【番外編】甘えん坊なエルフさん
たまに嬉しいときがあるんだ。
ごくたまーになんだけど。
なつかない猫がそれに近い気がする。
気難しくていつも一定の距離を取り、なでることさえ許してくれない。だけど綺麗な毛並みをしているあの仔猫。でも寒い夜なら特別なのか、布団に潜り込んできて甘えてくれるときがある。
いつもと異なる行動に驚きつつ、飼い主は内心で「フォー」と悲鳴を上げるだろう。長いことじらされていたぶん、きっと最上級の贅沢だと感じるに違いない。
あとはもう幸せな時間をただ楽しむだけでいい。
今宵、我が家にもその贅沢な時間がやってきた。
というのも帰宅するなり「ごろにゃん」という言葉が似合うほど、マリアーベルが甘えてきたんだ。鞄を置く間もなく懐に潜り込んできて、仔猫を思わせる大きな瞳で見上げてくる。
その上目遣いを見て、僕は内心で「来た」と思う。
いつもよりずっと距離が近い。愛くるしい瞳がすぐそばにあり、ふにゃっとした笑みを浮かべられると、つられて僕の頬は緩む。
コートの内側に入り込んできた手は、止める間もなく背中まで回された。
「んふふー、お帰りなさい。寒かったでしょう」
上機嫌そうな声で耳をくすぐり、すぽりと小さな身体が懐に入り込む。
寒いどころか、やわらかいし温かいし、女の子のいい匂いがするしで帰路のことなんてとっくに僕の頭から消えていた。
長耳の先端を震わせて、ちょっとだけビスケットのような甘い香りを漂わせる少女。抱き返しても嫌がられることはなく、もじもじと小さなお尻を左右に揺らしていた。
「どうしたのかな、マリー。今日は上機嫌だね」
「ううん、なんでもないの。一廣さんを温めてあげようかなぁって」
そう囁きながら、彼女の腕はごく自然と首に巻きついてくる。体重をすべて預けてきたのは、たぶんこのまま持ち上げて欲しいという合図だろう。
すべすべの頬を感じつつ、パジャマ越しに小さなお尻に手を回す。そして一思いに持ち上げてみると、のしっとやわらかな重みが胸に乗ってきた。
ぬくぬくだし、ぎゅーっと抱きついてくるのは……そう、甘えん坊さんモードが始まったんだ。
ときどきこういう日が来る。ごくたまに、忘れたくらいのタイミングで。
いかなる心理によるものなのかは分からないけど、普段よりずっと甘えてくるんだ。そして、このときのマリーはすごく可愛い。
うまく言い表せないんだけど……と思っていたところで、首に手をかけたまま、ひょいと少女の美しい顔が覗き込んできた。
「ねえねえー」
甘える声をより強めて、ぷるっとした光沢のある唇がすぐ目の前で開かれる。
いつも思うけれど、彼女は無自覚で僕を誘惑しているんだと思う。
もこもこの羊さんみたいな可愛らしいパジャマだけど、唇が見られていると意識してか、舌先で湿らせてからわずかに近づけてくる。それはきっと僕を観察しながら誘惑するための最善手を選んでいるのだ。無自覚に。
早まる鼓動を感じていると、クッと彼女は小首を傾げる。そして唐突な提案をしてきた。
「ねえ、甘いものを食べたいと思わないかしら?」
「ん、甘いもの? でもお夕飯も近いんだよ?」
「そうだけど、ちょっとだけ想像してみたらどうかしら。クリームたくさんのケーキを食べて、品のある紅茶で流し込むの。きっと美味しいでしょうね」
そう言って「ね?」と猫の好奇心を思わせる瞳で見つめてくる。
ああー、なるほどね。唐突に理解したけど、本日の甘えん坊さんモードは甘いもの食べたさによって発動されたらしい。
ぶらぶらと足を動かしながら待つマリーは、きっと「イエス」という回答を求めているのだろう。
本来なら夕飯前だからと断るべきだけど……なんでかな、こういうときはまるで抵抗できない。ねえねえと誘惑するように、そして共犯者を求めるように頬をつついてこられると、きちんと甘やかしてあげたくなる。
ほんの少し身体を仰け反らすと、のしっと反動で少女は抱きついてくる。それからすぐ近くにある長耳へ囁きかけた。
「そっか、精霊魔術師様は、甘いものを食べたくて我慢できなくなっちゃったんだ」
優しい声をかけてみると、マリーは抱きついたまま長耳を赤くさせて、無言でコクンとうなずいた。さらさらで真っ白な髪が揺れて、体温が一段階ほど上がったように感じる。
甘えん坊さんのマリーはすごく可愛い。
素直だし、ぬくぬくだし、これからもちゃんと甘えてくれるように僕としてはキチンと甘やかしたい。いけないことだと分かってはいるけれど、たまになら構わない。
「じゃあ、食後のデザートも作ろうか。お夕飯を少し我慢できるならスーパーで材料を買ってきてもいいね」
「やった! ねえねえ、一体どんなデザートを作るのかしら?」
ぱっと表情を明るくさせて、首に両手をかけたまま覗き込んでくる。先ほどの照れがあったせいか頬はまだ赤い。
その期待いっぱいの表情を眺めて、そうだなぁ、と呟きながら僕は思案する。
中途半端なものを伝えたらきっとがっかりされるだろう。そして、この甘えん坊さんモードを維持して欲しい僕としては、より甘い提案をしたくなる。
たとえば、たっぷり想像力をかき立てる言葉を投げかけてはどうだろうか。それはどちらかというと少女の反応を楽しむための行為だけど。
「まず、食後のデザートを出すことが前提なら、お夕飯は赤身のステーキがいい。ヒレは脂身が少ないけれど噛むと旨味が溢れ出す」
塩胡椒をまぶした牛肉は、焼くことで旨味を内側に閉じ込めてくれる。だからひとくち食べるだけで溢れ出し、牛肉ならではの美味しさを堪能できる。
ほどよい噛み具合のそれを、ぷつっと歯を立てるとお肉の深い味わいが溢れてくる。
「想像してみようか。おくちのなかは美味しさで溢れていて、豊潤な赤ワインで流し込むときを」
先ほどマリーから誘われた言葉を真似ると、ほぅっと深いため息を誘えた。
唇の端っこを手で拭い、これ以上はダメだと拒むように首を左右に振り始める。しかしピンと伸ばされた長耳は、まるで僕からのさらなる誘いの言葉を待っているかのようだった。
「ご飯じゃなくてパンにしよう。そうしたらお腹いっぱいにならないし、甘いデザートまで楽しめる。そしてここからが肝心なんだけど……」
さあ、想像してみよう。
この部屋は広めとはいえワンルームだ。
デザートが焼き上がるのは、おおよそ30分。チーズを混ぜたクリームが焼かれて、テーブル席まで甘い香りが徐々に運ばれてくるのだ。
「チーズスフレがいい。ほどよい甘さだから、お夕飯のあとでも楽しめる。そう、メレンゲたっぷりのカップケーキだよ。グラニュー糖を使うから、底のおこげがすごく美味しい。ふわふわのスフレをひとくち食べたら、きっとマリーも満足できると思うんだ」
どうかな、と囁きかけた。
なるべく悪魔からの誘惑を思わせる声で。
抱きついた姿勢のまま、マリーは身動きできない。
笹穂を思わせる耳は小刻みに揺れており、密着したままのお腹から「くぅ」という可愛らしい響きが伝わってきた。また同時に「きゃっ」という悲鳴も聞こえたけれど、それは僕の頬を緩ませるためのダブルパンチだったとしか思えない。
さすさすとなぜか僕の背中をさすりながら、マリーは顔を逸らして艶のある唇を開く。ちらりと紫色の瞳がこちらに向けられた。
「わ、私としたことが想像しすぎてしまったようね。いけないわ。お肉の美味しさまで加わってしまうだなんて。このままだとエルフ族として堕落しかねないわ」
「もしそのときが来たら、きっと可愛らしいダークエルフさんが誕生するだろうね。さて、どうしようか。もしも賛成なら一緒にお買い物に行く?」
行く、と小さな声がすぐに聞こえてきて、僕の口は勝手に笑みを形作る。
すねたような声だったからなのか、それともちらりと見つめてくる表情が子供のようだったせいなのか、僕に理由は分からない。
甘えん坊なマリーはとても可愛い。
ごろにゃん、と懐のなかで甘えてくれるから仕事の疲れなんて簡単に吹き飛んでしまう。仕事では人とのやりとりで疲れることが多いけど、なぜか半妖精エルフ族なら真逆に変わるらしい。
その理由もまるで分からない。
そしてもうひとつ僕に分からないことがある。
「あれ、ウリドラはどこに行ったのかな……」
靴を履きながら、ようやく僕はそのことに気づいた。いつもだったら訴えかけるようなジト目を向けられているころなのに。
ふとテーブルの上に宝石付きの首輪が置かれていることに気づく。付き合っていられません、わたくし実家に帰らせていただきます、という捨て台詞がなぜか幻聴として聞こえた気がした。
「カズヒホちゃん、お着替えは済みましたか?」
だきっと横からマリーに抱きつかれたのは、早く早くという催促だろう。冬用のマフラーとコートまで揃うと、まるで本物の羊さんになったみたいだ。
お夕飯の支度もある。さっさと買い物を済ませようと思い、僕らはそのまま外に出てゆく。
では羊さん、
じゃなくってエルフさん。
美味しいお夕飯の材料を買いに行きましょうか。
§
ナイフで肉を切ると、うっすらピンク色の断面が覗く。美味しそうだなと思い、とろりとしたたるソースを絡めてから舌に乗せる。
最初に甘さを感じ取り、ピリとした香辛料を、そして溢れる肉汁によって占拠されてゆく。
うーん、という僕らの声だけが部屋に響いた。
たっぷり期待をして待ち望んでいた味わいでもある。そのほんの少しの飢えが彼女の味覚を鋭敏にさせていたのかもしれない。
噛めば歯ごたえの良い肉質が待っており、言葉を発せずとも唇は笑みを形作る。
美味しい?と尋ねると、少女の笑みはさらに深まる。ひとくちワインを飲むと、薄紫色の瞳は僕に向けられた。なぜかすねた表情にがらりと変えながら。
「ずるいわ、あなたっていつもそう。こうやってつつましいエルフ族の暮らしを忘れさせてしまう気なのよ。なんてひどい人」
「ん、それは心外だね。僕はエルフの里での暮らしをとても気に入っていたんだし。それに、この暮らしだってつつましい部類に入ると思うんだけど?」
食材は一人あたり千円に収まっているのだし、しがないサラリーマンの身でもある。高級レストランとは縁遠いし、明日の朝には電車に揺られていることだろう。
「あらそう、じゃああれは何かしら?」
そう言って少女の指先がキッチンに向けられる。オーブンからは甘い香りが漂っており、デザートとして出来上がるカウントダウンを示していた。
「うん、あれはね、甘いもの好きなエルフさんを誘惑する香りだよ」
「ほら見なさい、つつましいどころか悪魔が誘惑しているような香りじゃない。まったく信じられないわ」
ふきふきとナプキンで口を拭うと、なぜか少女は両手を伸ばしてくる。その仕草にどんな意味があるかも分からず小首を傾げると、ダウンライトきりの薄暗い室内で彼女はにっこりと笑う。
「いらっしゃい、カズヒホちゃん。あなたもたっぷり堕落させてあげます」
「ん? どういう意味かな。それに人間は堕落をしてもダーク人間にはならないよ?」
日焼けをしたサーファーとかはいるだろうけど。いや「自堕落な人」ならたくさんいるか。
などと呟いていると、椅子から立ち上がった少女に手を引かれ、すぐそこのベッドまで連れられてゆく。
なんだなんだと戸惑っていると、唐突に、ぼすんと太ももの上に頭を乗せられる。
見上げるとマリーはちらりとオーブンに目を向けていた。
「あと10分くらいはあるかしら。つまり、あなたを堕落させるのに十分な時間があるということになるわ」
どういう意味……と尋ねる前に、さわりと指先で首を撫でられる。すべすべの指に後ろ髪をすくわれて、悪戯するようにちょんと耳をつまみ、そして両肩を揉んでくれる。
あ、気持ちいいです。
そう思うのと同時に、女の子の甘い香りと体温に包まれる。
恥ずかしさはあるのだが、薄暗い室内には僕らだけしかおらず、ぬくぬくの太ももには抗いがたい魅力もある。
「んふふ、可愛い。今夜は珍しく甘えん坊さんなのね。一廣さん、このまま堕落するまでなでなでしてあげる」
あれれ、いつの間に攻守逆転していたのだろう。
そもそも甘えん坊モードなのはマリーだったはずなのに。
などと反論をしたくても言葉は出てこない。じんわり伝わる温もりと、マリーの匂いに包まれているうちに、膝枕というのはすごいんだなという感想に変わってしまった。
機嫌良さそうな鼻歌を聞きながら、チーズスフレが出来上がってゆく甘い香りを楽しみながら、そして髪の毛を撫でまわされながら、つつましい夕飯時は流れてゆく。
焼き上がりを伝える電子音が鳴っても、なぜか僕らはしばらくベッドから離れることは出来なかった。
本日2月22日は、にゃんにゃんにゃんな猫の日……じゃなくってエルフさん5巻の発売日です。
宜しくお願い致します。




