第296話 女神様の願い③
はあ、あ……。
力の奔流に戸惑いながら、開いた唇から息を吸う。
空気と一緒に、星たちが身体の内側まで入り込むかのようだ。手足の力を抜いて、抗うことなく受け止めていると、徐々に意識が薄くなってゆく。
「女神であれば起こせる奇跡があるという」
そう耳に響くのは聞き慣れた友人の声だった。
導くようなその声は、だけどすぐに思考から消えてしまう。
消える。
消えてゆく。
これまでの暮らしが、記憶が、世界がおぼろげな灰色と化してゆく。でも怖くないのは、この過程は正しいと分かっているから。形を失い神の領域へ入るため。
私を探してきょろきょろと辺りを見回し、悲しそうな顔をしたエグリニィ。彼も分かっていたのだ。女神になることを望んだときに。
神の領域に足を踏み入れたら、もう皆とは遊べない。異なる段階へと昇華されて、存在自体が大きく変わるから。
いらないものが消えてゆく感覚のなかで、だけど離れてゆこうとするものに「だめ」と無意識で呟く。
たとえ女神であろうと夢を見たい。彼の腕に抱かれて、そのままじっとして過ごす心地よい夢を。この夢だけは決して手放せない。
「女神であれば願いが叶うらしい。その願いが強ければ強いほど」
またひとつ魔導竜の声が耳に響く。
チカチカとする視界で、すうと息を吸う。そのとき女神は確かに彼の匂いに包まれた。
まどろみの寵愛を通じて、コウ、と手の甲が輝いてゆく。それは火を灯すような色をしていた。
――同時刻、北瀬は不思議な体験をする。
それは誰かの存在を感じ取り、不可視の腕に抱きすくめられるというものだった。
咄嗟に手を伸ばしたのだろうか。
彼の手は、ほっそりとした腰を抱く。なにも無いはずなのに、そこには確かに温かい皮膚があり、ふううと震えた息づかいが聞こえてくるかのようだ。
悲しいけれど、でもやっぱりシャーリーは嬉しかった。泣きそうになってしまうけど、やっぱり最後は彼に別れを言いたかったから。
これが奇跡ということかな?
私ったらそんなにお別れを言いたかったの?
小首を傾げてそんなことを思うけど、答えは誰にも分からない。当のシャーリー自身でさえ、己の感情や願いごとをまるで分かっていないのだ。
戸惑っている様子の彼を眺めて、ああ、もう本当に見えないんだなと気づく。
でもそうなると言葉を話せない私はどうしたらいいだろう。
たったの一度くらい、他の皆と同じように……一度だけでいい。
あなたの名前を呼んでみたいです。
「…………ッ」
でも奇跡は起きなくて、唇はわななくだけで言葉にはならない。ぼろっと泣いた理由は、もう私にもよく分からない。彼に別れも伝えられなくて、見えなくなって、このまま消えてしまうのは、なぜかすごく悲しい。
奇跡を、たった一度だけ私にも奇跡をください。
こんなにそばにいても、彼に気づかれもしないのだ。目の焦点が合わないまま、きっとこのままボヤけて消えてしまう。
触れたい、一度だけでいい。
触れて……そう、キスをしたい。
ぷっくりとした艶のある唇が、そっと北瀬の首筋に落ちる。やわらかくて弾むような唇は、ふかりと埋まる感触を伝えてくる。
はう、と唇を触れたまま呻いた。
肌の匂い、彼の匂い、思い描いていた北瀬の匂いに包まれて、ピククッと腰が引きつるように震える。
あぁ、生々しい。うっとりするほどに。
彼の優しい匂いがする。まるでおひさまみたいな優しい匂い。
わずかに唇を開いて、ぼうっとした瞳で鎖骨を何度か食む。男らしい骨格を覚えながら、また同時に己の腰を抱いている腕に力が入るのを感じた。
奇跡だ、ああ、これは奇跡だ。
きっとそう。でないとおかしい。夢だったらきっと飛び起きていただろうし。
ぎゅうと抱きつくことも、互いの隙間がぴったりと埋まって、やわらかく肉が触れ合うことも許される。
肩にあごを乗せて、ふううと私は息をする。胸がどきどきし続けていて、眩暈を起こしそうだったから。
そして「溺れてしまいそう」と思いながら、形の良いやわらかな唇を首筋に押し当てた。
唇を通じて彼の皮膚を感じ取れる。
そっと離された場所には星型の跡がつき、すぐに肌と同色となって消えてしまう。
それを見て、はっきりとした欲を私は感じた。
強い衝動に突き動かされるまま、背中に腕を回して抱き寄せる。グイッと乱暴なくらい。
いつもの私はこんなことできない。胸が張り裂けそうなほど恥ずかしいことだから。
でも今日は別れの日であり、たった一度だけ許された奇跡なのだ。
――だからきっと、なにをしてもいい。
彼を手に入れてもいい。
初めて出会った第二階層でそうさせたように、ずっとそばに居させてもいい。
小指同士を絡ませあい、毎朝一緒に散歩をしてもいい。ずっと視界のなかに置いてもいい。
あごの下を唇でぱくりと食みながら、隙間なく彼に抱きつきながら、シャーリーは願いごとに想いを馳せてうっとりする。片脚を一歩だけ進めて、彼の太ももに挟まれながら。
同時に気づいた。これは力の暴走なのだと。
――いけない。
瞳に星をまたたかせながら、ああ、と私は呻く。この状態は願いが純粋すぎる。だから力として発現してしまう。なにもかも許されてしまう。
懸命に堪えようとするシャーリー。
だけど女神の蹂躙は止まらない。
腹部をぴったりと密着させたまま、私は喉をわななかせる。奥底から発せられる欲望は果てしなく、もっと彼の匂いを嗅ぎたくなる。
あと少しだけと欲望に囁かれて、こつんと額同士を触れ合わせたまま、は、は、と私は浅く早い呼吸をした。
ああ、もう分かる。はっきりと分かる。
私がそうしているように、彼もまた私の匂いを嗅いでいるのだと。吹きかかる息を感じているだろうし、そう意識するだけで背筋を電気のようなものがビリッと走る。ビリ、ビリ、と尚も続き、衝動をこらえるために腰を揺すると、衣服を通じて彼の身体と擦りあう。
いけない、私の匂いが変わった。
素肌を滑り落ちる汗のしたたりを感じたし、己の身体から甘い香りが発せられるのを自覚した。きっと小鳥のような心音さえ伝わっていることだろう。
引力には決して逆らえないように、最も熱いところ、唇が勝手に近づいてゆく。艶があり、甘い果実のように色づいた唇を差し出したい。きっと甘いに違いないから。
彼の首に両手をかけて、ドク、ドク、と胸が高鳴る。
頭の芯がしびれてジンとする。
すごく近いと思ったし、実は内心で悲鳴を上げてもいた。だけど己の身体はそれ以上に唇への熱を欲している。
突き動かされる衝動と、駄目だと訴えかける理性。ああ、と喉をわななかせた。
これは女神になった弊害だ。
願いが簡単に叶いすぎる。
仰け反ろうとする意志と、触れ合いたいその唇。苦悶の表情を浮かべながら、涙混じりにシャーリーは呻く。
大粒の涙をこぼし、抗いがたい欲望を懸命にこらえる。これは力の暴走だと理性では分かっているのに、本心が邪魔をする。それが苦しい。
また同時にこう理解した。だから肉体を持つことは禁じられているのだと。
肉体に感情を振り回されて、冷静な判断などできなくなる。だから空気のように溶けて消えなければならないのだと。
しかし分からない。
なぜこんなにも彼を欲するのか。
どうしていつも忘れられないのか。
出会ったその瞬間から、彼だけはどうしても匂いを嗅ぎ続けていたくなる。ずっとそばにいて欲しいと強く願う。
なぜ、なぜ、なぜ?
唐突にその理由が――分かった。神の領域に踏み込むことで、禁忌とされる知識さえ私には得ることができるから。
そしてこう思う。
なんて可哀そうな人なのだろう、と。
こんなにも苦しい過去があり、それなのに人に優しくできるなんて、と。
涙をこぼしながら、ぎゅうと頭を抱いてあげることしかできない。なぐさめたかったし、いまの私にはこれしかできないから。
ほんのちょっとだけでいい。感謝の気持ちを伝えたかった。
苦しんで苦しんで、ボロボロになったというのに彼はいつも私たちを楽しませてくれた。あんなにひどい目にあって、だけど美味しいご飯を作ってくれる。今回は自信作だよと言って。
例えるなら尊敬という言葉が近い。
瞳に星を映しながら、私は何度かまばたきをする。身体の芯にはまだ熱があるものの、さっきよりもずっと呼吸は楽だ。
そう、そうだ。そうなのだった。
優しい声を聞きたくて、つい後を追ってしまうのが私。
振り向いてくれたり、楽しいことを言ってくれたり、遊びに誘ってもらえると、ついジャンプをしたくなるくらい嬉しい。
上機嫌になると草原を駆けてゆきたくなるし、枕に顔を埋めてごろごろ転がるときもある。
そんなとき、いつも私はこう願う。
一度だけでいい。
あなたの名前を呼んでみたいです。
「北瀬、さん」
唇の触れ合いそうな距離で、確かにそう囁いた。小鳥のさえずりのようなか細い声で。
「シャーリー?」
どきゅり、と心臓に杭が刺さったように思う。彼の声を間近で聞いて、言葉を交わし、瞳を交わした瞬間に。
同時に、なぜか分からないけど胸をドンと突いていた。きっと顔はもう真っ赤だろうし、指で覆うとじゅううと煙が出そうなほど熱い。その手首が掴まれて、それが北瀬の指だと気づいて……。
あ、あ、これはだめ。
刺激が強すぎて眩暈がする。
願いがどんどん叶ってしまい、いまにも気絶してしまいそう。
まず深呼吸をしよう。
落ち着いて、変なことを言ったりしないように気をつけないと。
どきどきしながら瞳を開いて、そっと上目遣いで彼を見る。
すると、すぐ近くに彼がいて、私を見つめてくれている。そっと後ろを見てみたら、彼が背中を抱き支えていた。ゾククと腰全体が勝手に震える。
はあ、と熱っぽい息を吐きながら、汗に濡れた前髪を指先ですくいながら、少しだけ分かった。女神って実は大したこと無いんだな、ということが。
だって、正体不明の感情にいつも振り回されているのだし。
そしてお別れを伝えることさえすっかり忘れてしまったのは、きっと女神として落第点を受けるべきだろう。
そう思い、今度こそ私は逃げるように彼の元から消え去った。
も――、北瀬さん、刺激が強すぎますっ!
両手の指で顔を覆いながら、脱兎のように逃げてゆく。すごいことをしてしまったという後悔の悲鳴をあげながら。
あれ、本当に後悔、かな?
ちょっとだけ違う気がする。胸の高鳴りは一向に収まらず、彼の温もりをまた思い出そうとしているから。
それくらい実際に触れ合えるというのは、本当に凄かった。
だけどもし……。
もしもいま、本当の願いごとを言えるのだとしたら?
唇に指先を当てたまま、ふうと熱っぽい息を吐く。肺いっぱいに満たされた、正体不明の得もいわれぬ感情を覚えつつ、私はその願いごとを口にする。
それは透明な氷のように、とても純粋な想いだと感じた。そして、とてつもなく強い願いでもあった。




