第30話 エルフさんからつねられる
ちゅんちゅんとスズメの鳴く、いつも通りの爽やかな朝――には今日ばかりはならなかった。
一緒に目覚めたマリーはこちらをじいっと見上げている。カーテン越しの陽光に少女の髪は美しく輝き、色づいた唇は柔らかそうだ。
しかし薄紫色の瞳は冷たいものであり、エルフの美しさに見とれることは許されない。
「……あんな約束をして。いったいどうするつもりなのかしら?」
「ごめん、ついうっかり口が滑ってしまったよ。まさか竜を日本へ招待することになるなんて」
少女の白い指に頬をきゅっとつねられて、驚いていると反対側もつねられてしまう。むすっとした顔を近づけられると、怒られているはずなのに胸は大きく跳ねた。
「あなたは向こうの世界では少し軽率だと思うの。私がしっかりしつけてあげないといけないみたいね」
エルフはそう言い、逃さないよう僕の太ももの上へまたがってくる。寝起きの体温に包まれる気持ちよさを覚えるが、ぐいぐいと頬を上下につねられるとだいぶ困る。
ああ、その、困るというか……なんだろう、嬉しくて困る。
「なぜ笑ってるのかしらー? どうやら私を怒らせるとどうなるか知らないようね。これでも私は魔術師ギルドの新入生をしつけていたのよ。裏では氷の妖精と呼ばれていたほどなの」
氷の、妖精……?
おかしいな、僕の感覚だとグルメ妖精なのだけれど……なんて言ったら大変な目に合いそうなので黙っておく。
「ごめんよ、マリー。これからは何かあったら先に相談をするから」
「当たり前です。長く付き合うのだから隠し事や勝手な行動は許しません。分かりましたか?」
頬をつねられているので「ふぁい」という返事になってしまったけれど、どうやら氷の妖精は許してくれたらしい。ふすんと可愛らしく鼻を鳴らし、それからゆっくりと開放される。
ベッドから立ち上がると二人して伸びをし、寝起きの満足げなあくびをすることが出来た。
さて、壁を見上げれば時刻はきっかり7時。
キッチンへと歩き、いつものように朝の食事を始めることにする。少し驚いたのはエルフの少女も手伝ってくれることだろうか。
お皿を並べ、代わりにパンや紅茶の準備をしてくれている。ならば僕はマリーの昼食を準備しようか。
1DKの間取りなので、それほどキッチンは広くない。
振り向けばすぐそこが小さな玄関であり、境目には観葉植物の鉢を置いてある。おかげで何度かお尻をぶつけ合いながら朝の準備は進められてゆく。
冷蔵庫を開けながら、マリーの妖精じみた瞳から見上げられた。
「それで、魔導竜だけど育児ノイローゼと言ったかしら。日本ではそういうとき何をするものなの?」
「うーん、大体は遊びに行くものだと思う。お買い物とか小旅行とかね。ただ日本に来てすぐ買い物を楽しめるとは思えないな」
マリーとだってまだ本格的な買い物に行ったことはない。
慣れるまでの時間が必要だし、勝手が分かってからのほうが楽しめると思うからね。本当なら家具や洋服などを一緒に選びたいところもあるのだ。
「ふうん……なら小旅行が良いのかしら。それだってお金がかかるでしょう? あなたの経済状態をよくは知らないけれど、聞いている限りそこまで余裕があるわけでは無いと思えるわ」
「まあ普通、と答えておくよ。お金がかからない小旅行か……僕にとっては未知の領域だ」
旅行という行為自体、僕はほとんどしないからね。
まあそういった事情もあるので、日本に招くまでの猶予をいただいている。どちらにしろ平日に招いても歓迎をするどころじゃないと思う。
「こういうのはネットで調べても難しいだろうし、誰かの評判を聞きたいところだなぁ」
旅行情報というのはネットに溢れていて、どこも良さそうに見える宣伝をしているものだ。そのぶんユーザーとしては「結局どこが良いのか分からない」という事態になる。要は非常に見比べづらいジャンルなのだ。
などと考えながらも手早く調理を進めてゆく。
フライパンで焼いていた玉ねぎ、ひき肉を別皿に移し、次にバターを溶かしてから小麦粉をドサドサと放る。あとは少しずつ牛乳を注ぎ、混ぜ、注ぎ……と繰り返してゆくとホワイトソースに近づいてゆく。
若干の手間はあるけれど、わざわざソースを買うほどじゃないと思うんだけどなぁ。
そうして煮詰まったソースへと先ほどの具材、そしてマカロニを混ぜるとほぼ準備は終わる。
あとは耐熱皿に入れ、チーズを乗せればおしまいだ。
「マリー、これをお昼にまたオーブンで温めてね。普通のグラタンだけど焼きたては美味しいと思うから」
「あら、オーブン料理ね。このあいだのは凄く美味しくて……ふふっ、恥ずかしいけれど一人で『おいしいっ!』って言ってしまったのよ」
おや、それは嬉しい。やっぱり誰かに食べてもらえると作りがいがあるなと思えるよ。特にマリーは味への反応が分かりやすくて、見てるだけでも味わった気にさせられる。
「そうだ、魔導竜が来たときの食事も考えないと。たぶんたくさん食べると思うから」
量があっても美味しくて楽しめるものか。
一番楽なのはカレーだろうけれど……このあいだ食べたばかりだし、初来日なので日本食を楽しませるべきか。ぴんと思い浮かぶものがあったので、この件について悩むことは無くなる。
あとはやはり小旅行をどこにするか、だな。
おっと、一番の問題が残っていたぞ。魔導竜は美しい外見をしているが、あの角や尻尾があれば外をウロつけないだろう。
本人は「ふうむ、それくらい問題ない」と言っていたが、いったいどうするのだろう。
「まあ、もし無理なら旅行もキャンセルだね。とりあえずマリーは気にせず勉強をしていて問題無いよ」
「分かったわ。それじゃあ仕事もあるし食事にしましょう」
かたりとテーブルに食事を並べ、僕らは「いただきます」と声を揃えてから朝食をいただくことにした。
そうそう昼食のときだけど、彼女はオーブンの前でウロウロと歩き続け、チーズの焼ける香ばしい匂いから離れられなかったそうだ。
熱々のグラタンへ息を吹きかけ、それから口へと放り込む。フォークを握り締めたまま「~~~~っ♡」と声にならない悲鳴を上げ、力尽きるようぐったりと椅子へもたれかかる。
最後には「おいしぃ……」とつぶやく声が部屋に響いたらしい。
満員電車に揺られながら、僕は珍しくスマホを操作している。
このあいだ食事会をしたご夫妻であれば、たぶん旅行にも詳しいだろうと思ったのだ。
SNSへ用件を入れ、そして送信をする。なんだかメールみたいな使い方だけど、僕はまったく慣れていないからね。
――おっと、さっそく返事が。
そういえば以前もこの時間に彼女から連絡があったな。平日の2日が休日らしいので、ひょっとしたら今日は休みなのかもしれない。
ぽちりと画面を叩くと一条さんからの返信が画面に広がった。
「あら、小旅行ですか。良いですね!」
「はい、友人が訪ねてくるそうですから、せっかくなら温泉を案内したいんです。ですが2人は日本の文化に慣れていないものですから、出来れば貸切などが望ましいのですが……」
「すぐに予約できる所というと、かなり少ないですね。日帰りでしたら……ああ、以前に行ったところで良いところがありました。ええと、こちらです」
おや、今の時代は旅行先までSNSに表示できるのか。なかなか便利な時代になったものだ……って、僕の場合は単に触っていなかっただけか。
ふうん、秩父のほうか。当たり前だけど行ったことも無いな。
埼玉周辺のぼんやりとした地図を思い浮かべ、車もあるしちょうど良いかもしれない、などと思う。
彼女にお礼を言い、さっそくその日のお昼に予約を取ることにした。




