第259話 夜の時間、魔法の時間①
陽がゆっくりと沈んでゆく。テーブルには僕だけが座っていて、なぜか目の前には黒猫がいる。その子は頭っから丼に突っ込んでいて、かつかつと美味しそうに食べる音を響かせていた。
ため息混じりで僕はその小さな猫に話しかける。
「本当ならね、有名なお店で鮮魚料理を心ゆくまで楽しんでもらうはずだったんだ」
頬杖をついた僕は、そう恨みがましい声を漏らす。三角形の耳はぴんと動いたけれど、相変わらずこちらの言葉を聞きもしなかった。
暗くなってゆくリビングで、ぶつぶつと不平をこぼす姿は少しばかり寂しく見えるかもしれない。だけどお持ち帰り用の容器に頭を突っこんだ黒猫へ、僕は尚も問いかける。
「動物を連れてお食事処には行けないんだよ?」
ニャんだと? と金色の瞳がようやくこちらを向いた。ざーりざーりと容器の端を舐めながら。
もちろん猫語は分からないけれど、その瞳を見れば何を言いたいのか大体分かる。長いこと接してきた相手だし、そもそもこの猫は感情がとても分かりやすい。
多分だけど「この身は使い魔じゃ。そこいらの動物などと一緒にするでない」などと言いたいのだろう。だけど瞳を線にして「やっぱり赤身じゃなああ、くふぅーー!」と喜んでいては台無しだ。どこからどう見ても悪戯好きな黒猫ちゃんであり、やっぱりお店の人は責められない。
喉が渇いた。という表情を見て、ずいと水の入った小皿を指先で押し出す。それから尚も訴えかけた。
「さて、どうしてデートの邪魔をしたのかな? その答えを聞くまで、僕はずっと口を利かないかもしれないんだよ?」
ピチチと円形に波紋を広げて、冷たいお水をゆっくりと飲む。それからご飯粒だらけの顔を前脚で掃除して、満足そうなげっぷをひとつ。
奔放な黒猫はテーブルを音もなく歩み寄り、すぐ目の前に座った。しっぽをくるんと身にまとわせて、見上げてくる瞳は綺麗な金色をしている。
「この世界に来て、わしはひとつ学んだことがある」
耳の奥から聞こえてくるのは、猫語の翻訳……ではなくて意思疎通という機能の一環だ。
状況に合わない声で、猫は静かに語り始めた。こちらからの小言に悪びれるでもなく、ほんの少し魚の匂いをさせながら。
確かにただの猫ではないのだろう。そうと感じるほど瞳には知性が宿り、きらりと黄金のように輝く。
「ふ、ふ、大した話でも、ためになるような良い話でもない。わしはな、欲をかくことにしたのじゃ。食べたいものを食べたいと言い、もしも食べれないときは拗ねることにした」
そのふてぶてしい言葉に、つい僕の頬は緩む。この生意気な猫ちゃんめと顎を撫でると、にううと彼女は鳴き、もう一歩だけ近づいてくる。そして肉球つきの指をぺたんと僕の手に乗せると、やはり子猫らしからぬ静かな声を響かせた。
「無論、それは褒められない。魔導竜という身でありながら嘆かわしいと言われるだろう。しかしどれだけ欲をかいても、なぜかいつも良い結果が待っておった。責められるはずが、結果だけ見れば楽しいことばかりだった。恐らく、それはこれからも変わらぬじゃろう」
いつになく静かな言葉をささやく猫に、僕はしばし動きを止める。何かを……そう、とても大切な何かを教えようとしている気がしたのだ。
しんと部屋が静まりかえる。夕暮れどきの外からは何も聞こえなくて、スンスンと小さな鼻から嗅がれる音だけが響く。
「言いたかったのは、欲というのは決して悪いものではないということじゃ。おぬしもまた欲しいものがあればそう言うが良い。悪い結果など待ってはいない。このわしが保証をしよう。じゃから試しに言ってみることじゃ。さすればきっと……」
と、そのとき浴室からカタンという音がする。お風呂からマリーがあがり、これからタオルで身体や髪を拭くのだろう。黒猫も同じようにそちらを眺めてから、くるんと丸い瞳を僕に向ける。
「ではな、北瀬よ。おせっかいと言われても構わぬ。ふ、ふ、今宵ばかりは、おぬしの背を押そうと思うてな。それと、なかなかのご馳走であった。やはり赤身こそが至高じゃと再認識できたぞ」
そう目を線にしながら礼を伝えると、黒猫の姿は元の形に戻った。テーブルの上に残されたのは丸い首輪だけで、彼女の毛並みとよく似た黒い宝石がついている。それを指先で触れながら、今の教えの意味は何だったのか、僕は何を欲しがっているのか、ぼんやりと考えた。
長いことそうしていたのかもしれない。
ぱちんと部屋の明かりがついて、すぐそこに薄紫色の瞳を丸くする少女がいた。ほかほかと湯気をあげており、肩にはバスタオルをかけている。
まだ髪は濡れていて、丁寧にタオルで拭き始めながら普段よりも色づいた唇が開かれる。
「どうしたの? 歩き疲れてうたた寝をしていたのかしら?」
「ううん、少しぼうっとしていたのかも」
まさか猫から助言をもらっていたとは伝えられない。
ちりんと鈴を鳴らして黒猫は姿を消したが、その代わりにいつも見守ってくれる竜の声が頭のなかで流れた。
いつものように、いつもの恰好で、何のためらいもなく少女から抱きつかれる。どこか甘い彼女の香りが漂い、華奢な腰の感触が手の下にある。
ふたりきりの時間というのはどこか不思議で、贅沢で、外から響く風の音しか聞こえてこない。
間接照明のなか、少女からじっと見つめられるこの時間こそ、きっと大切なのだろうと僕は感じる。
その彼女がもぞりと身じろぎをして、ゆっくりと布団から身を起こしていった。
「不思議、なんだか今夜は寝つけないわ。胸がどきどきするの」
「僕もだ。どうしてかな」
いつもなら温もりを楽しんでいるうち、まぶたが勝手に重くなるというのに。なぜか胸の鼓動が収まらなくて、まだまだ起きていたいと子供のように思うのだ。
だけどその理由は少しだけ分かる。
僕は夢の世界がとても好きで、剣や魔法というファンタジーの世界に憧れていた。しかしそれよりも彼女との時間の方がずっと大切になったのだろう。
きしりとベッドをきしませて、エルフ族のマリアーベルはベッドに座る。白いネグリジェ姿で、どこかソワソワとした表情で微笑みかけてくる。
ダウンライトに包まれた彼女は、とても柔らかそうな肌だと思う。その瞳もまた、初めて会ったときよりずっと優しい形をしている。
誘われるまま僕も身体を起こすと、もうちょっとお話をする時間ができた。
「私たち、夜更かしをしてしまうのね。なんだかちょっと不良になった気がするわ」
「エルフ族の習わしを教えてくれる約束だったね。君たちの家でも、やっぱり夜更かしをすると怒られていたのかな?」
「ええ、光の妖精を取り上げられてしまうの。それから悪い子ねと言って、額にキスをしてくれるのよ。とても厳しい躾でしょう?」
いやいや、とても可愛らしくて躾とは呼べないんじゃないかな。もしかしなくても人間族のほうがずっと厳しいよ。
太腿を揃えて座る彼女には、すっと長い耳がついている。髪の毛はたんぽぽの綿毛のように真っ白で、ファンタジーとしての気配が色濃い。
たぶんこれは幻聴なのだろう。鈴の音のように、耳の奥から「試しに言ってみることじゃ」という声が響いた気がした。
ふたりきりの夜には、不思議なことが起こる。ひょっとしたら夢なのではと思うほどの出来事が。




