第261話 夜の時間、魔法の時間③
しかし、さすがに毛布の中で過ごすのは暑すぎた。
とさりと倒れ、ようやく毛布から頭を出したマリーは汗ばんでおり、そのまま熱っぽい息を吐く。とろんとした瞳をしつつ、それでも僕の頭を抱きしめたままだ。
「こ、今年の冬は忙しくなりそう。日本の式を学ばなければいけないわ」
熱を冷まそうと呼吸を小刻みに繰り返しながら、そうマリアーベルは呟く。
年間行事には新たなイベントが加えられ、頭の中のカレンダーに丸印が描かれる。たぶんきっと楽しいことが起こるだろうなと僕らは思う。
ベッドに手をついて彼女は身を起こそうとしたが、力が抜けてしまって無理だった。きっとたくさん泣いてしまったからだろう。
代わりに枕を取ろうと腕を伸ばした姿勢のまま……しばし身体を震わせる。
「エルフ族にはどんなしきたりがあるのかな」
「……古くからある木の下で祝福を受けるの。そして互いの名を告げて、子の名前を授かるそうよ」
うわごとのように呟いているのは、たぶんエルフ族の結婚式のことを思い浮かべているのだと思う。たらたらと汗を流すのは、秋真っ只中の夜にしては珍しい。
僕の耳には可愛らしい彼女の声が響いて、おかげで挙式の景色がだんだんと鮮明になってゆく。
「そうして正式な手順を終えたら、催し物は私たちが決めるの。食事でもダンスでも構わないわ。楽しいと皆で感じるのが大切なのよ」
「だったら料理……と言いたいけど食材を調達できるかな。いや、なんだかそれもウリドラが張り切ってくれそうな気もする」
違いないわと言うように少女は手を差し伸べて、僕の肩に抱きついた。力が入らないのは相変わらずで、爪がきしりと肌に食い込む。
そしてお互い、夜にふさわしい息をゆっくりと吐いた。
「……ただし、それはエルフ族同士のお話」
「おや、やはり障害が待っていたのか。すると僕には乗り越えるべき課題があるんだね」
ええ、そうよとマリーは笑う。
夜更かしに慣れていない彼女の声は途切れがちで、どうにか意識を保とうと、そして理性的であろうと心がけているように見える。
「里の皆に挨拶をして……あら、これは終わっていたわね。長との挨拶も済んでいるし、あとは実力を試されるから『愚直』なり『五重定義の過負荷』なりを見せてあげて頂戴。きっとみんな驚くわ。必要無いのはお金くらい」
そう言って、かぷりと鼻を噛んできた。じゃれる子猫のように。あるいは私の雄だと自慢をするように。
ふうん、こちら側で求められるのと真逆だな。地域によるだろうけど、立派な式を求められるからね。いや、最近では懐事情に伴って慣習も変わってきたか。
寒いのか眠いのか、マリアーベルは肩をかすかに震わせて、ぼうっとした瞳に変わりつつある。
「わた、わたし……」
意識はだんだんと散漫になって、言葉もまた形にならない。もう眠りの時間が近いのだ。
まどろむように瞳を細めてゆく彼女へ、僕はそっと囁きかける。
「冬の間に準備をして、春に式を迎えようか。マリーの好きな桜が咲いている季節に」
ふわふわとお花畑を歩むように、とろんとした瞳をする。そう遠くないうちに迎える光景を、そっと思い浮かべているのかもしれない。
ささやかな提案は受け入れられて、しっかと彼女は抱きしめてくれる。そして気持ちを落つかせようと何度か深呼吸を繰り返したあとに、少女は汗で濡れた髪を指ですくった。
「ね、え……身体がひどく頼りないわ。半妖精エルフ族だからかしら」
僕らはとりとめのない会話を好む。だけどふっくらとした唇が重ねられると、静かな夜の時間が待っていた。
「驚いたわ、ウリドラの言っていたことが本当だったなんて」
「うん、何がかな?」
ここは電気を消したお風呂場であり、椅子に腰かけた彼女の髪を丁寧に洗っているところだ。知らなかったけど、長い髪を洗うのは意外と大変だったらしい。
仰向きでマリーが見上げてくると、ゆらゆら素足を揺らしながら唇を開く。
「私、あなたと番になるんですって。そのときは素敵なお話だなって人ごとのように聞いていたけれど、まさか一年も経たずにそうなるとは思わなかったわ」
「番か……んー、相変わらず動物的な表現を好むなあ。僕としては将来を見据えた告白だったんだけど」
エルフと人は寿命が異なり、だからいつまでも僕は躊躇をした。しかしそれさえも魔導竜には丸わかりで、じれったく思われていたのだろうか。
だけど日本での法律もあるし、決して無責任な行動は取れないと思うんだけどね。いや、そんな事情なんて魔導竜には関係ないのかと独りごちる。
難しい話については、近いうちに役所勤めをしている徹さんに相談しよう。それよりも今は髪を傷めないように洗うほうが大事だ。
「日本の結婚ではいくつかのしきたりがあってね。伝統ある和風か、華やかな洋風かをまず相談したいな。ただ共通しているのは、ご両親などの付添人がいることだろうね。もし日本で式をするなら、ウリドラに頼んでも良いかもしれない」
「あら、良いわね。きっと喜ぶわ。するとあなたはおじいさんが付添人になるのかしら」
そうだね、という声がなかなか出てこない。母の顔が唐突に蘇り、そしてなぜか「やめた方が良い」という声を感じたのだ。
――今の声はなんだろう。
それが誰の言葉なのかは分からない。どうしてダメなのかも分からないし、母の顔が鉛筆で一気に塗りつぶされる光景が見えて……。
「? 手が止まってしまったけれど、どうしたのかしら?」
「……いや、何でもないよ。じゃあお湯で流すからゆっくり温まって」
「え? う、うん、分かったわ。てっきりあなたとお風呂に入れると思って楽しみにしていたのに」
いや、それにはもう少し心の準備がいるんだよと、ぎこちなく笑いながらシャワーを優しくかけた。
まだ暗いままのリビングで、壁にもたれかかりながらずりずりと床まで落ちてゆく。表しようのない不安があって、だけどそれが何かさえ分からない。
漠然とした不安。それは膨らむ一方で、今にも背中側から押しつぶされそうだ。
「いけない、マリアーベルを隠さないと」
身を起こしかけて、ぴたりと動きを止める。
いま、僕は何を口にした? 隠すってなんだ。どうしてそんなことを口走った?
これはなんだ。なにかが起きているはずなのに、まったく見当がつかない。
だけど気がついたら腕じゅうに鳥肌が立っていて……ゾッとした。
かたんと戸が揺れる。
「一廣さん、大丈夫?」
「……うん、大丈夫だよ。お風呂上がりはオーソドックスに珈琲牛乳が良いのかな」
バスタオルを張りつかせて、エルフの少女は髪から雫をてんてんと垂らす。立ち上がる僕を見て、しばしの間を置いてから唇を開く。
「そうね、たまにはあなたの好きな飲み物が知りたいわ。それよりも、そんなところに座っていたら風邪をひいてしまうわよ」
止まらない不安感を押しつぶし、僕はいつものように笑いかける。柔らかく、優しく、そして少しだけ眠そうな顔つきで。
どうやら、いつの間にか魔法は解けていたらしい。
ゴオオと塔は強い突風に吹かれていた。
下から吹き上げられる風には黒い塵が混ざり、空まで暗く染めてゆく。
地表にはおびただしい魔物の死骸があって、それが塵に変わって太陽光を阻んでいる。だから砂漠地帯の真昼間でありながら、塔を守る兵士らは奇妙な肌寒さを覚えていた。
その砂地を高みから見下ろす者は2人。
老いた塔の管理者と、彼に従う様子の女性だ。白のローブから覗く黒髪はカラスの羽のように濡れており、鎖骨まで覆っている。
「…………」
じいいと女性は地平線を眺め、身動きのひとつもしない。抑えきれない衝動でもあったのか、めき、みし、と額が鳴って、やがてずるっと角が生える。
それは禍々しい形をしており、人間族には決して無いものだ。瞳の色さえ白黒が逆転をしても傍らの老人は気づかないのか、水晶球をただ弄るだけだった。
思い出したようにその老人はしわがれた口を開く。
「夏夜子君、もうすぐ古代からの遺産、意思のない魔人が国境を越えてやってくるぞ。砂と太陽しか無かったこの国も、これからは賑やかになりそうだな」
「……そうですね。ふふ、本当に楽しくなりそうで」
異形の姿で、かつこつとヒールを鳴らして近づいて来ても、彼の目からはまた異なって見えるのかもしれない。水晶を覗かせようと身体を動かし、彼女を待ち受ける姿はまるで友人のようだった。
彼の肩に手をかけると、夏夜子と呼ばれた女性の背中はざわりと揺れる。闇色の気配をまとわりつかせ、周囲が一段と暗くなっても老人の表情は何ら変わらない。
その水晶には、どんな光景が映っていたのだろう。
やがて女は、くすりと唇を笑みの形に変えた。




