第212話 大学付属の図書館へ②
陽は暖かいけれど、車の窓を開けるとやや肌寒い。
週末のお昼前という時間だ。もう少し走ると渋滞が待っているだろう。
助手席に座るエルフさんは、秋の服装をお気に召したらしく、爪先を揺らしながら後部座席へ瞳を向ける。そこには珍しいゲストがおり、話したくて仕方の無い様子だ。
「ねえ薫子さん、屋敷では私たちより先に眠りについたでしょう? やっぱり同じベッドで目覚めたのかしら?」
ちらちらと魔導竜、そしてエルフを見ていた彼女は、話を振られて少し驚いた顔をする。幻想世界の彼女らと同じ車内におり、緊張していたのかもしれない。
確かに竜人やエルフたちから囲まれる機会なんて、あまり無いだろうからね。
「あ、いえ、うちのベッドで目覚めました。不思議なこともあるものだなと、さっきまで徹さんと話していたんです」
あ、そういえば僕らの家の鍵は閉じられていたか。
すると行きは僕のベッドで、帰りは一条夫妻のベッドで目覚めるのか。それは確かに不思議な話だ。
もちろん僕としてはそのほうが助かる。ベッドで混雑するなんて嫌だし、朝はのんびりと眠気を楽しみたい。
案外とそれが理由なのだろうか。僕らが起きやすいよう場所を空けてくれている?
夢の世界への移動というのは、誰かに管理をされていると感じる時もある。もしもその意思に触れる時があれば、どのような意味があるのか尋ねてみたい所だ。
ちなみに彼女ら一条夫妻にも、僕と同じようなルールがあるのを確認している。先ほどの「眠れば元の世界へ帰れる」だったり「痛みをほとんど感じない」というものもまったく同じ。あまり試したくないけれど、死亡したケースも同様だろう。
ただし夢の世界へ行くには僕という存在が必要なので、二度寝して戻っては来れない。
それを聞いていたマリーは、きょとんと不思議そうな顔をした。
「あら、そういえば私がお昼寝をしても向こうの世界へ戻れないわね。どういう理屈なのかしら」
「この世界から見ると、わしらの世界は『夢』に当てはまるのかもしれぬ。しかし北瀬は驚くほど眠そうな顔じゃからな。あれでは日本で死んでも『よく寝たー』とか言って目覚めかねんぞ」
あれぇ、そこまで僕は眠そうな顔をしているの?
バックミラーから指差しているウリドラはともかく、くすりと笑った薫子さんを僕は決して見逃さないよ?
その彼女は大のゲーム好きらしく、またファンタジー世界へいつでも行けると分かって爛々とした瞳を向けてきた。
「技能って好きな物を選べるのですか? 私、魔法使いに昔から憧れているんです!」
「ほう、それは良かったのう。何を隠そう、わしとマリーは魔術、魔導に長けておる。しかし恐らく薫子の特性としてはエルフに近しいと思うがな」
きょとりと不思議そうな顔を彼女はする。
その言葉で思い出すのは、ずっと前に起きた事件、氷精霊のクラゲ君を見られてしまった出来事だ。ひょっとしたら彼女には精霊との相性が良いのかもしれない、という話をしていたことを思い出す。
興味を持った僕もウリドラへ尋ねてみる。
「僕はいつも一人旅をしていたから、特性というのが分からないんだ。その人の持って生まれた物なのかな?」
「うむ、伸ばしやすく、また強い個性を持ちやすい。どうしようもない技能に育ったりもするが、それはそれで味があり使いどころもある。騎士だの何だのと流行りに無理やり乗ろうとするのを、わしは好かぬぞ」
騎士かぁ、恰好良いから憧れてはいるんだけどね。
もっと僕がたくましかったら金属鎧と盾、大きな剣を持ってみたい。いや待てよ、前に移動技能が変化をしたから重量制限は緩まったのか。
「うん、決めた。今度かっこいい金属鎧とマントを……」
「駄目よ」
ぴしゃりとエルフさんから水を差され、先ほどの決意は陽炎のように消えてしまう。隣を見ると腕をバツ印にする少女がおり、たらりと汗を流した。
「想像するだけで嫌だわ。あなたがムチムチの恰好をしているだなんて。もしそんなものを買ったら、兜にカズヒホって書きますからね」
「マリー、何も僕は恰好良さだけを目的にしているわけじゃないんだよ。これは皆を守るためであって……」
「マントには、カズヒホ参上って書きます」
駄目だ、どうやってもエルフさんの牙城を崩せない!
諦めますと返事をすると、当たり前だと言うように大きく頷かれてしまった。同じように頷く様子のウリドラと薫子さんだけど、女性にはそういう浪漫が分からないのかなぁ。
大体、私服のような恰好で古代迷宮をウロつくほうが不自然なんだけど……などと不平を漏らしても、やはり誰からも賛同を得られなかった。
さて、週末のドライブというのは道が混む。
錦糸町駅を越え、隅田川が見える頃になると進んだり止まったりを繰り返す。しかし遅さにイライラするどころか、後部座席は賑やかだ。
「私、ウリドラ様のことずっと特別な方だと思ってました。だから正体は竜だと知って、ますます素敵だなあって感じています」
「ふ、ふ、竜にも色々あるが、わしほど知能の高い者はそうおらぬぞ。おぬしは見る目があるのう」
ちょんと鼻先を触れられて「きゃああ!」と彼女は身悶える。ぐねぐねと腰を揺らし、声にならない悲鳴をあげていた。
あれぇ、いつの間にか「様」付けだし、すっかり乙女の顔をしてますよ! これは徹さんに伝えた方が良いのか、知らない方が幸せなのか……悩ましいな。
しかし夢の世界では徹さんにべったりだったのに、先ほどの会話を聞く限り、やや冷めた態度だった。
何か嫌な予感がする……そう思いながら尋ねてみると、当たり前のような顔で返事をされた。
「え、あの体型の違いですよ。あまりの落差に驚きません? 上げて落とされたんですから、当然のリアクションだと思います」
そう、なのかな……。
確かに現実世界では肥満ぎみだし、不摂生はやめた方が良いと思うけどね。身体に良くないし、出費としてもバカにできないから。
夢の世界で若々しい姿を見たことで、理想と現実のギャップを感じているようだ。女性というのは理想を求めやすく、そのぶん現実の旦那さんには冷たくなってしまうのかもしれない。
ダイエットを応援したものか慰めたものかと悩んでいると、今度はエルフへと薫子さんは顔を向ける。
「それとマリーちゃんは私よりずっと年上のエルフ族なんですね。いつも童話のように神秘的だと思ってましたけど、本当にイメージにぴったり過ぎます。こうしてお近づきになれて凄く嬉しいです」
前のめり気味に褒められ、マリーは戸惑いの表情を見せる。今までも周囲から注目を浴びていたけれど、それとは何かが違うような気がしたのかもしれない。
「あ、ありがとう。でもそう言われると少し恥ずかしいわ。確かにエルフ族の数は少ないけれど、そう珍しくもないのよ?」
「いいえ、まさか。マリーちゃんみたいな可愛い人がたくさん居たら困ってしまいます。ああー、こんなに近くで見れるなんて卒倒しそう! 実は私、綺麗な女性が大好きなんです!」
おいおい、いま凄いことを独白された気がするぞ。ドッと汗をかいたけど……いつか徹さんにバレなければ良いな。
うん、良い方向に考えよう。無理やりにでも。
たぶん彼女は僕と近しくて、幻想的な世界をとても愛しているに違いない。いつでも遊びに行けるなんて信じられない事だろうに、理解が異様に早いのはそれが影響しているのだ。
つまり、先ほど「女性が大好き」と言ったのは「ファンタジー世界の皆さんが大好き」という意味に違いない。そうそう、きっとそうだ。
などと無意味に自分で自分を納得させる僕だった。
しかし薫子さんからの次の質問に、僕らは驚いた。
「それで、どの言語から覚えたほうが良いですか?」
言語習得というのはかなりの時間と根気がいるものだ。英語を最初から覚えるようなものであり、それでもやる気を見せている彼女へ驚かされる。
おとがいに指を乗せて考えていたマリーは、その薄紫色の瞳を僕へ向けてきた。
「きっと経験者に聞いたほうが早いわ。一廣さん、どの言語から覚えるのがお勧めかしら?」
あ、そういえば僕は言語を幾つも学んでいたか。
覚えるほど世界が広がってゆく楽しさは勿論あるけれど、現実世界では何の役にも立たないのを気にしてはいけないよ。
しばらくウンウンと唸り、それからアドバイスを彼女へ贈る。
「ウリドラの言う特性を考えるとエルフ語かな。希少な言語だけど、幸いなことに僕らの周りでは話せる人が多い。重要なのは精霊使役にも使えることだと思う。でも……」
ちょうど車の渋滞ができたので振り返る。
彼女の黒い瞳はやはり未知の世界を想い、綺麗な色に輝いていた。
ならば本当の適正を伝えてあげるべきだろう。
「ぜひ、古代語を覚えてください。あれは全ての文化の中心であり起源です。ありとあらゆる事を知りたい貴女になら、そこから始めることをお勧めします」
ぱっと光が弾けたように見えた。
彼女の瞳は何かを吸収し、そして変化を起こしたよう僕には見える。気のせいかもしれないけれど、そう思わせる表情だった。
「ええ、そうします。北瀬先生」
肩までの黒髪を揺らし、にこりと笑みを見せてくれた。まっすぐにこちらを見つめる瞳は輝いており、眩しいとさえ思う。
僕らの年齢はさほど変わらないというのに、不思議と「先生と生徒」という関係にピンと通じるものがあった。だから彼女に伝えるべきセリフは、きっとこれが正しいのだろう。
「ようこそ夢の世界へ、薫子さん。たくさん楽しいことを学んで、貴女の人生をより豊かにしてください」
まるで入学式の安っぽい歓迎の言葉だ。
しかし夢の世界を20年近く過ごしてきた言葉であり、他の誰にも言えはしないと思う。
それに彼女は何を感じ取ったのか、ぶるりと身体を震わせた。見えぬ感情の波に揉まれるよう、己の華奢な身体を抱きしめてゆく。
はあ、と熱っぽい息を吐き、ゆっくりと薫子さんは顔を近づけて来る。ただの隣人とは思えない距離となり、その艶のある唇は開かれた。
「た、楽しみで仕方ありません。ですが北瀬さん、夜が待ち遠しくなってしまいますので、もう少し押さえていただけると助かります」
よほど興奮したのか、紅潮する頬には涙がぽろりと落ちてゆく。慌てて拭い始める様子に驚かされたけど、決して悪い感情では無いだろう。
よしよしとウリドラから頭を撫でられる姿も、また印象的だった。異なる世界から迎えられ、彼女はやっと扉を開き、足を踏み入れたように見える。
そこには友人らが待っており、今日は何をして遊ぼうかと相談をすることを許される。
きっとそんな生活を思い浮かべたのかもしれない。
女性に楽しんでもらいたい僕としては、もちろん夢のような生活を与えてあげたい所だ。
いつの間にやら渋滞は消え去り、スムーズに車は流れ始める。
三十分ほどのドライブだったけれど、出発する前よりも仲良くなれたように思え、僕としては喜ばしかった。
しかし先ほど、ただの言葉がどうしてあそこまで薫子さんに響いたのか。
一体何が彼女の心の琴線に触れたのかを思いつつ、ゆっくりとアクセルを僕は踏んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ここ文京区にある大学には、多くの優秀な生徒らが集う。
今日は週末ということもあり、一般開放されているエリアは人が多い。親子連れだけでなく、若者の姿も目に入る。
当たり前だけど僕も初めて来る場所だ。
緑の向こうには大きな建物も見え、どこか普段とは異なる雰囲気だと思う。物珍しい光景に、きっと一人で来ていたら、田舎者のようにあちこち眺めていただろう。
しかし今日は幸いなことに同伴者がおり、幻想世界からやってきた彼女らは立派な門の前で硬直していた。
うん、仲間がいるってのは心強いね。そう思いながら少女の肩をぽんと叩き、僕は話しかけた。
「立派な門をしているね。さすがは歴史ある大学の入り口だ」
「ええ、やっぱり木で造られた門は格好良いわ。瓦も味があって素敵。ねえウリドラ、私たちの屋敷にも、こういう門が必要だと思わないかしら」
「うむうむ、この塀がまた恰好良いんじゃよ。ああ、刀を持った奴らから殺陣で囲まれてみたいのう」
うん、守りを固めたいのか襲われたいのか分からないね。時代劇はフィクションだけど、ウリドラなら実戦でもバタバタ倒せそうな気がして困るな。
しかし、いつの間に彼女らは時代劇を見るようになったのだろう。仕事で出かけている間の様子も気になってしまうぞ。
あんぐりと口を開いて見上げ、屋根の構造を観察しながら歩くことしばし、もう一度彼女らは硬直することになった。
ざあっという梢の音がし、気が付けば黄金色の世界が待っていた。それはそれは見事なイチョウ並木で、陽に照らされた葉たちは鮮やかな色で視界を埋め尽くす。
「わ、あーー……っ!」
どっと溢れてきた色彩に、少女の瞳は輝いた。
ふらふらとエルフは歩き出し、舞い落ちるイチョウの葉に手をかざす。地面に積もる葉たちも、視界全てを黄金色に染める役割があるようだ。
「うん、見事なイチョウ並木だ。ここまで手入れをされているのは、そう見ないね」
小さな手を広げた少女へ、はらはらと葉は降り注ぐ。黄金色の世界を楽しむエルフこそ、僕にとって幻想世界の領域だ。
左右にならぶ学び舎も、明治時代の息吹を感じさせる。それもまた幻想的な景色に変え、少女を喜ばせているのだろう。
桜とはまた別種の鮮やかさに、ウリドラもエルフを追って歩いてゆく。とはいえ、はしゃぐ彼女らこそ周囲の人達は驚いているようだけど。
かさりとイチョウの葉を踏み、隣に立つ女性へ僕は気づく。横を見ると、黒い瞳から見つめられていた。
「綺麗ですよね、こちらのキャンパスは。徹さんの母校ですから、よく散歩に来るんですよ」
隣に並ぶ薫子さんは、白黒のチェック地をしたスカートからは黒タイツの足が伸ばしており、ややモダンな印象を受ける。
髪へイチョウの葉を飾りながら、うっすらとした口紅からはにかまれると、このような景色の似合う女性だなと僕は思う。
ぺこりと彼女は小さく頭を下げてきた。
「さっきはありがとうございます。嬉しかったです、皆さんから歓迎していただいて」
礼を言うのは気恥ずかしいのか、両の指を合わせて彼女は呟く。ぱちぱちと瞬きをし、長いまつ毛に縁取られた瞳も笑みを浮かべた。
「私、諦めていたみたいです。先ほどそれに気づきました」
「え、それはどういう意味です?」
ちょんと前方を指差され、遠ざかってゆくマリーらに僕は気づく。
促されるまま一緒に歩き始めると、彼女の瞳はゆっくりと僕から離れて行った。
「地元を離れ、結婚をして、仕事をして、私たちの生活は落ち着きました。このままずっと何十年も過ごすんだなって、どこかで思っていたのです」
静かに話す彼女へ僕は思わず頷く。
サラリーマンとして生活をしていた僕も同じ気持ちだったのだ。なるべく波を立てず、平穏に過ごすものだと思っていた。
しかし、と彼女は呟く。
「私、友達と遊べるというのが楽しみで仕方ありません。仲の良かった子とは、もう離れ離れでしたから」
彼女の言葉にようやく納得した。
車中で心の琴線に触れたのは恐らくそれだろう。新しい世界と出会い、心から喜んだからこそ涙を流してしまった。
薫子さんは気恥ずかしさをごまかすよう、小さな笑みを浮かべてきた。
「それと古代語を教えてくれる北瀬先生にも私は期待していますよ」
「あれ、期待して大丈夫ですか? 眠そうに見えて、僕の教えは厳しいですからね。ついて来れますか、薫子さん」
冗談混じりにそう尋ねると、彼女はイチョウ並木に映える笑みを浮かべてくれた。
「はい、先生! 私は本を読み出すと止まらない性格ですから、たぶん北瀬さんを辞書がわりにすると思います。だから先生こそ根をあげないでくださいね」
どうぞどうぞと身振りで返事をする。
僕のことは幾らでも使ってくれて構わないさ。男というものは、女性から使われてこそ喜ぶ生き物だからね。
それと実はちょっとだけ僕も嬉しかったりする。長い付き合いだった彼女と、ようやく友達になれたように思うのだ。
ふと見上げると、黄金色の陽光が降り注いでいることへ気づいた。
「さすがは有名大学だ。でもちょっとだけ匂うのはご愛嬌かな」
「ふふ、それは我慢してくださいね。美味しく食べて、憂さを晴らすべきです」
両手の指を合わせた彼女から、そう提案された。
景色のせいか、薫子さんは車中とは異なり落ち着きのある表情を取り戻していた。
そういえば彼女と一緒に歩くのは初めてか。同じマンションの人と歩くのはどこか不思議だけど、これもまた出会いなのかもしれない。
どうやらマリーもこちらへ気づいたらしい。
こちらへ駆けてきた少女は、勢いを弱めず、ぼすんと胴に抱きついてきた。
どうしたのと尋ねると、見上げる彼女との視界を塞ぐよう、両手をこちらへ差し出してくる。
手袋に乗っていたのは種のようなものが数粒。殻はわずかに割れ、艶のある中身が覗いていた。
「見て見て、銀杏をたくさん拾ってしまったわ!」
「あれ、マリーは匂いが平気なのかな。そういえば前に美味しく食べたっけ」
「ええ、だから平気。でもやっぱり臭いわね」
うん、その笑顔は臭いっていう表情じゃないよ。
ぱっと花が咲くような笑みを見せてもらい、つられてこちらまで頬を緩めてしまうのは不可抗力だ。もちろん薫子さんも含めてね。
イチョウ並木の向こうには、ゴシック調の立派な学び舎が見えている。暖かな陽光に照らされた光景は、どこか荘厳な雰囲気を持っていた。




