第295話 女神様の願い②
色素の乏しい指先に乗った小さなトカゲ。彼の名はエグリニィ。
ぱちぱちと瞬きをして、シャーリーの愛らしい瞳と一緒にじぃっと覗き込んでくる様子は、まるで「さて、ボクの能力はなんでしょう?」と問いかけているようだった。
そして、まばたきをパチパチしながら彼女たちはじっと待つ。
しかし難しいクイズだったらしい。まったく分かってもらえない様子にまた彼女たちは見つめあい、ほんの少し唇をとがらせて不満そうな顔をした。
忘れられるのも無理はない。
彼の能力はもうずっと前、出会ったときに一度だけ披露したきりであり、あとは散歩のお供しかしていない。さすがに錆びつきはしないけれど地味で弱い力なのだ。
はい、時間切れです。
そう言うように二人の顔は離れてゆく。
青空色の瞳とトカゲの小さな目は、なんの変哲もない迷宮の壁に向けられる。すると石造りの壁に亀裂が入り、まるで最初からそうであったように形を変えてゆく。
ごん、ごん、と重い音を響かせながら元からある古代迷宮の造りを変えてしまう。これこそがエグリニィの能力。ほんの少しだけ構造を変えてしまうこと。
ほう、とウリドラは感嘆の声を漏らした。
「変わった魔物じゃな。この古代迷宮のために生まれたとは。だまし絵のように姿を変えてゆく」
ええ、実はすごいでしょう。
肩の上に乗ったトカゲを自慢するように、んふーっとシャーリーは青空色の瞳を細めた。
回転してゆく石扉。
バララとめくれた白黒のタイル。
女神さまのお力を借りて、奔放に壁や床や天井がいま動き出す。亀裂から光が漏れて、落っこちてきた柱は角度を変えて、古代からある迷宮はもはや彼の小さな手の上にある。女神さまの領域内に限っては、だけれども。
やがて歩きやすそうなスロープ付きの階段が生まれると、トカゲは肩の上で小さく「きゅう」と鳴く。
「偉いぞ、エグリニィ。これで奴らを追うのも楽になった。ご主人から贔屓にされるわけじゃ」
いい子いい子とあごの下を撫でられて、エグリニィもご満悦だ。もっと主人を助けてあげたいのに、なかなか彼女が困ることは少ない。本当の力は、こんな近道を作ることでは無いというのに。
だけど撫でられるのは大好きなので、彼はやっぱり嬉しそうだった。
さて、ご機嫌なエグリニィが先導するなか、二人はゆっくりとした足取りで階層を抜けてゆく。傷ついて倒れた者たちを癒すために。そして醜い争いを止めさせるために。
槍を折られてうずくまる人影に魔導竜は呆れの息を吐き、そんな彼らの頭をシャーリーは撫でてゆく。
指からこぼれおちる粒子を浴びて、まるで月明かりに照らされたような思いをして、だけど彼らが顔を上げたときには立ち去ってゆく小さな足音しか聞こえない。
あっちだよとシャーリーが指さして、ウリドラと歩いてゆく。その指にはエグリニィが乗っており、なんだか変わった散歩じゃのうと魔導竜は思う。竜と女神候補、それにトカゲの散歩とは。
と、階段を転げ落ちた格好で、ピクリとも動かない銀髪の騎士がいた。その先にはうずくまる金髪の青年がおり、ひとつの決着を告げたのだと分かる。
「うッ、ううー……!」
うずくまった者も重症だ。
首の血管が黒く変色しつつあり、これは首輪につけられた罪人用の仕掛けが働いたことを示している。
発動させたのは王族か。状況を見るに雷光の騎士が敗れたと同時に死の呪いを解き放ったのだろう。
ガチガチと歯を鳴らし、死人のように肌を白くさせる彼は、シャーリーの薪を代わりに運んでくれた心優しい青年だ。命を懸けてでも王族に挑んだのは、たぶん愛している人がここにいるから。
頬を撫でると、すうっと青年の呼吸は安らぐ。
死の間際、かつての死神に命を救われて悟ることでもあったのだろうか。くずれ落ちてゆく彼はシャーリーの瞳をじっと見て「そうか」と納得したように呟いていた。
もしかしたら元階層主であったこと、そしてこの領域における女神だと気づいたのかもしれない。
おやすみなさいと彼女は唇を動かすと、黒薔薇の騎士は夢のなかに沈む。
かつんと足音を響かせながら、白色と黒色のドレスの裾が石階段をなぞってゆく。すやすやと眠る二人の騎士は、腕を組んで歩いてゆく彼女らを見ることはできなかった。
第一層から地表までの道のりは激戦だったのか、数え切れぬ兵士や竜族らが倒れ伏していた。
とっ散らかった部屋を眺めるように、女神候補は腰に手をやりながらフンスと息を吐く。
「言うておくが、わしの命令ではないぞ」
シャーリーから恨みのこもった視線を受けても、しれっとウリドラはそう返す。では誰が先導したのかというと……答えは階段を登った先、オアシスにある。
かつこつと靴を鳴らして進んでゆくと、もうそこに天井は無い。すぐに消えてしまいそうな星は明け方であることを示しており、徐々に空は色を変えつつある。シャーリーは青空色の瞳でそれを見上げた。
長い長い散歩だった。
友達と最後に過ごす楽しい散歩だった。
そのあいだ、ずっと女神となることにどんな意味があるのだろうとシャーリーは考え続けていた。
たくさんの秘密を教えてくれたウリドラは、もうそれ以上のことを教えてくれない。あとは己で考えるのだと、静かな瞳で語っている。
なぜか優しい女性だなと思う。
必要な知識だけを与えて、いつでも自由に歩かせてくれる。命令なんてしないし、ふざけていても見守ってくれているような気配をいつも感じる。
いまもそうだ。
組んだ腕から伝わる体温と一緒に、優しい気持ちが伝わってくる。かつては争い合った仲だというのに。
ほう、と息が漏れる。
肺から吐き出されたものには熱があり、いつもより温度が高い気がする。
本当は息をする必要なんて無いし、人間のような姿をする理由も無い。だけどこうして友達と散歩できるのだから、悪いことでは決して無い。
そっと手を離しながら、シャーリーはそう思う。
ほう、と熱っぽい息を再び吐く。
オアシスの領地をめぐり、人と魔が争う様子を視界の端にとらえながら。
だんだんと身体を仰け反らしてゆき、明けの明星に向けて両手を伸ばしながら。
この地上にたどり着いたとき、彼女は決めたのだ。正式に女神となることを。
輝く青空色の瞳は、まるで流星を映すかのようであり、また同時にオアシスにいる者たち全てが動きを止める。
「おお……」
そんな声が風に流れて届く。
争いをやめて、皆は夜空を見上げていた。
そこに流れる流星と、軌跡を描くその様を。
夜空はより青色を増しており、それまで争い合っていた人と魔物は、口をぽかんと開けて流れ星をただ見つめる。それは全ての真実を知ることのできる王族もまた同様だった。
きっと誰もが驚く。
軌跡が、奇跡が、流星が空から降ってきたのだ。
リン、リン、と鈴のような音を響かせて、夜を切り裂くよう青空色に染めながら。
光の粒子が空を染めて、伸ばしたシャーリーの両手に吸い込まれてゆく様を、全ての者が呆然と見ていた。
ああ、と驚嘆とも感動ともつかぬ声が響く。
黄金色の粒子は形となり、いま彼女の両手に冠を授ける。零れ落ちた黄金色の粒子は全身に降りそそぎ、彼女を新たな色に染めてゆく。
――星のまたたく夜のような黒色。
――清純さと生命の輝きを示す白色。
ふたつの色が髪の毛の左右をそれぞれ染めてゆき、それはどこか生と死を思わせる。もしかしたら生と死は同価値だと言う彼女を現していたのかもしれない。隣人の竜は、そんなことを思う。
相反する色彩でありながら、毛先まで染め終えると、肌を包むドレスまで同色で染めてゆく。風になびき、ばうと音を立てて膨らむと、指から零れ落ちた黄金色の粒子が胸元やおへそ、太ももまで装飾品のように飾っていった。
敵も味方も、魔物も死者も。
風にあおられた髪に、このときばかりは誰であろうと見とれてしまう。
その黄金色の粒子を撒いて、両手に掲げた冠をゆっくりと頭に乗せてゆく様を。
そっと乗せられたとき、生命力そのものの風が抜けてゆく。すると見つめる皆は指先まで温かくなり、傷は癒え、本来ある姿へとリザードマンは形を変える。
そうして彼らは一歩ずつ、二色の相反する女神に向かって歩む。来なさいと女神から命じられたように感じて。
ズン、と地表に打ち立てられたのはウリドラの刀だった。黒色をしており、持ち主である彼女はうつむいたまま女神の前に立ちはだかる。
頭から血を流す部下を乱暴にグイと手で押しやり、目に狂気を宿しながら近づく男から守るため。
「その姿、やはり本物だったか!」
そう言う者は、王族の一人、ウォルス王子だ。
彼は生まれたての女神を目にして、よほどの感情を抱いているのか震える指先を向けてくる。その先には黒い装甲を着込むウリドラの姿があった。
狂気を宿した目、そして無感情な瞳の視線が重なりあうと王子は震えた口を開く。
「そ、そこの女は貴女の進むべき道を邪魔している。思い通りの世界を築く気だ。でないとおかしい。でないと私は納得できん。忌むべき魔物が女神となる貴女の前にいるのは、私利私欲に満ちているからだ」
しばしの間を置いて、糾弾された当のウリドラはこう漏らす。
「…………は?」
ぽかんとした顔を見せ、シャーリーと顔を合わせ、それから理解できぬと言うように眉間に皺を寄せた。
「貴様、なにを見当違いのことを言うておる。このわしが欲望や利益を欲しがるとでも……無くはないが、おほん、あいにくとそれは間に合うておる。女神に願いごとをする気など無い」
そういえば美味しい食事を何度となく求めたか。そう異なる世界でのことを思い出したらしく、きっぱりと否定をしながらも少々バツが悪そうだった。
無論、言葉ごときでは激高した王族を止められない。
「私の『眼』は誤魔化せないぞ。魔物であるお前の言葉を信じろとでも? 神の力を手にしたがる理由は分かっている。かつての時代、夜の時代を取り戻す腹だな! さっさと本性を現せ!」
夜の時代、それは魔物はびこる時代のことだ。
人は紙切れ同然のもろい存在だったころであり、古の時代を懐かしむ魔族の国、ゲドヴァー国は戦をしかけてきた。どれほどの犠牲を生もうとも気にせずに。
「わしがそのような下らないことを……!」
激高しかけたウリドラは、真相に気づいて口を閉ざす。まさに縮図だったのだ。人と魔が争いあうこの光景は、神をめぐって争いあう人と魔そのものだった。
神を求めて白刃を振りかざそうとする人間。
それを止めるために再び動き出す竜族。
「……人と魔の存在、か」
まさに縮図だ。
これでは魔の時代から人の時代へと移り変わった日となんら変わらない。
すでに観たことのあるつまらない映画のように、怒るでもなく悲しむでもなく、かさかさにウリドラの心は乾ききっていた。
リン、と鈴の音が響く。
リン、リン、と心地よい音色が響いて、皆の心に響く。
手を伸ばす。
たったのそれだけで、女神の仕草ひとつで人間たちの鬼気は晴れてゆく。清純な空気が鼻の奥まで届いて、肺一杯に満たされて。
言葉を伝えられないシャーリーは、星の音色で歌を響かせる。ラン、ラン、と唇を動かすたびに鳴らして。
薄汚れた人間や魔物たちの頭に触れて、跪いてゆく彼らに星の粒子を指からこぼす。
「…………」
その姿を見て何かを言いかけたウリドラは、ほんの少し悲しそうな顔をした。だんだんと透けてゆく姿は、砂地にうずくまって膝を抱えてしまいたいくらい悲しい。
ずっと仲良くしていたから、ついさっきまで一緒に笑っていたから、ただ人と魔を仲良くさせるためだけに女神となり、消えてしまうのは可哀そうだった。もったいなかった。あんなに可愛い娘だというのに。
だけど、ラン、ラン、と優しくも悲しい音色を響かせながら、彼女はただこの地に集う者たちに祝福を分け与える。もう争わないで済むように。
この楽園で楽しく暮らせますように。
たったそれだけを願い……そして、ふうっと消えた。
剣の柄に両手を置いていたウリドラは、バイバイ、と誰にも聞こえないかすれた声でつぶやく。シャーリーから別れの声が聞こえた気がしたから。
敵も味方も、魔物も死者も。
清純な空気が漂うなか、身動きもできずにそんな景色を眺めていた。
晴れ渡る空には虹がかかり、消え去ってもなお女神の存在を感じ取れる。きっとこの光景をシャーリーは見せたかったのだろう。
同時にウリドラはこうも思う。
「いつかこの日が来るのは分かっておった。触れ合えなくなる日が来ると。じゃがシャーリーよ、女神であれば起こせる奇跡があるという。願いが強ければ強いほど」
単なる想いだったのか、希望だったのか、願いだったのか。
それはもう誰にも分からない。




