第191話 エルフさんと読書の秋
お風呂からあがると、マリーは静かに本を読んでいた。
パジャマ姿で椅子に腰掛けており、音も邪魔なのかテレビは既に切ってある。その様子を見て僕の進路は冷蔵庫へと変わる。
少し悩んでからコーヒー牛乳を作ることにした。彼女が最近愛用しているマグカップは犬の目鼻が描かれたもので、ぺろりと舌を覗かせている可愛らしいものだ。
うっすらと湯気だつコーヒー牛乳を注ぎ、そのまま少女の隣へ腰掛けた。
すると少女は顔を上げ、頬へと感謝の口づけを受けて僕は驚く。何が驚くって、たっぷり十秒ほど経ってからキスに気づいた点だ。それくらい僕らの間では自然な行為になりつつある。
指先で頬に触れている僕へ、マリーは身を寄せてきた。
「ねえ、あなたの薦めてくれた本、ここの流れがとても好き。今まで平穏に過ごそうと思っていた彼女が、ついにひっそりと牙を剥くの」
「うん、溜めに溜めた想いが、ようやく形になる時だね。そこから先は、たぶん終わりまで読むのを止められないと思う」
例えて言うなら最後に加速をするジェットコースターだ。
長いページを割いて主人公たちのキャラクター性、周囲の取り巻く環境、そして難題が暗雲のように世界を暗くしてゆく様を描写する。
王女、それに悪魔という組み合わせにはファンタジー感があり、女性には特に楽しめると思う。ただし欲望渦巻く世界であり、対象年齢はやや高めかな。
読者でさえ「これはもう無理だ」と思えるような状況へ、しかし主人公だけに出来る解決策が、切れ味の良いナイフのように核心へと突き刺さる。
ぐさり、ぐさり。一度ではなく何度も切りつけて、暗雲は払われてゆく……ように見せておきながら、今度は隠れていた難題が逆襲の牙を剥く。
そのような手に汗握る展開は、エルフにとって新鮮だと思う。じっと熱い瞳を注ぎ、それから先は丁寧にページをめくる作業だけを繰り返す。同じように僕も本を手に取ると、ゆったりと異なる世界へと足を踏み入れてゆく。
部屋にはページをめくる音、たまにコーヒー牛乳を飲む音、それからいかにも眠そうな黒猫の欠伸。
そんな単調な空間だけど、少女の内側はぐつぐつと煮立つ料理のように別物だ。主人公の持つエネルギーに触れ、小気味良く核心を粉砕する様子をついに見終え、ようやく少女はうっとりとため息を漏らした。
「ああ……、凄かったわ。同じ女性なのに憧れてしまいそう」
「凄いよねぇ。僕は今でも続刊が出ないかと期待しているんだよ」
そう伝えると、少女は「えー!」と驚いた顔をし、それからむすりと唇をとがらせる。主人公の持つ熱気にあてられてしまい、続きを読みたくて仕方ないのだろう。
「ずるいわ。あれだけの事をして、成し遂げた結果を見せてもくれないなんて。そんな事をされたら、たくさん想像をしてしまうじゃない」
「それが良いんだよ。その後に何が起きたのか、想像をして好きなだけ楽しめる。もちろん僕らとしては正解が気になって仕方ないけれど」
ふふっ、とマリーは笑う。それから僕の手を取り「もう寝ましょう」と囁いてきた。
気づけばもう遅い時間だ。もちろん世間一般では早い就寝時間にあたるけれど、僕らにとっては夜更かしにあたる。
それが何故かと言うと……そこまで考えたとき、はっと大事なことを思い出した。
「ああ、そういえば今日は第二階層のプレオープンと言っていたかな」
「そうだったわ! ごめんなさいウリドラ、さっき何度も鳴いていたのはその事だったのね!」
あれ、そんなやり取りがあったかな。そういえば本を読んでいたとき、鳴いていたような気も……。
ベッドに丸くなっていた黒猫は、ふすーと呆れたような息を吐く。それから尻尾でぽんぽんと布団を叩いて「早くいらっしゃい、もう始めているわよ」と誘いかけてきた。
使い魔が呼んでいるように、僕らは日本だけではなく夢の世界で遊ぶことが出来る。
互いの世界は時間がちょうど反転しており、夜の十時が朝の十時に切り替わる。そこは剣と魔法が当たり前であり、こちらとまるで異なる世界だ。しかし、どちらであろうと僕らが楽しむことに変わりは無い。
エルフの少女は僕と抱き合って眠ることで同行でき、ただの夢ではなく異なる世界への扉を開く。というよりも、彼女は本来であれば幻想世界の住人なのだから、日本へ招いていると言ったほうが正解か。
布団を持ち上げて、肌触りの良いシーツへと身を滑らせる。
先に待っていた少女は頭を持ち上げたので、その隙間に僕の腕を入れる。すると、いつものようにちょうど良い枕へと変わった。
部屋にはダウンライトの明かりだけが残され、秋ならではの居心地の良い空気を覚える。もぞもぞと頭の位置を調整しながらマリーは話しかけてきた。
「ふうん、これが読書の秋ね、しっかり堪能したわ。まるで図書館にいるように落ちついていて、文字がすっきりと頭に入るの」
「それじゃあ今夜はどうしようか。絵本はお休みしておくかい?」
エルフは口元をほころばせ、それから内緒話をするよう耳元へ囁きかけてくる。こしょこしょとくすぐったく、聞こえてくるお願いも可愛らしくて参ってしまう。
「……それじゃあダイヤモンド隊には、もうしばらく遊んでいてもらおうか」
「ええ、そうしましょ。こちらは読書の秋を楽しまないともったいないわ。ええと、続きはこれね」
少女は腕を伸ばし、図書館から借りてきた枕もとの絵本を掴む。
すると僕の視界は暗くなり、ふかりと柔らかなものが鼻先に触れてしまう。こればかりは流石に赤面をしてしまうが、露になった視界ではマリーが「ごめんなさい」と頬を赤らめ、小さく舌を覗かせていた。
甘く漂う女の子の香り、それに肩へと乗せてくる頬も身体も柔らかい。
僕としては読書の秋を堪能したいけれど、なかなかそうもいかないらしい。ただ、エルフさんとしては過ごしやすいこの時期を、気に入ってくれたように思える。
絵本を読み始めると同時に、僕らに挟まれるよう丸くなっていた黒猫は、ふすんと諦めぎみの溜息を吐いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは幾日も前のこと。
かつてホラーのように恐ろしい一夜を過ごした黒薔薇の館。ここにはダイヤモンド隊と呼ばれる屈指の実力を持った者たちが住んでいる。
勇者候補ザリーシュが集めたメンバーであり、粒ぞろいの美しさ、宝石箱のように色とりどりの瞳をした彼女らだが、今の光景は少々珍しい。というのも統主であるプセリ、それにダークエルフのイブが、居心地悪そうに身を縮めて床に正座していたのだ。
それを囲むのは、かつて宝石箱と呼ばれた者たち。今では奴隷のような生活から解き放たれ、個性という本来の色を取り戻しつつある。それにしては仁王立ちをしており、やや色気に欠けているかもしれない。
彼女らダイヤモンド隊はまだ再編成をしてから日が浅く、上下関係というものがまだ薄い。そのせいもあり、昨日の疑いを糾弾している最中なのだ。その疑いとは何の断りもなく二人が一泊したことであり、ご機嫌そうな様子から「まさか内緒で遊んで来たのでは?」という疑惑、疑念、嫉妬という感情が部屋に渦巻いている。
そのような感情にさらされ、プセリは宵闇色の髪を揺らしながら顔を持ち上げた。
「あ、貴女方、何か誤解をしているのでは無くて? 私たちは怪物を討伐するという大事な役目を受けて……」
その言葉をさえぎるよう、一本の手が挙がった。
彼女は蛮族ならではの怪力を備えており、隊の中では最も長身だ。全身を厚い筋肉で覆い、その上から要所のみを牛柄の布地で支えている。
そのくせ腰のくびれは細く、太ももは皆にくらべて数段太い。また胸はいかにも柔らかそうに布地を膨らませているのだから、周囲の者たちは不思議だと感じている。
「で、そのうっすらとした日焼け跡は何だ? よく見たら陽に晒すにしては面積が小さいしさ。まさか下着で砂漠を歩きまわってたのか?」
「違いますわ。これはれっきとした水着というもので、海で遊ぶには……もがっ!」
同じく正座をしていたダークエルフのイブは、慌ててその口をふさぐ。
洋服のセンスを疑われた事をプセリは即座に否定したのだが、この場合は最悪の部類だろう。イブは青い瞳を見開き、それからゆっくりと皆の顔を眺めるが――時すでに遅し。「海」「遊ぶ」という単語が出た以上、虚偽は真実へと書きかわる。
「おいおい、海って、あの海か? 青くて塩辛い水がたくさんある海か? そこまでしたら遊びどころかバカンスだろ?」
その女蛮族の言葉に、ゆらりと近寄ってきたのは青い髪、そして巻き角をつけた女性だった。彼女は、悪魔族の血を残しており、名をイスカと言う。
先日の戦いでも魔剣士として前線を切り裂き、その冷静沈着な剣さばきは協力戦線においても名を高めつつある。
冷静な抑揚の少ない声で、彼女は化粧っ気のない唇を開く。
「つまり、私たちを置いて海に行った、ということか。怒らないから言って欲しい。ん? どんな美味しいものを食べた?」
ほんと? 怒らない? と何度もダークエルフは問いかけて、イスカはその度に頷く。
そもそも遊びに行っていたのは本当なのだから皆には謝らないといけない。そうイブは思っていたのだし、怒られないという事なら好機でもある。ならば今こそ打ち明けるべきだ、と考えた。
「カレーっていう料理があってね、すごく美味しくて忘れられないなぁ。辛いんだけど下味に甘味があってね、それが米と絡むと……えへへ、チョー絶品で三杯くらいペロリ」
約束どおり、確かに悪魔族は怒らなかった。
ピースサインを向けられようと、こくこくと頷いて「そうか」とだけ答えてくれる。しかし、他の者達はというと……眉間へ皺を刻み、見下ろして来る迫力へダークエルフは血相を変えた。
恨みの種類で言うと、食べ物に関することが上位に挙げられるのは言うまでもない。あらゆる世界の常識である。だからこそ周囲から、へえ、ふーん、ほお、絶品でしたかぁー、と恨み混じりの声が漏れ、だらだらと二人は汗をかく。
プセリは口元を押さえる手をベリッと引き剥がし、慌てて弁明した。沈没しようとする船に、いつまでも乗ってはいられない、という表情だ。
「わ、私は一杯しか食べておりませんわ! 皆のことを思えばこそ、後ろ髪を引かれながらも離れたのです!」
「ちょ、ちょっとプセリ、一緒に浮き輪で泳いだ仲じゃん!? それにホラ、あれだけお酒が美味しいって言ってたし、美人だ何だともてはやされて……もががーっ!」
もう駄目だった。秘密にしていた情報はことごとく暴かれ、それどころか交互に自白をしてしまう始末。ダイヤモンド隊はただでさえ命をかけて古代迷宮を攻略している最中なのだから、ふつふつと皆の怒りは湧き上がる。
その恐ろしさからプセリとイブは思わず互いに抱きしめ合い、だらだらと嫌な汗をかいた。
さて、そのようなどうしようもない経緯があり、皆を慰安するためのバカンスを急遽開催することになった。
折しも第二階層広間の完成した時期でもある。話を聞いた魔導竜ウリドラが「それならば居心地の良さを試す良い機会じゃ」などと手を差し伸べてくれた。
これが渡りに船となるか、はたまた毒を食らわば皿までになるかは分からない。何しろ正体の知れぬ黒髪美女からの誘いであり、しかし隊の皆は「行きたい行きたい!」と駄々をこねてしまう。
どうやら噂によると第二階層広間は、大きく生まれ変わったらしい。楽園のように美しいという言葉に、一部の者は不安を抱えつつも、他の者たちは夢いっぱいで訪問することになった。
そのように、第二階層広間のいわばプレオープンは始まったわけだ。




