【番外編】大晦日だよエルフさん。後編
がちんと鳴らされるグラスから溢れる泡。
くつくつと煮える鍋の温かい空気。
そして卵につけた最高級霜降り和牛をひとくち食べて、んぐっと全員が身を強張らせた。
分かるんだ、ひとくちで。
噛むまでもなく溶けてゆく牛肉と、じゅわりと溢れてくる甘いとさえ感じる旨味を。
この濃縮された味わいこそが和牛の一番良いところであり、かつ世界に認められたゆえんでもある。
ぷつんと容易く切れる肉は、噛むたびにその口内で幻想世界の人々を魅了する。臭みなどかけらもない上品さと、草食の牛ならではとろとろな舌ざわり。
美味い、と思う。
ただ純粋な美味しさがいま口のなかにあり、びっくりして皆で視線を交差しあう。唇に笑みを浮かべたまま。
なにこれ美味しいとその瞳は語っており、口に出さずとも易々と意思が通じてしまうものだから唇はさらに笑みを強める。
「あー、凄い……」
ぼそりとイブがそう漏らし、青い瞳が次に向けたのはなみなみと注がれた黄金色のグラスだった。
よく冷えたそれを半ば本能的に手を伸ばし、そして厚みのある唇を吸い寄せる。ごくっごくっと喉が鳴った。
唇から垂れてもさほど気にならないのは、キンキンに冷えたビールがことのほか和牛との相性が良いからだろう。
だんっ、だだんっとグラスが一斉にテーブルで鳴る。そうしてようやく彼女たちは感想を言うことができた。
「んーーーっ! おいしぃーーっ!」
「んむぅーーっ、甘いーーっ! なめらかな味わいが実にたまらんっ!」
「わ、分かっちゃった、最高級ってこういうことなんだ。あたし分かっちゃった……! どうしよう、理解しちゃったよぉ……」
見ればシャーリーも瞳をぱっちりと見開いたまま固まっている。んぐんぐ噛んでしまうのだけは止められないらしく、どこか子供を眺めるようで微笑ましかった。
「まだまだあるからね、たくさん食べて」
追い打ちのようにそう声かけると、ぎゅんっと顔が一斉に向けられて……なんだか迫力があって怖いなぁ。
お肉だけでなく、今日はお高めの野菜を買ってある。しいたけは独特の味の濃さと歯ごたえをしているし、お豆腐の温かさにホッとして、春菊の風味に驚きつつ、追加として霜降り和牛がドサリと投じられる。
白菜はことのほか変化が激しく、しゃきしゃきの歯ごたえ、そして染み染みの両方を楽しめるのだから箸はあちこちをつついて止まらない。
そして背後に流れるコメディ番組では、本当に全力で下らないことをしているものだから、お酒も手伝ってドッと笑ってくれる。
そんなとき、肩にもたれかかってくる少女に気づいた。
「おなかがはちきれそうー……」
美味しいものというのは、どうしても身体が求めてしまうので必要以上に食べてしまうらしい。身体を支えてあげながら僕は声をかける。
「大丈夫、マリー? 苦しいなら横になったらどうかな」
「ええ、平気。恐ろしいわね、和牛というものは。きっと神様から『君は美味しくなるために生まれなさい』と命じられたに違いないわ」
ね、そうでしょう?と小首を傾げてこられても、僕は神様じゃないから分からないかな。もしかしたらシャーリーなら分かるのかもしれないけれど。
そう思い、振り返りかけたところで袖を握られた。
いつになく甘えるように肩に頭をころんと乗せてきて、すぐ目の前に長耳が揺れる。
「すごく楽しかったわ、今年は。海がすごく綺麗だったり、日本で過ごしたり、古代迷宮に挑んだり、私はたくさん初めてのことを知ったわ」
「うん、日本語もしっかり覚えちゃったからね」
「ええ、漢字だってもうほとんど平気」
ふふんと得意そうに笑うけれど、頬がほんのりと赤いので可愛らしい表情だ。
そして薄紫色の瞳は横に逸らされる。どうしたんだろうと思っていると、言いにくそうに唇を開く。
「世の中の娯楽を見ていて、ひとつ私に理解できないことがあるの。あなたもきっとピンとこないでしょうけど、頭を撫でるというだけで頬を赤く染めるという創作のことよ。分かるかしら」
ああ、そういうお話も見かけるかなぁ。
確かに僕もあまり理解できないし、そもそも頭を撫でるという発想がない。普通に生活している上で、まず「頭を撫でよう」とは思わないからね。
だけど、と少女は口を挟む。
「頑張ったのならそうして褒めてもいいと思うわ」
そう瞳を逸らしながら囁いてくる。そっと周囲をうかがうとみんなはテレビを眺めているし、あまり邪魔にはならなそうだ。
ふむ、と息を吐きながらマリアーベルに目を向けた。
「頑張ったね、マリー。エルフの里から一人で出てきて、立派な魔術師になった。僕よりもたくさん魔物を倒していると、綿毛のような可愛らしい子は気づいているのかな?」
さらりと髪を撫でながらそう囁きかける。
両手で肩にしがみつきながら、少女の瞳は揺れる。唇から「わ、わ、わ」と聞こえてくるのは、どういう感情が吹き荒れているのだろう。
先ほどよりも頬が赤くなってゆくのは、たぶんお酒のせいじゃない。わずかに耳の先端を揺らしつつ、ちらりとときおり見上げてくる瞳は、どこか潤んで見える。
「え、ええ、頑張ったわ。私はこう見えて努力がそんなに嫌いじゃないの。勉強だって好きだもの」
「ならたくさん褒めないといけないね。頑張ったらいいことが待っていないと」
ふーふーと温かい吐息が触れてくる。
絹のような手触りが心地よくて、指のあいだを抜けてゆくのをなかなか止められない。なんだか不思議な誘いかけだったけど、撫でていいと言ってくれたのだから遠慮はしないで構わないか。
ふわんと漂う女の子の香りに包まれていると、マリーの瞳がこちらを向いた。
「わ、分かったわ。分かりました!」
ぷあっと息継ぎをするように少女は身を離した。そして顔を赤くしたまま不思議なことを口にする。
「そ、そんなにおかしいことではなかったわ。撫でて赤くなることだってあるみたい。どうやらもうひとつ勉強になってしまったようね」
やや早口でそう言われて、ぱちくりまばたきをする。
なぜか不機嫌そうに唇をとがらせながら見上げてくるマリーに、ふっと僕も笑う。
「確かにそうだ。撫でられて顔が赤くなるのはおかしいことじゃないらしい」
「でしょう? あなたもきっと分かるわ。こっちに頭を乗せなさい。そのままこちょこちょしてあげる」
え、その膝に? ちょっとばかりそれは気恥ずかしいけど……と思っていたところで、じっと見つめられていることに気づく。
ほんのりと頬を赤く染めたシャーリーは、気恥ずかしそうに指をもじもじしながらも瞳を離さないのだ。
さーっと血の気が引くね、お互いに。
慌ててお野菜を補充しに行ったのは言うまでもない。
「一廣」
そう声をかけられたのは、もうだいぶ遅い時間だった。
余った食器を片付けていた僕は、振り返ると制服姿のまま怪しい瞳をするイブに気づく。
「トイレ、どこ?」
「あっちだよ。足がフラついてるけど大丈夫?」
「へーき、けっこー飲んじゃったから。あー、ちょっと悪いけど案内してー」
そういえばイブはそんなにお酒に強くないんだっけ。エルフ族とダークエルフ族はお酒の文化に慣れていないのか、それとも人によるのかはよく分からない。
並んで歩くと、どすっと肩が触れてくる。ちょうどいい支えだと思われたのか、そのままぐいーっと体重を預けられて驚かされる。
「こっちのお酒、美味しいよねー。いつもマリーと飲んでんの?」
「まあね、晩酌は楽しみのひとつだから」
「んふふー、いいなー。一廣ってさ、こっちだと頼もしくていいよ。うん、悪くない」
なにが面白いのか笑われつつ、よたよたと一緒に歩く。ぴっちりしたシャツで抱きつかれているものだから、湿度が少しだけあがった気がする。
「でさー、今年はうちもすごく変わって、ダイヤモンド隊も賑やかになったんだ。個室もあるのに、みんな同じ部屋に集まって寝たりとかさー。そういうのって楽しいよね」
「うん、いつも仲が良さそうだ。いい雰囲気だと思うよ」
ぱっぱっと会話が変わるのもイブの癖だ。最初は振り回されていた気もするけど、最近はもう慣れたかな。
ドアノブに伸びる手も危なっかしくて、代わりに僕がトイレのドアを開ける。
イブの身体の向きをくるっと変えて、トイレに誘導していると……。
「ちょっ!」
するんと当たり前のように脱いだ下着にびっくりして、慌ててドアを閉じた。ぽけっとしたまるで理解していない顔が一瞬だけ見えて、危なっかしいイブは視界から消えた。
ほう、と息を吐くよ、あんな光景。汗だってかく。
しかし災難というのは続くらしい。
リビングに戻るとウリドラがちょいちょいと手招きしてきたのだ。こっちの空いているイブの席に座れ、と。
いかん、日々の愚痴を聞かされる気がしてならない。
助けを求めようにもとっくにマリーとシャーリーは寝入っているし、僕の座布団だって二人の枕にされている。いいなぁ、僕もすやすや眠りたいなぁ。
逃げ場が消えていては観念するしかないだろう。ジャーと背後のトイレから音が聞こえてきては尚更だ。
ベッドで大の字になって眠るイブを眺めつつ、僕のグラスにはお酒が注がれてゆく。相手は伝説級の魔導竜であり、もし挑んだとしてもお手玉のようにされて終わるだろう。
テレビでは雪深い地にある神社やお寺の様子を映している。参拝客らは温かい服装をして列を作る。そんな情緒ある空気に包まれながら、ふ、ふ、と竜は機嫌良さそうに笑った。
「今年は楽しい一年じゃったな。言いたい愚痴は山のようにあるが、そればかりは嘘ではないからのう」
「にぎやかで忙しかったね。いや、割とのんびりしていたかな?」
「たわけ、呆れるくらい遊び惚けておったじゃろう」
そうだったかな。戦争にだって巻き込まれたし、いつもトラブルばかり起きていた気がするのに。
「ウリドラは? 僕らと一緒にいて嫌じゃなかった?」
「さっきのような甘ったるい空気を除けばのう」
べえっと舌を出しながら、そんなことを言われてしまった。見られていないと思っていたけど、さすがに竜に隠し事はできないか。いや、もしかしたら気を使っていてくれただけなのかな。
ちん、とグラスが合わされた。
「悪くなかったぞ、愉快な一年じゃった。腹がよじれるほど笑ったし、そんな笑い声を出せてすっきりした。んむ、なかなか忘れられぬほどにな」
いつのことを思い出しているのか、くつくつと竜は笑う。思い返してみるとウリドラはよく笑う人で、よく怒るし泣いたりもした。それは僕の知っている古代竜とはまったく異なる姿で、そんな幻想を彼女はあっさりと砕いてくる。
「じゃあ今年の一番を決めようか。ウリドラはなにが一番嬉しかった?」
たぶん最高級霜降り和牛だろう。あるいは第二階層の屋敷を作ったことかな?
そう思っている僕に、ウリドラは意味ありげな瞳をする。グラスを卓上にことりと置き、黒髪を揺らしながらその美しい顔を近づけて……耳元にそっと囁く。
「やや子を楽しみにしておるぞ」
はっ?と目を見開いた。
何かの冗談かと思っても、竜はにっこりと美しい笑みを見せている。視線をじっと合わせたままほつれた黒髪を耳にかけて、艶のある唇をそっと開く。
「さて、そろそろ起こす時間じゃ」
はい?とまたも僕が首を傾げたときに、テレビからカウントダウンが聞こえ始める。
まだ胸がドクドクしているけれど、そういえば年が変わる前に起こす約束をマリーとしていたのだった。
慌てて少女の肩を揺すったけれど、むずがるように眉間に皺を寄せたきりで「ぐう」とまた寝息を響かせる。
ぺちんと手を払われた瞬間に「ハッピーニューイヤー!」という明るい声に包まれた。大して痛くはないけど手をさすりながら僕は呆然とする。
「えぇ……?」
ぶふぉっと吹き出したのはウリドラで、腹をかかえて苦しそうにしているのはなぜなのか。さもありなん。魔導竜の爆笑と共に新年を迎えたわけだ。
もちろん出しそびれた年越しソバのことは……もはや何も語るまい。
ぐううー、という皆のいびきに包まれて新たな年が始まった。
みなさま良いお年を。
来年も楽しい一年になりますように。




