第297話 女神様の願い④
朝日が登り始める時刻、草木はオアシスからの水を吸い、ぐんぐんと葉を広げてゆく。
砂漠の雨季はとうに過ぎているが、この水源豊かな地であれば枯れることは無いだろう。
その木漏れ日の下で、王族の一人、ウォルス王子はふと気づく。万物を見通すことのできる真実の目が失われていることを。
しかし慌てるでもなく傷だらけの彼はこう漏らす。
「……聡いものだ、神という存在は。仕えたいと思える相手を決めた途端に消えるとは」
「たわけ、国神の領域から離れたに過ぎん。貴様はまだこの名もなき国に仕えたわけではない」
唐突な横槍に驚き、振り返るとそこには装甲を着込む女性の姿があった。
陽を浴びても深い闇を感じさせるその姿に、先ほどまで疑いの眼差しを向けていた。魔に属する者だと知っていたからだ。
「ウリドラ殿、私は大きな過ちを犯してしまった」
しかし口から出てきたのは後悔の念だった。
つい先ほど女神の指先に触れられたことで悟ったのだ。彼女は悪ではないと。大事な友人なのだと。
かくんと顔を傾げて、拍子抜けの表情をするウリドラは、そのように大きく態度を変えた様子に戸惑ったのかもしれない。人間族の王とは尊大であり、話をする気にさえならない相手だったのだろう。
「ふむ、もしも腹立たしいことをまだ言うようであればと思うておったが……貴様、さっぱりとした顔になったな」
オアシスの水辺にしゃがみこみ、顔を洗おうとしていた王子はそんな声をかけられる。
彼女の言う通り、水面に映る彼の表情は憑き物が落ちたようで、かつての鬱屈とした面影は薄れつつあった。
きっとあれは不要な力だったのだ。見るだけで万物のことを分かってしまい、だから挑戦をしたり、ひとつずつ学ぶ楽しさというものを失ってしまう。そして歩む道さえ見失ってしまったのが先ほどまでの己だ。
バシャリと冷たい清水で顔を洗うと、こびりついていた血も汚れも消えてゆく。
だけどそれだけではないと彼は思う。能力が消えたくらいで人は大きく変われない。もしも変われるのだとしたら……。
「しかし、あの光景を見れば当然かもしれぬ」
そう声をかけられて、王子とウリドラは同時に空を見上げる。
だいぶ日が昇ってきた空は明るく、先ほどの流星の跡はもうかすかにしか残されていない。だけどわずかな粒子を撒き続けている光景を、きっと長いこと忘れられないだろう。
人を変えるなど、もはや奇跡に近しい。
見上げた姿勢のまま、ぽつりと王子は声を漏らす。
「しばらくしたら私はアリライ国に戻る」
「ほう、てっきりこの地に残るかと思うたが。それで、自国に戻って何をする? 飽きもせず戦争の続きか?」
「いや、新たな国が生まれたのだ。そう城の者たちにも伝えて、ゆくゆくは国交を行いたい。無論、許されればの話だが」
つまり彼はこう言ったのだ。資材や食料の交易をしよう、と。長い戦によって徐々にアリライ国は疲弊しつつあり、特に食料問題がひっ迫していることは大きな理由だろう。
ただでさえ魔石を生み出す古代迷宮を押さえられている。魔石とは戦争における原動力そのものであり、アリライ国としてはすぐにでも派兵をしたいところだろうが、ここはゲドヴァー国の侵攻さえ食い止めた地である。恐らく軽はずみな行動は取れまい。
ふむ、ふむ、とウリドラは思案する様子だった。
奇遇にも第三層は手つかずの状態で、子供たちが泥んこ遊びをするように立派な街並みを作ろうとしている。
もしも水も食料も豊富なこの土地に移民などがあるようならば、いずれ国として正しい姿に変わるかもしれない。
しかし面倒なことは後回しで構わない。
くあーっと欠伸を漏らしながら「眠い」とウリドラは言う。本当は睡眠の必要など無いのだが、最近はどうにも寝床の心地よさを知り過ぎてしまった。
「今後のことは部下と相談するが良い。一人で決めず、最も良い方法を選べ。さすれば大きな過ちは起きぬじゃろう」
そう言い、返事も聞かずにさっさと身を翻した。
向かう先にはリザードマンたちがおり、おーいと手を振っている。先ほどまでの狂乱などすっかり忘れたような丸い身体つきの彼ら目にして、知らず知らずのうちに唇を微笑ませた。
きっとあれが女神さまの見たかった光景なのだろう。以前のように畑仕事をして、鍋を作り、お風呂で温まる光景をきっと取り戻したかった。
「じゃが、わしは寂しいぞ、シャーリー」
楽しい日々に押し流されて、可愛らしいあの子が思い出に変わってしまうというのは。そして、もう信仰でしか感じ取れないなんて。
彼女との散歩はとても愉快で楽しかったのに。
と、そんなことを考えていると、ドサリと何かが降ってきた。それは人の身体をしており、腰から思い切り落ちたせいか痛そうに呻いているではないか。
「…………は?」
助け起こす気にもならなかったのは、その光景がまったく信じられなかったからだ。
たとえ魔導竜であろうとも、決してこのような未来など読めない。なぜならば、世界の理を乱す行為に他ならないのだから。
そこには砂まみれで苦悶の表情をする友人がおり、青空色の瞳には涙を浮かべていたのだ。
「い、いやはや信じられん。まさかまさか」
呆然としたその声が聞こえたらしく、彼女はこちらを見上げてくる。だけどきっと彼女のほうこそ呆然としたに違いない。
両手の指からこぼれ落ちてゆく砂粒と、うっすらとした血管、そして喉を抜けてゆく息づかいを彼女は知る。
風も、匂いも、なにもかも、いつもよりずっとリアルに感じたことだろう。偽りではなく本物の肉体を得てしまったのだから。
その彼女に影が落ちる。見上げると、にんまりと笑うウリドラの表情が待っていた。
「この目で見てもまったく信じられんぞ。まさか本物の肉体を得て戻ってくるとは」
その言葉を聞いて「はい?」と小首を傾げる。
女神となるためには地上から姿を消す必要があった。なのに本物の肉体を得て帰ってくるという真逆の結果だ。
ウリドラから伸ばされた手を掴み返してみると、温かくてなめらかな皮膚を感じ取れるだろう。髪の色はすっかり元通りの蜂蜜色をしており、ドレスもまた同様だ。それでいて瞳の奥には女神としての力を感じさせる。
「ふ、ふ、わしも長いこと生きておるが、肉体を持つ女神は初めて見る。よほど強い願いだったようじゃな。ふむふむ、なるほどのう。確かに肉体を得なければ、北瀬と良い思いをすることはできぬか」
再び「はい?」とシャーリーは小首を傾げた。
友人の言葉があまり理解できない様子であり、再び瞳をぱちぱちする。だけど唐突に意味が分かってしまい、カッと頬を熱くさせた。
たまたまあの場にマリーはいなかった。だから安心しきっていたというのに。
しかし思い返してみれば、ウリドラの使い魔たる黒猫がベッドに寝転がっていた。きっと一部始終を見られていただろうし、幼子のように夢中になって口づけする姿を――。
うずくまったまま両手で顔を覆い隠す。
そう、最も強い願いだけが叶ってしまったのだ。
生と死は同価値だと言っていた娘は、いま生を受けてしまった。嘘や冗談などではなく、実際に子を宿すことを許されては、いくら女神であろうとも瞳を真ん丸にするだろう。
違うんです、誤解です! と両手を突き出したのだが魔導竜の嫌らしいニヤニヤ顔は止まらない。何を思ったかパンとお尻を叩かれて、知ったばかりの「痛み」に彼女は涙を浮かべた。
ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、と砂を何度も踏んで抗議をするも、憎たらしいことにまるで気にしていない風だった。生まれて初めて「ばか」とシャーリーは口を動かしたというのに、だけどウリドラはすごく綺麗な笑みを返してきたから、青空色の瞳を見開いてびっくりする。
姉妹のようなウリドラとシャーリーは、気づいたら両手の指を絡ませ合い、こつんと額同士を触れ合っていた。こうしたい、とまったく同じことを思ったから。
「うむ、温かい。これぞ女神様のご加護というものじゃ」
かすかに涙を浮かべて、大事な友達がそう言ってくれる。
こくんと頷いて、後から後から大粒の涙が頬を流れてゆくのを止められない。一体どこから溢れてくるのだろう。このままだと目がしぼんでしまいそう、などと思いながら。
足の指のあいだに砂が入り、くすぐったいのがとても嬉しい。思わずスキップをしたくなるくらいすごく楽しみだ。
だってこれからもずっと一緒に過ごせて、一緒にお散歩に行けるのだから。陽が傾いてきたら焼き菓子を食べて、暮れる前にお布団を一緒にしまう。いつもと同じ楽しい生活を送ることが許された。
迎えてくれるウリドラの言葉が何よりも温かく、そんな情景を思い浮かべたらもう無理だった。唇を噛んでも耐えきれない。
ぼろろ、と下まぶたの膨らみを伝って涙が落ちる。こんなにも良い思いをしてしまって良いのだろうか。こんなにも嬉しいことが他にあるだろうか。
だけど泣いている暇はない。短い手足で懸命に駆けてくるエグリニィ。彼にも「ただいま」と迎えてあげなければ。
ぴょんと飛んできた小さなトカゲを見てこう思う。
ああ、この美しい世界を、おかえりと言ってくれる優しい友達を、私はたくさん祝福してあげたい、と。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「へえ、そんなことがあったんだ」
もぐもぐ目玉焼き乗せのトーストをかじりながらそう言うと「まあのう」とウリドラは頬杖をつきながら頷いてくる。
昨夜、見えない誰かに抱きすくめられるという不思議な体験をした真相は、実はそんな感じだったらしい。
やがては正式に国交が結ばれるかもしれないし、そうしたらこの地はもっと賑やかになるかもしれないとご機嫌斜めで不貞腐れぎみの彼女から聞いた。
僕らは知らなかったけど、このときアリライ国で荷物をまとめる獣人がいたらしい。ぴょこりと立った三角形の耳をしており、大きな鞄を背負い「にゃっ」という掛け声と共に立ち上がる者が。
だけど魔導竜が何かを隠している気がしないでもない。女神となったにも関わらず、なぜこの世界に残ったのかという真相をまだちゃんと聞いていないのだ。
薄紫色の瞳と一緒に、じぃっとウリドラを見つめる。まだ何か隠しているんじゃないの?という疑いを含めた視線で。
「……しかし良いことばかりではないぞ。ほれ、見てみよ」
そう言ったのはたぶん話題を逸らしたかったのだろう。となると彼女から聞き出すのは容易ではないので、僕とマリーは諦めのため息をひとつ吐き、示される先に目を向ける。
ここは日当たりの良い窓際の席で、主に洋食を扱っているお店だ。パンケーキや焼き菓子などが名物で、その上品な甘さには定評がある。
んんーっ、とたまらなそうに頬を押さえているダークエルフ……の向こう、カウンターから料理を手渡された女性は給仕用の服を着こんでおり、蜂蜜色の髪を揺らしていた。
ごくごく普通の愛らしい女性であり、とてもじゃないけど僕らの目には本物の女神とは思えない。
「あのように人間と同じようにご飯を食べて、ベッドで気持ち良く眠らなければ翌朝は不機嫌になる。弊害とは、普段は女神の力を隠しておらねばならぬことじゃろう」
なるほどねぇ、と僕らは呻く。
いつでも強大な力を扱えるわけではなく、いざというときしか働かないのか。
見れば向こうのテーブルには、お風呂あがりらしき王族の姿もある。顔は厳ついというのに館内着というのは、組み合わせの違和感がすごい。
どうやら当館の娯楽についてもすっかりと解禁したらしく、あれほどいがみ合っていたことも忘れて、部下の者たちと今後のことを相談している様子だった。
「ああ、そこの君。済まないが、水をくれないか」
そう言って、ごく自然とシャーリーを呼び寄せているようだけど……あっれぇ、どうして女神様本人だと気づけないの?
聞いた話によると、彼が目にした女神様の姿は、普段とまるで異なる容姿だったらしいけど「真実の眼」なるものを失ったらそこまで節穴になってしまうのかい?
ぼそぼそ話している内容も気になるので、そっと聞き耳を立ててみる。すぐ隣からも長耳がにゅっと立った。
「私は大きな過ちを犯してしまった。傷つけて、糾弾し……そこで和平のためにこの地へ黄金像を贈るよう打診したいうと思うが、どう思うかね?」
「王子、いくら信仰を高めたいとはいえ、それはお控えになられたほうが。いささか趣味が悪すぎ……いえその、まずは相手の好みをきちんと調査されたほうが宜しいかと」
銀色の髪をした男から諭されて「ではそのように手を打て、万能官」と鷹揚に命じる。
そしてシャーリーからグラスを手渡されると……もしかしたらチップだったのかもしれない。ペカリと光る金貨がその手のひらに乗せられた。
一瞬で水が金貨に変わった。高名な錬金術師も真っ青な早業である。
あまりのできごとに気絶しそうな顔のシャーリーと、再び無意味な議論に戻ってゆく王族たち。
しかし彼らを見つめるウリドラはというと、いまだに怒りが収まらぬらしく、むすっとした顔でこう呟く。
「哀れじゃのう。王族の末席ともなると、取り入ることしか能が無くなるとは。目が節穴の男にどうこうできるとは思えぬがな」
大事な部下を傷つけられて、はいそうですかと彼女が許すわけもない。しかし国同士という関わりがあれば事態は一気に難しいものに変わる。
おいそれとこの地から追い出せないし、なによりもシャーリーは滞在を許している節がある。ちゃんとした関係を築くのは、まだまだこれからなのだろう。
それよりも気になるのは、こちらを振り返ったときのシャーリーの表情だ。
目が合うなりボボボッと耳たぶまで赤くさせて、勢いよく顔を逸らされてしまう。厨房から響く声さえもまるで聞こえていないのか、心ここにあらずという風にボーッとしている。
傾いたおぼんからガラガラとグラスが落ちてしまい、厨房のザリーシュは悲鳴を上げていた。
もうひとつ、ピクッとマリアーベルの眉が跳ね上がるのも僕にとっては不思議だった。
「あれ、マリー? どうしたの、顔が怖いよ? ねえ、聞こえてる?」
何を考え込んでいるのだろうか。話しかけても少女はまるで聞いてくれず、ピンピンと耳の先端を揺らし続けているのにはどんな意味があるのだろう。
唐突に、彼女の無表情ぎみな顔がこちらに向けられた。なぜかちょっとだけ怖いと感じる表情であり、勝手に冷汗が垂れてゆく。
「一廣さん、あーんなさい」
「えっ、なんで急に? ちょっ、ちょっと待って、蜂蜜がべったり頬についてるよ! ねえ、本当に食べさせる気がある……むぐォッ!?」
ずぼーっとパンケーキを口に放り込まれて、僕は死ぬかと思ったよ。おえっとえずいたというのに、エルフさんはフォークの先でグリグリしながらシャーリーの背中を睨んでいるのだし。
ああ、いかん。結婚を誓い合った相手から殺されかねない。
だけどもし、もしもだ。脱兎のごとくこの場から逃げ出したら、パンケーキで死ぬよりも恐ろしい目に遭いかねない。理由は無いけど絶対にそうなる気がする。これぞ男の勘というやつだ。
ボンヤリしているように見えて、ここ最近の僕は女性の考えというものを理解しつつある。旅行や食事などのエスコートをたくさんしているおかげだろう。
しかし今回に関しては理由がさっぱり分からない。難しいなと思うのは、理不尽だろうと何だろうと男というのはうまく対応しなければならないことだ。
そう思い、助けを求めてウリドラに視線を向けると、思いもよらぬ凍てつくような瞳が待っていた。
「本っ当ー……に貴様は、心の底から靴で踏みつぶしたくなる雄じゃのう。この鈍感太郎が」
「太郎ってだれ!?」
そう裏返った悲鳴を上げる僕の口に、新しいデザートがズボーッと入ってきた。数え切れないほどこの世界で死んだ僕だけど、パンケーキに殺された経験は無いんだよ?
さて、そんな騒動など我関せず、黙々と働く種族がいたらしい。
えいさほいさと第三階層に向けて丸太を運ぶのは、ずんぐりとした体形のリザードマンたち。数頭でバンザイをして運んでいるものだから、なにかの祭りでも始まったのかなと周囲の者たちは思うだろう。
でも違う。彼らにとって待ちに待った瞬間がやってきたのだ。
いつの間にやら彼らは職人としての血を目覚めさせている。楽しんで暮らす者たちを見るのが好きだから。
褒め称えられるとありもしない鼻が高くなり「よせやい」と指でこすって得意げな顔をしたくなる。
フンフンと鼻息も荒いのは、なんといっても女神さま公認のお仕事だからだろう。もう邪魔をする者など一人もいないし、コソコソする必要もない。大好きな野菜の収穫量だって思い通りに増やせるし、染み染みの大根を山盛りで食べたくて仕方ない。
まだ見ぬ街並みを思い浮かべて働く彼らに、女神様はきっと温かい野菜鍋を振る舞ってくれるだろう。
そのときを楽しみにして、えいさほいさと彼らは木材を運んでゆく。
ああ、この世界に祝福を。
楽園で暮らす全ての人々に祝福を。
そして、恥ずかしがり屋の女神さまにも祝福を。
―― 祝福の章 END ――
祝福の章はこちらで完了です。
☆お知らせ☆
「日本へようこそエルフさん。」第5巻は2月22日(土)発売予定です。
にゃんにゃんにゃんな「猫の日」と、猫好きなマリアーベルにぴったりの日ですね(笑)
すでにご予約も開始しておりますので、ぜひぜひご検討くださいませ。
完結まで書ききる所存ですのでどうか……!




