当たり前のように神様のお家があると言われて驚いた。つい先ほど「夢も希望もない」と彼は語っていたはずなのに。
なんだかよく分からなくなってきたわ、と内心で思っていると、すぐ上から彼の声が降ってくる。
「少しだけ寄り道しようか」
そう言って歩み出す様子に、マリアーベルは驚く。
「ちょっ、ちょっと、神様の敷地へ勝手に入ったら怒られてしまうんじゃ……!」
思わずそう尋ねると、彼は足を止めて「平気だよ」と笑いかけてくる。それから一礼を済ませると、スッと虚空へ手を伸ばした。ビニール傘の外で、雨粒に濡れても彼は気にもせず語りかけてくる。
「これは鳥居と言って、神の領域と人間の世界をへだてる結界が張られている。目に見えなくても、実はここに境目があるんだよ」
唐突に、不思議なお話が始まった。
雨に打たれる神社というのは静けさと神秘に満ちており、雨粒の音と彼の声だけが聞こえてくる。冗談なのか本当なのかさえ分からなくて、ほんの少し胸がどきどきする。
つい同じように手を差し伸べながら鳥居というものを見あげると、再び彼の声がした。
「大昔、太陽神である天照大御神がお隠れになったとき、世界は闇に包まれた。みなは困り果てて、鳥を鳴かせて外に出てくるように呼びかけた。あれはそのときに止まっていた樹を模している、という説もあるらしい」
指をさすと、ちょうどそこにいた小鳥がピチッと鳴く。
耳に届くのは眠そうな声ではあるけれど、この青年が口にすると不思議と本当のことなのではと思わされる。
虚空に伸ばしたままの手を引かれて、少女もまた足を踏み出す。ざり、と砂利の音がした。
これはちょっとだけ変わった体験だ。
そう石造りの鳥居をくぐりながら思う。
狭い敷地ながらもきちんと手入れをされており、あちこち樹木が植えられている。山や林がどこにもないと嘆いていたのに、気づいたらざざあと頭上で梢が鳴っていた。
「変な感じ。少し入っただけで静かになったわ」
はためくのぼり旗に囲まれながら少女はそう漏らす。
ほんの少しだけ厳かな気配があり、なにかの特別な場所だと感じていたそのときに、クイと手を引かれる。振り向くと屋根付きの水を貯える場所があった。
彼は変わった形の道具を手にして「お清め」と言ってから、手に水をかけてくる。どうやら洗えということらしい。
そんな作法を身振りで教わりながら習っていると、眠そうな彼はハンカチで手を拭いてくれる。
「この国はそれほど信仰深くないし僕もそうなんだけど、礼儀作法はしっかり守らないとね」
子供のころからおじいさんがうるさくて、とボヤきながら細い参道へ連れられてゆく。幾つもののぼり旗に囲まれながら。
なんだかとても不思議だなとマリーは思う。信仰と聞くと、豪華に飾り立てた教会を思い浮かべるというのに、ここはまるで散歩道だ。
ざざあと響く梢の音を聞きながら、あちこちにある見慣れないものへ目を吸い寄せられる。たとえばこの風格ある動物の石像だ。
左右にある石像をきょろきょろ眺める姿がおかしかったのか、彼は楽しそうな声で「お狐様だよ」と教えてくれる。
「えっ、日本の神様って狐だったの?」
「ううん、お狐様は神様の使い。僕らのお願いを聞いて、神様に届ける役目を持っている。こう見えて僕よりもずっと働き者なんだ」
それは間違いなさそうねと答えて、くすりと笑いあう。
と、そのときようやく気づいたのは、彼と手をつないだままだということだ。たしなめようか悩んだけど「まあいいわ」と思い直す。神様の前で喧嘩なんてしたら罰があたってしまうもの。
そんなことを思いながら社の前に立った。
二礼二拍手一礼。
ぎこちなく作法を真似て、それから前もって聞いていた通り「日々の感謝」それと「お願いごと」を伝えることにする。
「落ち着いたお社に訪れて、楽しい時間を過ごせました。この国はどこもにぎやかなぶん息苦しさを覚えますけど、こんな場所があっていいなって思いました。えーと、お願いごとは、あの日に食べた美味しいカツ丼を、せめてもう一度だけでも食べた……」
視線を感じて瞳を開くと、彼はなんと言っていいのやら、という顔をしている。怪訝な表情で見つめると、申し訳なさそうに笑いかけてきた。
「口で言う必要はないんだよ。その、想うだけで通じるから」
カッと頬が熱くなる。
聞いていなかったので仕方ないとはいえ、なんとなく子供扱いされた気がしたのだ。冷静で頭が良くて、魔術師ギルドでは「氷の妖精」とさえ呼ばれているというのに。
ぎゅっと遠慮なしに脇腹をつねると、神様の前とあって彼は悲鳴を飲みこんだ。
そしてもちろんその日の夕飯はカツ丼になるのだが、ふてくされた顔をしてマリーは「美味しい」「ずるい」と繰り返していたという。
§
ふっ、と耳に吐息を当てられてビクッとした。
「わっ、もうあがったの!?」
「ふふん、だれかさんが私の日記を読んでいる気がしたからよ。いけないんだ、こっそり覗いてしまうだなんて」
振り返るとバスタオルで髪の毛を拭くマリアーベルがいた。しかし怒っているわけはなく、たしなめるのを楽しんでいる表情だ。
ついさっき、彼女の好きなものを発見するのが僕の楽しみだと言ったかな? うん、確かに言ったね。
だけどそれは大きな間違いだった。誤りだった。なぜならば僕の弱みを握ったエルフさんが、にんまりと本当に嬉しそうな表情をしたのだ。
なぜなのかはまったく分からないが、笑みを浮かべながら両肩に手を乗せてきた。
「さあ、こうなったら観念なさい。あなたは今夜、美味しいカツ丼を作るの。別に大好物というわけではないけれど、たまーに、ごくたまーに食べたくなるときってあるでしょう? 実は今夜がその日なの。あなたにも分かるかしら?」
無理だよこんなの。
ぶふう、って吹き出さないわけがないよ。
なんでかなぁ、脇腹を遠慮なしにぎゅっとつねられてもさ、肝心の顔が笑っちゃうんだよね。いやほんと、毎日が楽しくて困ってしまいますよ、精霊魔術師様。
かたんと椅子を鳴らして立ち上がり、それから彼女と一緒にカツ丼を作り始める。
できたてを食べもらうときの反応を、とても楽しみにしながら。
コミカライズの詳細は活動報告をお読みくださいませ。




