第271話 半妖精エルフ族との出会い⑨
復讐者なる異名を持つ魔物がいるらしい。
それは己を傷つけた者を決して許さず、山を越えたとしても決して逃げきれないほどの強い殺戮本能を持つのだとか。
いま、そいつが目の前にいる。
熊よりもずっと上半身がたくましく、真っ黒い剛毛で身を包み、目玉は血を垂らしたように赤い。
ゴオオと吠えた口には乱杭歯が覗いていて、溢れる殺気によって吐息は白く染まる。
片方の目玉には、数日前に投げつけた僕の短剣がまだ突き刺さったままだった。もう片方の目玉は爛々と炎を灯してゆき、そいつは僕をみてはっきりと笑った。
それは本当に、まるっきり噂で聞いていた通りの姿であり、僕は「噂というのもアテになるのだな」と悠長に思う。
「……さて、どうしたものかな。これほどの大物、推定レベル24もの魔物を相手にしたことは無いんだぞ」
なぜならば僕に勝てるわけが無いからだ。
保持している技能は愚直きりという半端者で、しかもその効果は「決めた行動を取れる」という程度のものだ。たった3つほどの攻撃パターンを定められたところで、勝てる見込みなどありはしない。
ず、ず、と杭に似た腕が持ち上がってゆく。
地面には大きな穴が穿たれており、もしかして――いや、もしかしなくても同じことが僕の身にも起きるだろう。
冷汗を垂らし、ひとつ目の領域に今の振り下ろし攻撃を記録させながら一歩だけ下がる。だけど僕と魔物、双方の攻撃が届く距離からは退かない。
すぐ背後には真っ白い髪をしたマリアーベルがおり、驚きのあまり声もだせない様子だったからだ。
「……マリアーベル、シャルシャさんを探すんだ。君の母親、シャルシャさんが近くにいる」
僕にエルフ語は分からない。だけど名前であれば伝わる。
グルルと唸る魔物を刺激しないくらい静かに、そして彼女が聞き逃さないくらいゆっくりと話しかける。
その間も魔物は徐々に殺気と体温を上げつつあった。
これまで長い旅をしてきた。
身ぐるみをはがされたことは一度や二度じゃないし、数え切れないほど魔物から殺されてきた。ファンタジックな夢を楽しもうとする僕をあざ笑うように奴らは獰猛だ。
だからこそなのかもしれない。ある種の勘が、僕にこう囁いてくる。
こいつが動き出したらもう止められない。僕が肉塊になるまで暴れ、その後も嵐のようにエルフの里で猛威を振るうだろう、と。
じり、と身を起こすマリアーベルの様子に、魔物は目玉をより赤くさせる。逃げようとする獲物こそ、奴にとってのごちそうだからだ。
筋肉がゆっくりと膨れてゆき、ざわざわと体毛が伸びてゆくそれに短刀を向けて、僕は騎士の構えに近しい半身となる。
僕は落ち着いている。
呼吸も静かだ。
でもマリアーベルが駆けだしたら、もう奴は動き出す。
そら、来るぞ。戦いのときだ。生きるか死ぬか分からない、血を流しても止まらない戦いが始まる。
ダッと彼女が駆けると同時に、僕は口を開く。
「瞬殺にならないことを願うよ」
いや、これは僕の身を案じての本心なのだが、魔物にとっては侮辱にあたったのかもしれない。
乱杭歯をガチンと閉じて突き出された腕は、瞬きをする間もなく脇を抜けてゆく。わずかに飛んでかわせたのは偶然に近しく、これまでの経験がたまたま働いたに過ぎない。
分かってはいたが、それにしても速い。
ふりかざした逆側の腕がドズンと地面を撃ち抜いて、衝撃で地中の根が弾け飛ぶ。
真横から半円を描いて迫るそれは射程外のはずだったが、段階的に杭はガチガチと伸びて髪の毛を引き抜いてゆく。地面へうつ伏せになってかわしたが、それこそ奴にとっての良い的であり、直後、開かれた口から数本の杭が飛んできて度肝を抜かれる。
「うっわ! あぶなっ! 本当に瞬殺されるところだった!」
転げてかわしながら文句を言うが、それを聞くような相手なんかじゃない。体勢を整える間もなく、腕を広げながらのタックルが迫る。それには戦車じみた迫力があり、きっとここでなければ本当にやられていただろう。
一歩退くだけで大樹の影に入ることができ、ドドンという衝撃波が反対側に抜けていった。
いくら怖がったって事態は良くならないし、そもそもマリアーベルはとっくに逃げている。
だから僕は気軽な歩調で、それこそ歌でも口ずさむくらいの気軽さで奴の視界外、木の反対側からぐるっと回り込む。
大樹を使うことで、小柄な身を活かして忍び寄る……などと思ったが、そこには何もいなかった。
あれえ、と目をゴシゴシしそうになるが、確かにそこには何もいない。夢でも見ていたのだろうかと思ったとき、僕の目線と同じ高さの場所に杭が突き立てられているのに気づく。
その先には腕があり、大樹の反対側へ伸びており……何故かものすごく嫌な予感がして、僕は地面にしゃがみこむ。
――ぐしゃあっ!
瞬間、杭を中心とした時計回りで迫ったそいつの膝が、大樹を完全に破壊した。
「おおおーーっ!?」
びっくりしたなんてものじゃない。木を掴んで真横への飛び膝をするだとか冗談でしょ。こいつ格闘技まで出来るのか!
などと内心で文句を言いながら、ゴロゴロと僕は転げ出る。
起き上がりに、すぐさま剣を構えられたのは褒めてもらいたいくらいだ。でもそれを帳消しにするくらい、魔物は呼吸が聞こえるほど近くまで寄って来ている。
つっっよい!
でかい図体に惑わされるが、こいつは恐ろしく速いし強い。
愚直に覚えさせていた領域のおかげで振り下ろしの杭をかわせたが、懐の中に入りこみながら僕は内心で悲鳴をあげる。
熱いと思える体温と、生臭い奴の呼吸。
それは久方ぶりに恐怖心を覚えるものであり、もしかしたら今夜は一人でトイレに行けないかもしれない。悪夢を見るにもほどがある。
ゆっくりと傾げてゆく大木は、やがて大きく地面を打つだろう。
枝葉同士がこすれ合い、悲鳴のような音を響かせる。メキメキと幹はささくれ立ってゆき、めしゃあと嫌な音をさせてからついに天寿を全うした。
むあっとする濃い樹液の香りに包まれていると、頭上から何かが落ちてくる。
とん、と奴の肩に当たったそれは、最初はただの枝だと思った。しかしそこには腕があり、ドレスから覗く眩しいほどの太ももがあり、たいまつの炎と良く似た瞳があった。
「クィッデ・エイックァス・イーデ(死ね、この下種野郎)」
「シャルシャさんっ!」
剣を根元まで沈め、唇をゆがめて彼女は何かを耳元に囁きかけた。
しかし魔物は痛みをまったく感じない素振りで、バンと力任せに肩を叩く。そこには柄の曲がった剣しか残されておらず、瞬時に奴は矢のような蹴りを虚空に放つ。
爪先を伸ばした蹴りには樹をへし折るほどの迫力があり、しかし黒いドレスをはためかせてシャルシャさんは足首に双剣を突き刺す。
ジュッという音は魔物の流した血の音であり、衝撃を殺し切れなかった彼女もまた数秒後、すたんと猫のような着地を遠く離れた大樹で済ませた。
ついに来た、増援だ。しかもこれ以上頼りになる人はいない。
彼女にはマリアーベルを守るための強い母性がある。魔物と負けず劣らずの殺気を放ち、長い黒髪をたなびかせて地上に降り立つ。
森は陽光をさえぎっており、たいまつのように彼女の瞳と耳飾りが瞬く。
さて、息もつかせぬ攻防はまだ終わっていないぞ。
ざわりとのたうつ黒毛は復讐者の本能を刺激したと分かるものであり、奴は前傾の姿勢で駆けてゆく。
どろろっ、どろろっ、という駆ける音はもはや獣に近しく、また戦車のような迫力がある。
ひょっとしたら相手によって戦術を切り替えているのだろうか。右腕の杭が幾本もの細かなものに変わってゆく様子にゾッとしつつ、僕もまた駆けだす。
自然と僕と彼女で魔物を挟むような形となったが、これはこれでピンと来るものがある。
「見たところ君と彼女のレベル差は少ない。ならこの場合、鍵を握っているのは僕じゃないかなぁ」
小学生の身でありながら戦術を考えているのは、我ながらどうなのだろうと確かに思う。だけどこの世界ではとても重要なんだ。
例えば奴が駆けてゆく踵を切りつけたらどうだろう。剛毛で守られているせいで痒いくらいだろうけど、走るたびにビッビッと連続で斬られ続けたらどう思う?
もちろん普通の人にそんな芸当はできないけど、僕には愚直がある。
ふたつ目の領域にはこれを入れた。丹念に丁寧に、そして確実に傷を重ねさせるために。こんなの目をつぶっていても当てられる。
すると、たかだか50メートル足らずの距離にも関わらず、みるみる奴の足は血で染まってゆく。
この邪魔なクソ野郎!と吠えるように振り向いてくれるのはすぐだった。
僕にもちょっとだけ分かったことがある。
それは、この役立たずだと思われていた愚直は、実は凄いんじゃないかってことだ。
ほんの一歩だけ移動をすると、ちょうど奴の攻撃しやすい位置になる。真上から振り下ろしてくる必殺の杭だ。
でもそれは愚直に学ばせているものであり、駆け寄りつつあるシャルシャさんに目配せするような余裕もできる。
「へえ、こうやって誘導をすれば良かったのか」
なるほどね、と思いながらドズンと突き刺さる杭をぎりぎりでかわす。
先ほどと同じように生臭い呼吸が届くけれど、ここは絶好の反撃ポイントだ。短刀みたいな短いリーチであろうとも、腕に斬りつけることはできる。
剛毛によって硬質な感触しか伝わらなかったけど、この攻撃も愚直に学ばせたらどうなるだろう。かわすと同時に斬れるのではないだろうか。
試行錯誤を繰り返し、ちょっとずつ飛距離を伸ばしてゆく紙飛行機のように、ちょっとだけわくわくしながら最後の領域を埋めてゆく。
今はここまでが精いっぱいだ。嫌がらせと小さな傷を与えることしかできない。
でも、この領域数を増やしたらどうなるのか。対処法をひとつずつ埋めていけば、小さな身体であろうとも渡り合えるのではないか。
そう思いながら、にこりという少年らしい笑みを向けた。
「それと、僕にばかり構っていて平気なのかな?」
返事は「ゴオオッ!」という唸り声だった。背後から斬りつけられたと分かる衝撃が巨体を震わせており、恐らくは反対側でシャルシャさんが猛烈に斬りつけているのだろう。
ぐるんと奴の首はそちらを向き、頬が引き裂けそうなほど口を開く。そして放たれたのは先ほども見た幾本もの牙であり、まるで散弾銃のようにドン、ドン、ドン、と連続的に空気を震わせる。
巨体の反対側の出来事であり、彼女が無事にかわせたのかは分からない。
だけど魔物は身体の向きを変えると猛烈な速さで駆けだす。それを見て、僕は心の底からホッとした。
安堵した理由のひとつはシャルシャさんが無事であり、逃げられたこと。
そしてもうひとつは、先ほどと同じように血だらけのアキレス腱があり、まるで彼女から「さあ斬って」と誘導されていることに。
うーん、戦い慣れをしている。
そう感心をしながら淡々と踵を切りつけて、まったく姿の見えない彼女のことを褒め称える。
思うにかなりの実戦慣れをしているのだろう。だから状況判断がべらぼうに上手く、何か使えそうなものがあれば何でも使う。そして最も戦力として乏しい僕が、最もこの戦況を左右すると見抜いた。
魔物とは動物と大きく異なる存在だ。
溢れだした血は真っ黒であり、煙のように大気へ溶けてゆく。無尽蔵の生命力と怪力は他の生物と比べられないほどだが、そのぶん己の危機に対して極めて鈍感でもある。
そのおかげで、ぶつッと腱を断つことができた。
パンクを起こした車のように奴の軌道は大きく乱れ、大樹にぶつかると騒音を撒き散らしながら転げてゆく。
しかしシャルシャさんは油断など決してしない。大樹に身を隠しながら、それまで担いでいた弓をようやく取り出し、シュッ、シュトッ、とえげつないくらい首付近を中心に射抜いてゆく。
離れていろという合図を彼女から受けて、ようやく僕は呼吸を許された。気がつけば全身は汗まみれで、上着はぐっしょりと濡れている。絞れば滝のように流れるかもしれない。
「はぁーーっ、疲れたーーっ!」
そんな情けない声を出すのも許して欲しい。手にした短刀も刃こぼれをしているし、よくここまで耐えられたなと自分を褒めたいくらいなんだ。
と、大樹の陰で休んでいたそのとき、がさりと目の前の藪が揺れる。
現れたのは真っ白い兎……ではなくてマリアーベルだった。しっかりと辺りを警戒しながらも、たたたと駆けてくる。
そしてすぐ隣にやって来ると「大丈夫?」と心配するように小首を傾げてきた。
「そうだった。ありがとう、シャルシャさんを連れてきてくれて。おかげで助かったよ」
こういうときは、やっぱりエルフ語を覚えたいなと思う。感謝の言葉を伝えたくても、相手は不思議そうな顔をするばかりだ。
こういうときは、覚えたてのエルフ語を披露すべきだろう。もちろん恥ずかしがらずにね。
「トリッグ(やったね)! マリアーベル」
教えてもらったばかりのエルフ語、そして親指を立てればきっと分かってもらえる。にこりという少女の笑みには外見に似合わない品があり、だけど僕よりもずっと年上なんだっけと今さらに思う。
そしてやはり、彼女の母親とそっくりな魅力的な笑顔だなと感じる。
ズズン、ズン!
ちょうど大物も射止めたらしい。崩れ落ちる音がここまで響き、僕らはそっと木陰から様子を探る。
くずれ落ちた魔物はようやくにして復讐者の本能を捨て、塵に還ってゆくのだ。
白いを歯を零しながらシャルシャさんはガッツポーズをし、汗のしたたる素敵な笑顔を見せてくれる。
「 トリッグ! カズヒホ!」
似ていなくてもやっぱり親子なんだなぁ。そう僕は思いながら、駆け寄る彼女からごく自然と抱き上げられて、よくやったと愛犬のように頭を撫でまわされてしまった。
この日から僕はシャルシャさんのお気に入りとなり、またマリアーベルから信用してもらえるという喜ばしい状況になったらしい。
僕としてもたまらないよ。これでようやく本格的にエルフ語を教えてもらえるのだから。
空はいつの間にか晴れ渡り、大型モンスターを倒したばかりとは思えないほどの明るい笑い声が森に響いた。
ざり、と丘の土を踏む者がいた。古くからある杖を手にしており、どこか安堵の表情を見せている。
傍らには弓矢をつがえたエルフの男がいて、緊張を解くと共にゆっくりと弦を緩めてゆく。目深にかぶっていた帽子を脱ぎ、それから不機嫌そうな顔を彼に向けた。
「……狩りの邪魔はさせない主義なんですがね」
「確かに狩人の邪魔をするのは失礼に値する。だけどあの舞台に我々は必要無かったのだから仕方ない」
「親の気持ちってのは理解しようも無いが、拍手さえも禁じられているのは悲しいことですな」
違いない、と真っ白な髪をした族長は頷いて、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。
長耳が示す通り彼はエルフ族であり、最高位に位置する。だけどその表情はどこか人間臭いものだった。
「ああ、シャルシャに良いところを見せたかった」
「それが本音ですか……いや見守るのも立派だったと思いますがね。なぁに、男を示すのは戦場だけではありませんよ。壊れた祭壇の修復が終わったら、俺の秘蔵の酒を出しますんで」
そうは言われても根っからの戦士である彼女は、祭壇を直したところで惚れはしない。変わったことをしているのね、と奇異な目で見られるくらいだ。
はあ、と深々と息を吐いてから、彼は再び眼下を見下ろす。
そこには愛する人がおり、マリアーベルと少年を抱き上げている。今までよりもずっと近い親子のような距離だ。
雨降って地固まると言うが、これはこれで父としては複雑な思いなのだがね、と彼はひっそりと思った。




