第201話 夢の世界へのお誘い①
僕は寝起きに見る光景というものを楽しみにしている。
妖精のように可愛らしいマリアーベル。紫水晶のように美しい瞳はいつ開かれるのか、期待に胸を高鳴らせてそのときを待つことが多い。
知人が一緒のときも同様だ。羞恥心というものを知らないウリドラには困らされるけれど、今日という日を楽しみにして目覚めることができる。
実体を持たないシャーリー。ダークエルフのイブ。日本という場所に彼女たちも最初こそ驚いていたものの、乾いた土が水を吸うように知識をグングン吸収し、こちらまで笑顔になるほど輝かしい表情を見せてくれた。
それが一日のはじまりであり、夢の終わりだ。
そして僕が普通の人と少しだけ異なるのは「夢の始まり」まで楽しめることだろう。剣と魔法の世界へと足を踏み入れ、日本とはまるで異なる世界で遊ぶことが出来る。
しかしいま、夢の世界にやってきた僕はというと、ダラダラ汗をかいている。油っこく、まとわりつくように嫌な汗だ。
「これ、夢、だよな? 若返ったのもそうだけど、なんで裸?」
驚きの表情を見せる彼は、困った事に同じマンションに住む一条 徹さんだ。酔ったせいとはいえ、路地裏で倒れ、ここへ連れて来ることになるなんて……と僕は激しい後悔に苛まれている。
先ほどまで「夢であってくれ」と必死に願っていたけれど、よく考えたらこちらの世界は夢なのだから意味が無かった。今日に限っては本物の夢なら良かったのに。
布団から上半身を起こした彼は、一切の衣服を身に纏っていない。初めて異なる世界にやってきた時、持ち込めるのは己の身だけという制約があるからだ。
年は僕と大して変わらないように見える。といっても「この世界では」という前置きがつく。当の僕でさえ日本では二十五歳、こちらでは十五歳くらいの外見に戻ってしまう。
彼もまた若々しい外見となり、以前の肥満寄りな身体や顔つきさえもがらりと変えていた。
気が遠くなるような状況ではある。
しかし「いや、待てよ」と僕は一筋の光明を見出す。
もしもうまくやれば「無かったこと」に出来ないだろうか。
わずかな希望を覚えながら、僕は努めて冷静に声をかけることにした。
「ええ、これは間違いなく夢ですよ。その証拠に頬をつねっても痛くないでしょう?」
「あ、ほんとだー。いや、びっくりしたよ。生々しいし急に若返ってるんだもん……って、君だれ?」
あ、そういえば僕の見た目もだいぶ変わっているのか。
しかし、さすがに彼ほどのギャップは無いためか、徹さんは口元に笑みを浮かべた。
「あ、その眠そうな顔は北瀬君? ハハハ、若いねぇ。アレだね、小さくなるとちょっと中性的になるのかな、君は」
「はあ……。そんな事よりも、夢なんですから早く目覚めましょう。路地裏で眠ったから、どこで目覚めるか僕にもよく分からないんです」
なにを言ってるの?という不思議そうな表情をされてしまった。
確かにね、今の説明では分からないだろうと思う。もし起きたとしたら、人目の多い商店街で目を覚ますのだろうか、という疑問が僕にはある。これまでを振り返ってみると、人目につきづらい場所で目覚める場合がほとんどだった。
しかし今に限っては細かい説明をしなくて構わない。さっさと彼を眠りにつかせ「無かったこと」で終わらせるのが僕の使命、もとい保身だ。
そう思い、ぬくぬくと温かく気持ち良さそうな布団を手で示し、横になるよう僕は促す。しかしその誘いを遮って、彼はこんな事を尋ねてきた。
「でさあ、この視界に映ってる初期設定画面って、なに? ゲームか何か?」
ざあっと血の気の引く音が聞こえた。
そうだった、確かにそういう物があった。僕の名前を「カズヒホ」というアホっぽい名前に変えてしまった忌まわしきイベントが。
「どれどれ、あなたの名前を入力してください……?」
「ゆ、夢ですから不思議なことが起きてもおかしくありませんね! ええ、とりあえず布団へ横になってから考えましょう!」
慌てながらも、彼を眠らせるため冷静であろうと努める。
しかし、それをあざ笑うようにして、陽を浴びる障子の向こうから怒り気味な足音が響いてきた。嫌な予感を覚えつつ、パアン!と勢いよく左右に開かれた障子へと僕らは顔を向ける。
やはりそこにはドレス姿をした黒髪美女がおり、怒りによって顔を赤くさせている様子だ。瞳に涙を浮かべ、ぷるぷる肩を震わせ、背後にドス黒いオーラが見えるほどの迫力を伴っていた。
「北瀬っ、この裏切り者めッ! わ、わしの中華料理イベントをフイにしておいて、よくもまあグースカ眠りにつけたものだ……って、うん?」
ああ、やっぱり中華料理屋に連れていけなかったことを怒っていたのか。衛生上、どうしても猫は食事の店に連れて行けないのだから仕方ない。
今回は幸いなことに、彼女の怒りは思わぬ来客により静められた。
しかし事態はより深刻になったとも言える。彼にとっては幻想世界の住人と初めて出会った瞬間であり、また寝かしつけようとする僕の作戦が遠ざかってしまったからだ。
「ふうむ、この世界の匂いがせぬとはなぁ。奇妙なことに、まるで新品を見るようじゃ」
そう分析をするよう眺めながら膝を折り、しげしげと彼の顔や裸体を観察し始める。
徹さんが顔を赤くさせているのは、たぶん豊かな胸元、それと良い香りのせいだろう。黒薔薇の刺繍には覆われているものの、魅力的な谷間がうっすらと透けてしまう。仮に同性であっても強烈な色気には頬を熱くさせてしまう。
スッゲー美人! だれこれ?
などと言いたげに、徹さんはこちらへ口をパクパクするけれど、推定レベル千の魔導竜だなんて言えないよねぇ。
そのとき場に適さない言葉をウリドラは漏らした。
「角煮、じゃな?」
ぽかんとする僕らの前で、竜の眉はみるみる逆立ってしまう。
「忘れもせぬぞ! この残り香は、わしの中華料理の匂いではないか! ふ、ふ、さては貴様、徹とやらじゃな?」
そこにいるのはもはや美女などとは呼べない。怒りに飲み込まれ、不穏なオーラを放つ魔導竜そのものだ。
顔を青白くさせ、社会人として空気の読める徹さんは全裸のまま正座をした。
「はっ、ハイっ! 私は徹ですっ!……あれ、どこかで見たことがあると思ったら、以前に北瀬君と旅行に行っていたような?」
「む? おお、そういえば顔を合わせたかのう。ぬしの番とは何度か遊んでおるが、おぬしと話をするのは初めてじゃなあ」
「番って……まさか薫子のことか?」
ウリドラの答えに、徹さんの目は知性を取り戻す。
ここが何なのか、どこなのか、なぜウリドラは日本で過ごしていたのか、などと思案をしているのだと思う。
ああ、面倒なことになってきたぞ。僕の「変わった夢でしたねぇ」作戦が、めきめきと破壊されてゆく音が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
さて、彼を寝かしつける作戦は早々に諦めた。
というのもウリドラから「知られても悪いことにはならぬじゃろう」という助言をいただいたからだ。
平穏に過ごしたいため出来ればこの夢を秘密にしたかったけれど、彼が悪いことをするとはあまり思えない。きちんと説明をすれば分かってくれる可能性もある。
その為、ウリドラに頼んで彼の洋服などを用意してもらう間、僕だけひと眠りをする事にした。一人ぼっちで待っているマリーを放っておけないからであり、また日本のどこで目覚めるのか事前に確認しておきたかったからだ。
夢の世界から日本へ移り、ぼんやりと目を開く。
周囲は薄暗く、そして半ば予想をしていた通り、目覚めたのは商店街よりもずっと人目につかない裏路地だった。がらんとゴミバケツを転がしながら僕は立ち上がる。
「いてて、筋が固まって……スーツもよれよれだ。徹さんは、やっぱり居ないか」
きょろきょろと見回すも、寝入っている彼の身体は見当たらない。つまりいま、彼は夢の世界にいるのだろう。
もう少し周囲を確認をしたいけど、それよりも大事な用件がある。腕時計を見ると、もうすぐ日付が変わってしまいそうな時刻だった。
「参ったな、こんな時間まで遅くなるのは初めてだ。マリーも寝ていてくれれば良いけど」
しかし真面目な彼女からして、何となく起きていそうな気もする。転がっていたカバンを拾い上げ、僕は危なっかしい足取りで歩き始めた。
マンションのドアを開くと、すぐにパタパタと足音が響いてくる。
部屋は薄暗く、ダウンライトを残すきり。たぶんベッドに寝転んで、本でも読みながら帰宅を待っていたのだろう。
視界に現れた少女は泣きそうな顔をしており、僕の胸はズキンと痛む。
すると寝巻き姿のマリーは、何も言わず胸に飛び込んできた。慌てて肩と背中をかかえ、その柔らかく温かい身体にジンとしてしまう。わずかにかがみ、互いに背中へ腕をまわし、ぎゅうと思わず抱きしめあう。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「…………ん」
鼻先を押しつけ、もう少しマリーは首筋へと潜り込む。
ぐすんという音が聞こえ、僕の胸はさらに痛んだ。ぐす、ぐすん、と何度も鼻を鳴らし、それから身体を少しだけ離し、涙に濡れた薄紫色の瞳を見せてくる。
それは初めて見るエルフの涙だった。
透明な雫ははらはらと流れ、顔を押し当ててくると温かいものがシャツに染み込む。もう一度、薄紫色の瞳を覗かせたとき、彼女の眉は困ったような形に変わっていた。
「おかしいわ、泣くはず無かったのに。まだかな、まだかな、って待っていただけなのよ? ウリドラと本も読んでいたのに」
口調は落ち着いているものの、涙は後から後から流れてゆく。抱きついているせいでぬぐうことも出来ず、僕のシャツへと染み込んでゆく。
困ったような表情は、きっと自分でも感情をよく理解していないのだろう。
待たせてごめんなさい、と抱きしめながら思う。そして、ほんの数時間ほど離れていただけで、なぜ泣いてしまうのかを互いに考える。
とく、とく、と重ねられた胸から心音が伝わり、ようやくその答えに気づいた。僕らは日本、そして夢の世界でいつも一緒に過ごしている。たったの七ヶ月でも、それ以上に同じ時間を過ごし、通じあっていたのだろう。
それに気づいた僕らは、こつんと額同士を合わせ、互いに眉尻を落としてしまう。僕は罪悪感、そして彼女は寂しいという感情による表情だ。
「困ったわ。私、自分で考えているより、あなたのことが好きなのかもしれないの。ね、愛していると言ったら男性は重いと感じるものかしら?」
「あ、いや全然、むしろ嬉しいくらいで……」
そう答えると、少しだけ彼女の瞳は輝いた。
「そう、なら今夜みたいな事が起きないよう言わせていただこうかしら。一廣さん、おかえりなさい。早く帰ってくれば、もっと愛してあげますからね」
ちう、と小さな唇から吸われ、思わず僕の顔は熱くなる。
これは反則だろうと思う。口づけを受けながら、時折ちらりと薄紫色の瞳から見つめられるのは……愛らしくて困ります。これからは帰り道のあいだ、ダッシュをしてしまいそうなほどに。
とはいえ今夜は遅れての帰宅なので、悲しいことにご褒美は少しだけだ。不意に彼女は離れてゆき、その替わりグイと僕の手が引かれる。
「身体が冷えているし、はやくシャワーを浴びて着替えて頂戴。それで、徹さんとの相談って何だったのかしら?」
「あ、そうだ、すっかり忘れていたよ。いやぁ、僕としたことがうっかり彼を夢の世界に連れて行ってしまってね」
いや、まいったまいったとスーツを脱ぎながら伝えると、着替えを手伝おうとしていたマリーは凍りつく。受け取られるはずの上着は、そのままフローリングへ広がる事になった。
しかし少女は動けず、何をどう考えて良いのか分からない、という風に小首を傾げて頭の上にクエスチョンマークを乱舞させる。
「え? え? いったいどういう事かしら? だっていま夢の中にいるってことは……まさか一緒に寝たの?」
「そんな誤解されるような言い方を……。違うよ、酔っ払って路地裏で倒れちゃったんだ。これからは本当に深酒をしないよう気をつけないとなぁ」
そう答えながら僕は上着を拾い上げる。
ハンガーにかけ、キャビネットに入れてもマリーは微動だにしなかった。
「そ、それで、徹さんは今どうしているのかしら?」
「さあ、着替えてからウリドラと話でもしてるんじゃないかな。だってほら、マリーのほうが心配だったから。ふぁー、さすがに眠いなぁ」
いっそのことパジャマに着替えてこのまま寝ちゃおうか。どうせ向こうにも温泉はあるんだし。などと悠長に考えていたら、背後から声をかけられた。
「あ、あなたって、私以外の人には無頓着なのね。何となく分かっていたし、ちょっとは嬉しいけれど、いちおう人命がかかっていると理解したほうが良いわよ?」
「はは、そんな大げさな。夢の世界なんて安全で楽しい場所なんだし。別にモンスターから襲われるわけじゃ……」
あ、いたか。人に襲い掛かるモンスターが。というか襲い掛からないモンスターはいない。面白いことに、彼らはいつだって人間が大嫌いなんだ。
「そうか! もしもモンスターと戦う遊びを覚えたら、日本に帰りたく無くなってしまう、というわけだね?」
「もー、違うわよ! あなたっていっつもそう。みんながみんな、魔物と戦うのを楽しいと感じるわけじゃないの!」
ははは、大げさだなぁ。
モンスターと戦うのを楽しまない人なんて居るわけないのに。などを笑いかけたのに、背中をグイグイと押されてしまう。
「そういう事ならシャワーは無し! 早く寝ましょ!」
「あ、そう? 何か忘れている気がするけど……まあいいか」
思い出せないなら大した用事でも無いだろう。
しかしそれは大きな過ちであり、後日ひどい目に合わされるのだが――この時はマリアーベルと布団に入り、互いに抱き合っているうちすっかり忘れてしまった。
きっと彼女の言う通り「マリー以外には無頓着」なのかもしれない。いや、勿論そんなつもりはまったく無いんだけどねぇ。
風に乗ってか、窓の外から虫の音がチリリと響き、僕らは眠りについた。




