第283話 まどろみの寵愛
んー? なんだろう。肩がズシッと重いぞ。
窓の外からピチチと小鳥のさえずる鳴き声が聞こえており、カーテンをすり抜けて届く陽光は明るい。
そんなさわやかな朝だというのに、僕はというとベッドから身を起こした体勢のまま動けずに、身体の違和感を持っていた。
例えるとしたらお米の袋を肩に乗せられている感じかな。だるいとか熱っぽさは感じないんだけど、どうも変な感じがする。
そんな様子を見かねたのか、共に目覚めた少女はそっと手を伸ばすと僕の額に触れてきた。やはり熱は無いらしく、少女は手を離すと今度は怪訝な表情を浮かべる。そして僕の頭からつま先までジロジロと眺めてきた。
エルフ族である彼女にとって、このような体調の変化はどう見えるのだろう。というのもマリーは精霊魔術師であり、また精霊というのは万物に宿っているという通説がある。もしかしたら僕には分からない確認方法があるのかもしれない、などと思う。
なるほど、とひとつ少女は分かったように頷くと、おんぶをするみたいに背中に体重を預けてきた。
彼女のやわらかさが十分以上に伝わって、また女の子の香りにどきどきしていると、耳元にぽそりと囁きかけてきた。
「休んでしまいましょう?」
ぱちりとまばたきをひとつして、それから振り返ると少女の極彩色の瞳は笑みを浮かべていた。
小首を傾げながらもう一度、「ね?」と囁かれると「休もうかな」という気持ちがグンと高まるのを感じる。
いやいや、と頭を振ってから僕は口を開いた。
「うーん、月曜日に休むと印象が良くないんだよ。週末にたくさん遊んで寝坊してしまったと思われやすいから」
「あら、たくさん遊んだのは事実でしょう? それに寝坊したわけじゃないし、ただ体調が悪いだけ。あなたは有給休暇を使いたがらないみたいだけど、たまになら構わないと思うわ」
休むかどうするかは僕に任せている口調だけど、尚も首ねっこに抱きつきながら「ね?」と耳元にぽそりと囁かれた。
まつげが長くて、色素の薄い彼女からせがまれると僕の出勤意欲なんて簡単に薄れてしまう。
だけど問題が無いわけじゃない。休んだぶんの溜まった仕事は明日に回されてしまい、僕のノー残業計画に狂いが生じてしまうんだ。
そんな苦悩を感じ取っての心配か、あるいはとどめを刺したかったのか、マリーは背後からもう一度抱きついてくると、すべすべのほっぺたを押し当ててきた。
「ほら、想像してみて? もしもお休みだったら、今日はきっと素敵な一日になるわ。古い品を並べた骨董屋さんを覗いたり、だいぶ肌寒い川沿いの小道を一緒に歩いたりできるの。もちろんあなたとは特別に手をつないであげる」
おや、きっちりとどめを刺しにきたほうだったか。
尚も懸命に背中を押してくる彼女が可愛らしく、僕の頬は勝手にゆるむ。ちなみに本日の決め手は、へにゃりと長耳を落として「だめかしら?」と哀しそうな顔をされたことだ。
「先にSNSで連絡しておくよ。早めに伝えておけば寝坊とは思われないだろうし」
「やったーー!」
両手で万歳をして、きれいな笑顔を見せてくれると僕まで嬉しくなってしまうね。そのまま頭を抱えられて、偉い偉いと撫でてくるのは、まるで犬かなにかになった気分だ。ただ有給休暇にすると決めただけなのにね。
お休みとなったことで目をぱっちり覚ましたらしく、白いネグリジェ姿のマリーはいそいそとベッドから降りてゆく。伸ばされた手を掴むと、自然と僕も起き上がった。
「じゃあ今日は何をして過ごそうかしら。お部屋でゆっくりしてもいいし、一緒にお出かけをしても……あら、本当に体調が悪かったのね」
ずるーっと床に崩れていく僕を見て、そんな意外そうな声が上から降ってきた。
そうみたいだねと元気のない声で返事をしながらどうにか起き上がると、そのままテーブルの椅子に座る。
そしてマリーがスマホを運んできてくれたので、本日は体調不良によりお休みをする旨を伝えることにした。
「送信、っと。じゃあ顔を洗ってくるから、朝食の準備を進めてもらっていいかな?」
「もちろんいいわ。あなたは転ばないように気をつけて。それと鏡を見ても驚かないで頂戴」
いやほんと足がフラついているし、うっかり転びかねないぞ……って、ん? 鏡ってなんだ? もしかして顔に落書きでもされているのかな?
そういえば前にも似たような症状になった記憶があるけれど、あれはなんだったっけ?
11月の半ばになると朝はだいぶ肌寒い。部屋の空気には冬の気配が訪れており、戸を開けた先の洗面所も薄暗かった。
蛇口をひねると冷たい水が流れてきて、そろそろお湯にしたいなと思うようになってきた。
さっさと目を覚ましたいのでそのまま顔を洗い、手元のタオルでごしりと拭く。そして鏡に映るものを見て僕はゆっくりと目を見開いていった。
肩を掴んだ半透明の指は小さくて、視線をだんだん上に向けていくと大きなあくびをする女性が宙を漂っていた。
重力の影響を一切受けていないように長い髪を空中に漂わせており、そしてまだ眠いらしくて肩に頭を乗せると息をひとつ吐き、瞳をだんだん閉じていく。
中世的な衣装も身体も無重力らしく、しっかと肩を握ったまま青空色の瞳は線になるまで閉じられた。
器用にも宙で眠ることに慣れているのか心地よさそうであり、身体を丸めながら衣服や髪とともに浮かぶ。揃えられた脚と、そこにかけられていたローブもふわりと浮いてゆき、真っ白な太ももの肌を露出させていく様子に……慌てて視線を逸らす。
それから洗面台をがしっとつかんで僕はうなだれた。
ああー、これだ。
身体が重かった原因はこれだった。
疲れていたわけじゃない、憑かれていたんだ。
すやすやという寝息が首に触れてきそうだけど、これはちゃんとした幽霊であって呼吸をしているわけでは……いや、ちゃんとしたってなんだ? ちゃんとしてないのもあるのか?
などと混乱の波はなかなか収まらない。その様子に気づいたのかシャーリーは瞳を開いて、ぽーっとした視線を僕に向けていた。頬を肩に押し当てており、いまにも眠りについてしまいそうな瞳で。
シャーリー、と小さく呟くと、彼女はやっと鏡の存在に気づいたのかそっと瞳を正面に向けてくる。やがて視線が合わさると、音が聞こえてきそうなほどの大きなまばたきを数回ほどした。
遅れてビクッと幽霊みたいな子が肩を震わせていたけれど、普通はこちらが震えるものじゃないかなと僕は思う。
それと、スススーと肩の向こうに隠れていくみたいだけど、もうとっくに見つかっているからね? ちらっと見つめてきてもダメだよ?
そう声も出せずに驚いていると、ひょいと戸口から覗いてくる子がいた。その子は腰までの長い髪を揺らしており、やっといま幽霊がいたことに気づいたような表情を浮かべた。
「まあ、シャーリーもついてきたのね。まさか一廣さんがお休みを連絡したあとに、身体が重い理由に気づいてしまうなんてー」
「う、うん、その棒読みはなにかな?」
タオルを手にしたまま振り返ると、二人の少女は瞳をそっと反らしていた。悪戯がバレてしまった表情であり、心境的にはそれと近しいのだろう。そろそろと戸口の外に消えていってしまうエルフさんを見て、最初から見抜かれていたのだとようやく気づいた。
残されたのは肩を握ったまま「ごめんなさい」と眉をハの字にさせるシャーリーであり、またお台所で朝食を作り始めたらしい調理の音だ。
今さら休みを取り消すのも、憑かれたまま会社に行くのも難しい。ふむと僕は頷いてから残っていた水気をタオルで拭いた。
「おはよう、シャーリー」
そう声をかけてみると、おずおずと「おはようございます」と言う風に唇を動かしてくる。
身体の重さを謝っているらしいけど、原因が分かれば困ることは何もない。タオルを放ると鏡越しの彼女に向かって内緒話をするように小声で話しかけた。
「これからエルフ族の子と、幽霊のお客様をどうやって持てなすかを決める大事な相談をするんだ。もし良かったらだけど、その秘密会議に参加してくれないかな?」
彼女の耳元に手を置いて、そんな相談をすると青空色の瞳は見開かれる。それからこくこくと何度も頷いてきて、嬉しいのか宙で泳ぐように足を揺らす。
「じゃあ決まりだ。マリーの作る朝食は美味しいからそっちも期待してくれると……あれ、どうしたの?」
戸口に足を向けかけると、彼女はなにかを訴えかけてくる。それは僕の手に指をさすという動きであり、どんな意味があるのかはまったく分からない。
怪訝に思いながらも手を近づけてみると、シャーリーは肩から指を離して本格的に宙を漂う。すると途端に身体の重さは消え去って、本来の体調に戻るのを感じた。
「あ、離れると軽くなるんだっけ。それで僕の手をどうするの?」
空中に漂う彼女は、なぜか大きく息を吸い込む。肺一杯に空気を満たすと、それから小指に唇を当てて、コオオという音を洗面所に響かせた。
黄金色の鱗粉が舞う様子に目を見開く。それは酸素を送り込まれた炭火のようであり、小指には黄金色の文字が照らし出されていく。
これは古代語? いや、それよりも象形文字のように形がずっと古い。
火、土、風、というところまではかろうじて読めたが、その先は複雑すぎて判別できない。ぞわりと背筋が震えたのは「死」という単語も新たに生まれたことだ。日本のマンションだというのに、ここが古代迷宮であるように僕は感じた。
エルフ族、魔導竜、ダークエルフ族、そして元古代迷宮主シャーリーという女性たちは、夢と現実の境目をやすやすと飛び越え、そして僕に新たな世界を見せてくれる。
そして半ば理解を超えているにも関わらず、ファンタジー世界を愛する僕は胸がどきどきして仕方ない。ちりりと焼けていく美しい光景から目を離すことができない。
やがて宙を舞う鱗粉が量を減らしてゆくと、小指に刻まれたものの形をはっきりとさせた。それは対となる鎌を模しており、細かな文字をびっしりと刻むものだった。
痛くもないし熱くもない。試しに触れてみるといつも通りの感触があり、観察する間もなく端からスッと消えてゆく。
「いまのは……これにどういう意味があるのかな?」
いまだ彼女の息吹を感じる手をさすりながら尋ねると、どう説明をしたらいいのか悩んでいる風だった。論より証拠と言うように肩に手を伸ばして掴んでくると「気づきませんか?」と小首を傾げてきた。
「あれ、いつの間にか身体が軽い? うん? それだけ?」
こくこくと頷かれて、冗談だよねと逆にびっくりした。これだけ幻想的な演出をしてくれたのに、憑りつかれても平気になるだけだったなんて。
「そっか、てっきりものすごく強い力を授けられたのかと思ったよ」
そっちにしましょうかと言うようにシャーリーがまた大きく息を吸う様子に、心からぎょっとした。それから「いやいやいや」と大きく首を横に振る。
あー、びっくりした。冗談か本気か分からなかったけど、この日本でチートを植えつけても仕方ないだろうに。
身体が軽くなる程度の力なら別に構わないか。
そう思いながら今度こそ戸口をくぐると、ウィンナーの焼ける美味しそうな香りが部屋に満ちていた。
くるんと顔を向けてくるエプロン姿の少女に手を振って、僕もお皿を出し準備を手伝うことにした。
では、美味しい朝食を食べながら本日のお出かけ先を決めるとしましょうか。
余談だが、数日後になってから気づいたことがある。
それはステータス画面に加えられた「ギフト」なる別項目であり、また誰も意味を知らないため、しばし古代の文献を僕は漁り続けた。
【まどろみの寵愛LV1】
そのような不可思議で用途の分からない技能が書き加えられたのだが、答えを示す文献はなにひとつとして存在しなかった。




