【番外編】エルフさん、柴犬と出会う③
あのマンションの敷地は、あまり歩いたことがない。
そうと分かる表情をした犬は、大きな鼻でクンクンと匂いを嗅ぐ。
あちこち雑草の生えた歩道で、よっつの脚を伸ばして犬は立つ。そして建物の入口から出てきた人影に、今度は尻尾をまっすぐ空に立ててみせた。
「花ちゃん!」
その呼んできた声はまだうら若き女性のものであり、真っ白の長い髪がふわりと風に舞う。
飼い主は気を利かせたのだろうか。
自然と手綱を手放して、犬は真っ直ぐ駆けてゆくのを見守っていた。その矢のような勢いの柴犬を見て、少女は慌てて急ブレーキをかける。
「わっ、はやっ、ちょっと花ちゃん!」
オンっ、と返事をするように犬は吠え、そしてたどり着くやクンクンクンとすごい勢いでスカートの匂いを嗅ぎながら、少女の周りをじゃれついた。慌てる少女はその場で何度か跳ねて、つられて花ちゃんは尻尾を振り、柴犬らしい笑顔みたいな顔をする。
そんな光景を見たら、僕は犬の飼い主と一緒に「ふふ」と笑ってしまうよ。
「うーん、これなら心配いらなそうですかね」
そう隣に話しかけると、ご主人は白髪を撫でながら振り返る。彼の顔つきは「やや心配」という感じだった。
「やっぱり泊りがけの旅行なんて組むもんじゃないな。うちの花がまたあの子にヤンチャしないかと心配でたまらないよ」
少女を噛んだことに気を揉んでいるらしく、僕は柄にもなく彼の肩をポンと触れながら話しかけた。
「旅行を楽しんできてください。僕らも楽しく過ごすと思います」
「……うん、ありがとう。妻と久しぶりの旅行だ。なに、あの女の子が本当の主人になってしまう前に戻ってくるよ」
年配の彼につられて視線を戻すと、エルフさんは屈んで花ちゃんを迎えようとしていた。もちろんそれは犬にとって格好の姿勢だ。何しろ大好きな女の子を好きなだけ舐めまわせるのだから。
べろっ、と大きな舌で舐められた彼女は「どわっ!」という、美少女らしからぬ慌てた声と共に尻餅をついていた。
「あー、こりゃあもう手遅れかもしれんなぁ」
その悲しそうな声に、僕はつい声を出して笑ってしまった。
そしてご近所のおじさんは、そんな花ちゃんに手を振って旅立って行った。
たくさんの荷物を抱えて部屋に戻ると、フローリングが外からの日差しに照らされていた。
先導するマリーにつられて犬もあがりかけ、見知らぬ場所だと気づいて脚を止める。花ちゃんはマリーと僕の顔を交互に眺めて、はふはふと興奮ぎみな呼吸をした。
ご主人から預けられたものはドッグフード、餌台、散歩用のリードなどなど普段愛用しているものらしい。
そしてこっそりと手渡された紙幣は、何か必要なものがあったり、もしも手に余ったら近くの店に預けて欲しいという意味のお金だ。もしかしたら僕と同じくらい心配性の人なのかもしれない。
「待っていて、すぐに脚を拭いてあげる。そのままいい子に大人しくして頂戴」
トレーナーと短パン姿のマリーは、雑巾を片手に戻ってくる。太ももまでの素足は眩しいくらいで、しゃがみこむと前脚を手に取った。
肉球の内側まで拭かれるのは気持ち良いのかくすぐったいのか。柴犬はハフハフと呼吸をし、大きな鼻を舐めてから僕を見上げてきた。
どちらが偉い人なんだろう。彼女の瞳はそんな疑問を浮かべており、途中で「はい反対側」と言われたときだけ彼女を見る。
と、彼女の薄紫色の瞳もこちらを向いて、なにやら2人から注目を受けることになった。
「本で読んだけれど、犬は誰が一番偉いのかを探るそうよ。花ちゃん、この人はカズヒホという変わった名前の人で、いつも寝てばかりのサラリーマンなんですよー」
あ、さりげなく僕のポイントを下げてきた。
そうなの? と言うように花ちゃんの大きな瞳はマリーを眺め、気を良くした彼女は「本当ですよー」と言いながら顎の下を掻いてあげる。
それからすっくと彼女は立ち上がった。
「どちらが主人なのかは花ちゃんに決めてもらいましょう。一番面倒なのは、ここの群にはリーダーがいないと思われることなんですって」
「へえ、もしもそう思われたらどうなるのかな」
「そういう映像をテレビで見たことないかしら。一番気持ちよく過ごせるソファーで、どーんと威厳たっぷりにくつろいでいる犬の姿を」
ははあ、そうなるのか。リーダーがいないのなら私が群れを守る、などと思われてしまうらしい。確かにそれは面倒になりそうだ。
おいでと呼ばれた花ちゃんは、フローリングに一歩だけ脚を乗せ、再び少女を見つめる。もう一度「良し」と言われてようやく僕らのマンションを歩き出した。
感心するのは相手の声を聞こうとする柴犬と、ちゃんと命令をしているマリーの姿だ。
「しっかり犬について勉強していたみたいだね。これなら安心して見ていられるかな」
「私は予習と復習を欠かさないの。どんなものでも大事よ。古代迷宮だってそう。いきなり実戦を迎える方が、私にとってはずっと怖いわ」
なるほど確かに。いくら頭が良いとはいえ、魔術というのは発動までに長い時間がかかる。前もって戦術を定めておかなければあれほどうまく立ち回れないだろう。
しかしこの場合は、予習……というよりも予想できなかったんだろうね。陽当たりの最も良いベッドに、ででんと寝そべる黒猫を見て、花ちゃんはぴたっと脚を止める。
「あ、もしかして」
「嘘でしょう、寝そべっているだけのウリドラが主人になるなんて冗談じゃないわ」
てててと柴犬が近づいても黒猫は動じない。金色の瞳でちらりと眺めて「新入りね?」とでも言いたげだ。
ご挨拶するように大きな鼻を近づけて、すんすん嗅がれても動じない。
「ああ、そういえばウリドラは竜の子まで育てているんだ。柴犬なんて相手じゃないだろうな」
「えぇー、あんなにぐうたら寝ているだけなのに!」
失礼ね、とお腹を嗅がれたまま黒猫は振り向く。そしてどうやら僕らの嫌な予感は的中してしまったらしい。日向ぼっこして寝そべる姿を、よく目にするようになったのだ。
腰を下ろして、少しだけおしっこをしてくれた様子に、僕らはほっと胸を撫で下ろした。
「ああ、良かったわ。すぐにトイレの場所を覚えてくれて。おじさんのところでは外飼いだったはずだから、少し心配していたの」
「思っていたより頭が良いね。こちらの言うことをいつも探っているみたいだし」
ぺたんと座った花ちゃんは、つぶらな瞳で見上げてくる。その絶えず命令を待つような姿勢は、少しだけ少女を驚かせる。
「わ、すごいわ。まさか忠誠心を感じさせる動物がいるだなんて」
「縄文時代から一緒に過ごしている犬だからね。まだ身体は小さいけど流れている血は本物だ」
昨今では狩猟犬としての役割は薄れていても、本質は何ら変わらない。そうと分かる表情を眺めて、少女は立ち上がる。
「とりあえず私たちも普段通りに過ごしましょ。その方が花ちゃんも落ち着いてくれるでしょうし」
「そうしようか。じゃあ本の続きでも読むとしよう」
普段通りと言うことで、僕はお茶の準備を、そしてマリーは枕元に置いてある本棚から一冊を選ぶ。冒険心に富んだものか、あるいは恋い焦がれるラブロマンスか。少女が手に取ったものは、現代の女の子が不可思議な力で活躍をするお話だった。
「この人、時を超える力があるんですって。もしもそんな技能を手に入れたら最強ね」
「ああ、無かったことにされたら、いくら僕でも歯が立たない。最強のマリアーベルが誕生するのを見守るとしよう」
くつくつと少女は笑い、隣に座った僕に「馬鹿ね」と囁いてくる。
外は明るく、春にしては暖かい。少しだけ窓を開けるとカーテンはゆらゆらと揺れて、眠気の漂う休日の午後は始まった。
その間、一挙手一投足をずっと眺めていた柴犬はようやくダレてくる。しばらく命令を受けないだろうと悟ったらしい。フローリングにぺたんと寝そべるのを見て、くすりと少女は笑った。
さて、僕らの過ごす時間は驚くほどゆったりだ。
本を読み、ときどき茶器が音を立てる。そして驚くような展開があれば報告をし合う。
まるで図書館で過ごすように穏やかで、それでいて物語に没頭をしているので知性だけは冴えている。
くあ、と欠伸をひとつしかけてマリーは飲み込む。その様子を怪訝に思う僕だけど「見て! 見て!」と下を指差す様子にさらに怪訝な顔を返す。
示されるままテーブルの下を覗き込むと、スリッパを枕にする花ちゃんがいた。
んぐんぐと噛むような素振りを見せて、目を真っ直ぐの線にさせている。たまらず少女は身悶えて、声にならない悲鳴をあげた。
(ふあっ! きゃわわっ! にゃーーん!)
決して起こさないようにしているのだろう。へにゃりと長耳を垂らし、ぶるっと両肩を震わせる様子は僕にとって堪らない。
おいでおいでと手招きをされて顔を近づけると「可愛いわねぇ、なんという寝顔なのかしら」と興奮冷めやらぬ様子で報告をしてくれる。
うーん、腰がムズムズするくらい可愛らしいエルフさんだ。にんまりと頬が緩んでしまうのを僕は感じた。
そして僕は静かに立ち上がる。ベッドのそばにあったクッションを掴み、ぽいぽいとフローリングに放る。あっという間に陽当たりの良い読書の場所が出来上がり、それからマリーを手招きした。
その顔は「起こしてしまうわ」と言いたげだけど、構わずに手招きをし続ける。
確かに起こしてしまうけど、人も動物も実は一番心地好さそうな場所に弱いんだ。
花ちゃんと離れてしまい渋々という表情で、ぽすんとマリーはクッションに沈む。やはりと言うべきか、眠たげで重い身体をのそのそと揺すって花ちゃんは歩み寄ってきた。
良いかしら?
そう言うように子犬は小首を傾げ、少女はにっこりと微笑みを返す。ただそれだけで通じたのか、真っ白な太ももに頭を乗せて、すうーと花ちゃんは寝息をたてた。
ふあああーー!
そんな悲鳴混じりの顔で見上げられたら僕だって堪らないです。くいくいと何度も袖を引いてきて、今すぐに耳打ちをしたいらしい表情こそ僕にとっての弱点だ。くすぐったくも「可愛い!」と報告してもらえて、もしも僕に長耳が付いていたらヘニャリと垂れていたに違いない。
どうやらこのときから窓辺のフローリングは、読書における特等席に変わったらしい。ほくほくとした満足そうな少女の顔を見て、そのように僕は思う。
別作の「気ままに東京サバイブ」の予約が開始され、またコミカライズが決まりました。
こちらもどうぞよろしくお願いいたします。




