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目を瞑れ  作者: くせ毛
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青く見ゆるは、

 性格とは、欲求よりも生理現象に近い。俺にとって謙虚や配慮、遠慮は水が上から下に流れるのと同じく、ごく当たり前のこと。ちょっとした汚れが気になるのも、相手の考えていること何となくわかるのも、施しを断るのも、褒め言葉を受け取らないのも、全て俺にとっては然るべきものなのだ。

 当然であるがゆえにそれは改めることが難しい。花粉症を患う者に「くしゃみをするな」と言っても、そんなことは出来ないのと同じだ。生理現象は抑えられない。

 俺は改善しようと心掛けている。しかし、今のところ出来てはいない。一朝一夕で出来ない程度ならまだしも、俺が費やした時間は約五年だ。しかも、その間に何か進歩があったか、と言われると「ない」と答えるしかない。この「ない」という表現も実は控えめなもので、実際のところは悪化している。

 小、中、高、と進学するにつれ、その社会は複雑になる。日本人らしさという処世術は、社会の複雑さに比例して利便性を上昇させる。それはつまり、より日本人らしくなるということだ。脱日本人を掲げる俺にとってそれは一層溜息を加速させる。

 俺は朝の教室で、自分もまだまだだなあ、と思った。

 前の席には図体のでかい赤井という男がおり、俺のノートを写している。課された宿題をやってこなかったのだ。それだけならば、何も問題はない。

 しかし、問題はある。「彼でなく俺に」だ。俺は、どことなくそわそわしている赤井を見て、宿題をやっていないことを察してしまった。

 気付いてから後悔した。ああ日本人だ、と。

 宿題を写し終わった赤井はこちらに振り向く。

「すまん、助かった」

 ノートを受け取る。

「どういたしまして」

 そして、俺の犯した罪はこれだけではない。

 和泉の席は俺の後ろ。その彼女もどうやら宿題をやってないないと見える。大方、俺が赤井にノートを貸してしまったので順番待ちをしているのだろう。

 赤井から返してもらったノートをそのまま後ろの席へと回す。

「俺の写すか?」

「なぜ私が宿題をしていないことが分かったのですか? すごいです、配慮です」

 彼女はノートを受け取る。彼女はその言葉が俺にとって褒め言葉ではないことを理解していないらしい。彼女にとってそれは褒め言葉であろうから、彼女は俺を褒めているのかもしれないが。

 俺には気にかかることがあった。

 赤井が忘れる、というのはわかる。おそらく宿題の存在自体を忘れていたか、怠けてやらなかったか、だ。しかし、こと彼女に関しては違う。彼女から受ける印象はどちらかというと真面目なもの。淑女的と言った方が正しいかもしれない。

 そんな、彼女が宿題を忘れたりするだろうか?

 その答えは、あっさりと彼女の口から吐かれた。

「昨日、学校にノートと教科書を忘れてしまって、宿題をやろうにも出来なかったのです。ありがとうございます。助かります」

 どういたしまして、と不機嫌気味に言ってノートを渡した。





 気付けば俺の高校生活は幕を切っていた。授業も通常通り進められる。高校生活に少し華々しい期待をしていたのだが、そんなことはないらしい。それがあまりに音もなく始まるので、拍子抜けであった。

 今日の一限目は体育であった。一日の始めから体力を使うとなると、後の授業に支障が出てしまう。体力は節約しよう。

 教室で体操着に着替え、校庭へ急いだ。

 朝一ということと、体操着という薄着のせいで肌寒い。太陽の光は雲に遮られることなく地上まで届いている。昼からは暖かくなりそうだ。

 俺は今まで運動という運動をしてこなかったので、体育はどうも苦手だ。できることなら、ずっと見学をしていたい。まあ、そういう訳にもいかないか。

 そんな冗談に現を抜かしていると授業開始の時間になる。

 戸橋高校の校庭は割と広い。学校の敷地のうち約六割が校庭。

 体育教師は生徒を集め、出席番号順に五列横隊で並ばせた。体育の授業は学年で一斉に行われる。そして、男女別で行われる。つまり、今校庭には一年男子が全員揃っているということだ。

 戸橋高校の生徒数は約千人。うち三分の一が一年生で、さらにその半分が男子である。なので、計算に間違いがなければ今ここにいる男子は約百六十人と言ったところ。欠席者も考慮すれば、もう少し減る。

 隊列はクラスごとに作られているので、隣にいるのは赤井。

 それから同じクラスの名前は知らない某君。中性的な顔立ちと、男子にしてはやや長い髪。痩せ型というのもあって、遠くから見れば女子に見えるかもしれない。

 彼は独特の雰囲気を持ち合わせていた。どことなく近寄りがたいというか、他者を寄せ付けないというか。素直に思ったままを口にしよう。――彼は友達が少なさそうだ。

 体育教師の授業説明が終わる。一年生前期の体育は「体作りとトレーニング」という授業計画らしい。競技系の授業になるのは後期からだそうだ。

 体育教師が「ちょっとやってみましょう」と言い、さらに「二人一組を作ってください」と言った。予想していた懸念が的中した。

 俺は赤井と二人組を作る。そして、

「ちょっとこっちに来い」

 と、彼を某君のところまで連れて行った。

 赤井は不思議そうな顔で、

「二人組だろう?」

 と、眉間に皺を寄せる。某君も同様であった。

「一人あぶれて先生と組まされるより、三人でやった方がいいだろう?」

 そう言った俺に、二人とも首を傾げた。

 教師の手本を見ながらトレーニングを開始する。どちらかと言えばストレッチに近いな、とか思っていると、赤井が前屈の姿勢で訊いてきた。

「なぜ一人あぶれる、と分かったんだ」

 俺は赤井の背中を押し前屈を助ける。

「ここにいる人数が奇数だとわかったから、だ」

 そう答えるが、赤井は納得できていないようだ。

 次に俺は某君の背中を押す。彼は赤井の言葉を継ぐように訊いてきた。

「じゃあ、なんで奇数だってわかったの?」

「五列横隊ならその隊列の一番後ろを見れば、奇数か偶数かは分かる」

 五列横隊には、最後列が奇数なら全体も奇数になり、同様に最後列が偶数なら全体も偶数になるという性質がある。

「でもそれでわかるのは、そのクラスの隊列だけだよね?」

「あとは奇数と偶数の加減法でわかるだろう」

 さらに交替。今度は俺の背中を赤井が押す。なるほど、と彼は何度か頷く。それに合わせて押す手に力が入る。――い、痛い。

 今度は二人一組で腹筋。俺が赤井の足を抑える。

 某君は申し訳なさそうな声で、

「もしかして、僕に気を使ってくれたの?」

 と呟いた。

 いやいや違うよ全然そんなんじゃない、と言ってもよかったが、生憎俺は嘘が下手くそだ。だから、とりあえず笑顔で返すことにした。若干ぎこちなかったので、苦笑になってしまう。

「なんか、ごめんね」

 彼はさらに申し訳なさそうな顔になる。交替。赤井が俺の足を抑える。

 なんとなく気まずい雰囲気を赤井は鼻息で一蹴した。

「そういえば、お前なんて名前だ? 俺は、赤井昌吾。こっちのろくに腹筋もできないのが、泉妻弘一だ」

 なにおう、と赤井を睨んだ。

稲生いのうです。下の名前は、女の子みたいで好きじゃないです」

 某君、もとい稲生はそう言った。

 体育の授業が終わる。次の授業は化学。今日は座学でなく実験をするらしい。少し急ごう。





 午前中の授業が終わる。四限は移動教室であった。

 自分の教室へ戻ってすぐに赤井が「トイレに行こう」と言うので、俺はそれについていった。

 教室に帰ってみると、後ろにいるはずの和泉の姿はどこにもなかった。特に気にもせず、弁当を広げる。赤井は後ろを向き、俺の机に弁当を広げる。

 いただきます。

「そういえば、お前文芸部に入ったんだってな」

「ああ、まあ、なんとなくな」

 俺は文芸部に入った。部員も少なく、本を読んでいれば活動として成り立つ、そんな自由な場所が俺には心地よい。

 俺は例によって例のごとく赤井に聞き返す。

「お前は、何か入ったのか?」

「俺は剣道部だ」

 赤井は誇らしげに胸を張る。

 へぇ、と興味なさげに俺は返事をした。しかし、内心は少し驚いていた。俺は赤井が柔道部、もしくはレスリング部にでも入るのかと思っていたからだ。

 赤井にその驚きが伝わったのか、彼はこう付け加えた。

「本当は柔道部に入りたかったんだ」

 そこまで聞いて俺は「ああ、そういえば」と思った。

 赤井は続ける。

「でも、この学校に柔道部はない」

「それなら、仕方がないな」

 俺も赤井も「はは」と乾いた笑みを浮かべる。

「なら、なぜ剣道部なんだ?」

 俺の質問に赤井は少しの間悩み、腕を組んだ。

「同じ武道だからってのが一番の理由だが、ほかにも理由はある」

 俺は相槌を打つ。赤井はそれを見てから続けた。

「柔道には階級がある。俺は八十一キロ級だ。しかしだ、剣道には階級がない。そこが柔道と違って面白そうだ、と思ったんだ」

 俺は弁当のだし巻き卵を食べながら、またまた「ふうん」と適当に返事をした。

 俺は素直に感心していた。やりたいことがない俺にとって、何かをやろうとする彼の姿は少し眩しい。感心というよりも羨望というほうが合っている気がする。

 気が付くと和泉は後ろの席に座っていた。「どこへ行っていたんだ?」と聞かなくても、彼女は勝手に答えた。

「今日はお弁当を持ってこられなかったので、購買のパンです」

 和泉は両手にあんぱんとジャムパンを持ちそう言う。

 甘ったるい昼食だなあ。彼女もそれには一理あるらしく、

「これしか残っていませんでした」

 と苦笑を浮かべ、俯いた。

 最近気づいたことがある。和泉香穂子は交友関係が広い。人見知りもしない。「友達の友達は、友達」と言わんばかりに赤井とも仲良くなっていた。

「それで、お二人は何の話をしていたのですか?」

「部活についてだ」

 俺がそう答えると、また赤井は柔道と剣道の違いを語った。

 それから付け加えて、

「俺が高校の内に取れる段位は、二段までなんだ。とりあえずそれが目標だ」

 と言った。

 ああ、そういえば剣道はそんな制度だった気がする。次の段を取るには一年間の修業が必要だ、とか。

「私にも目標はあります。日本人になることです!」

 そう言う彼女に赤井は首を傾げた。和泉は赤井に「日本人の理想像」を語る。そして、それを聞いた赤井は俺を見る。俺は肩をすくめ、目を逸らした。

 皆、昼食を食べ終え、片付ける。そこで丁度、授業開始五分前の予鈴が鳴った。

 五限目は四限目に引き続いて移動教室。赤井は俺とは違う教室、俺と和泉は同じ教室であるので、赤井は先に行ってしまった。

 俺は和泉が「少し待ってください」と言うので、少し待つ。彼女は机から教科書とノートを取り出す。

「では、行きましょう」

 彼女が勉強道具一式を抱えてこちらに駆け寄って来た。

 ここは相手への謝罪の意を込めて「お待たせしました」だろう、と思ったが、言わないでいた。目標がないことは、もしかすると日本人らしいのかもしれない、と落胆していたのだ。

 朝とは打って変わって、少し汗ばむ程度に気温が上がっている。

 もう春か、と思うとあくびが出た。





 今日の授業が終わり、放課後。午前中の体育と食後のせいか授業中はなかなかに眠たかった。あくびは治まりそうにない。

 俺は一度伸びをした。

 赤井は既に部活へと向かった。俺もそろそろ部室へ行こうか、というところで宮町先生が教室に入ってきた。何をしに来たのだろう、と様子を窺う。

 先生は教卓の隅に何か小さな紙を貼るとすぐに教室を出た。なんだろう、と野次馬根性でそれを見に行った。

 その紙は葉書ほどの大きさで、縦七横六の格子の中にクラスメイトの名前が書かれていた。

 端から、

『赤井し、泉妻ひ、和泉か、稲生い』

 と言った具合だ。苗字の後の平仮名は、名前の頭文字であろう。

 稲生の名前は確か「女の子みたい」だったか。ふむ。

 和泉は今日の日直であるので日誌を書いている。まだ少し時間がかかる、と言う。俺は先に教室を出て、部室の鍵を取りに職員室へ向かった。

 顧問の宮町先生から鍵を受け取り、部室へ行く。上級生達がいる四棟の階段を上るのは億劫であったが、上級生達にとって他学年の生徒が部室へ行くのにその階段を使うのは常なことらしく、特に怪訝な目で見られることはなかった。

 部員数が文化系の部活で二番目に多く、がやがやと少し騒がしい天文部の部室を通り過ぎ、突き当りの我が文芸部部室まで到着する。

 鍵を挿す。かちゃり、と硬質な音を立てて部室の扉は開錠された。

 部室の中からは、天文部の声はほとんど聞こえない。そちらよりも、校庭から聞こえる運動部の怒号の方が余程うるさい。

 席につき備品の四六判を開いた。

 俺がこの部活に入った理由は、飽くまで何となく。読書に目覚めたわけではない。読みたいわけでもないのに読書をしているためか、本の内容はあまり頭に入ってこない。面白いかどうかで言うと、面白くはない。

 そんな俺に対し、和泉はどうなのだろうか。何か目的が合ってこの部活に入ったのだろうか。

 思考が本から離れると、いよいよ本が読めなくなってくる。ただ、文字を追っているだけで、それはもはや読書ではない。

 そう気付いて数ページ戻った。

 部室の扉が開く。

 この部室に訪れるのは、俺以外に二人しかいない。きっと宮町先生ではないだろうから、和泉だ。そう予想して開かれた扉を見た。

「遅れました」

 予想は外れなかった。

 彼女は俺の向かいに座る。

「ああ、日誌なら仕方がない」

 俺は本に目を落としたままそう言った。そして、彼女に疑問をぶつけた。

「お前は何でこの部活に入ったんだ?」

「静かに本を読む、というのは、楚々とした日本人の美しさに通ずるところがあります」

 和泉は拳を握り、説明する。やけに力が入っている。

 なるほど、と思った。しかし、ほとんど無意識にこの部活を選んだあたり俺もまだまだ日本人だな、とも思った。

 彼女は拳に一層の力を入れ、語る。

「私は将来、看護師になりたいと考えています。ですが私には『気遣いの心』が足りません。だから、日本人らしくなりたいのです」

 そうかい、と彼女へ適当に返す。さも「興味なんてありませんよ」と言わんばかりに。

 しかし、どうも彼女の語りは読んでいる本の内容をより希薄にさせてしまう。

「泉妻君には将来の夢がありますか?」

 和泉は読書を勤しむ俺にそう訊く。配慮が足らんな。

 俺は内心どきりとしていた。この手の質問は、幾度となくされてきた。だが、まともに答えられたことはたったの一度もない。自分が何をしたいか、どうなりたいかなど皆目見当もつかない。

 かといって「ない」言えば、「夢がない奴だ」と罵られる。だからこの質問には、収束的解答を少し誇張してこう返すことにしている。

「金持ちになり、俺の名をこの世に刻む、それが将来の夢だ」

「野心家なんですね」

 そうではない。全くをもって否定する。

「いや、自分のためではない。家族のためだ」

「親孝行ですね」

 そう言えば聞こえは良いが、それもまた違う。

「ただ封建的なだけだ」

「なら私は民主的なのでしょうか?」

「さぁな」

 俺はそう肩をすくめる。

 封建的と民主的。どちらが日本人らしいであろうか、と俺は考えた。しかし、考えるまでもなく、そんなことを考える俺は結局日本人なのだろう、と肩を落とした。

 和泉香穂子には悩み事が尽きない。

 将来の夢の話が終わると、彼女は目を瞑り考え事をし始めた。俺はまだ本を読み進められていない。

 彼女は暫し「うーん」と悩み、徐に顔を上げた。

「あの、泉妻君は女の子が好きですか?」

 質問の内容が内容なだけに、俺は思わずむせ返ってしまった。唐突に何を言いやがる。

「どういう意味だ?」

 動揺を落ち着けながら、質問に質問で返す。

「すみません、きっと言葉が少し足りませんでした」

 少し、なわけあるか。

 そこで俺は気が付いた、彼女が何を言いたいかを。

 俺は「またやってしまった」と思った。これは配慮に当たるからだ。

「つまり同性愛に理解はあるか、ということか?」

「そうです。それです」

「すまんが、露ほどもない」

 そう答える俺に彼女は困った顔をする。少しの間、彼女は眉間に皺を寄せ、目を瞑る。そして、意を決したように俺を見つめた。

「では、これを見てください」

 彼女はそう言って俺の前に紙を置く。

 手元の文庫本よりも少しサイズの小さい便箋が、カラフルな洋形封筒から出てきた。皺ひとつなく角も折れていない。そこには丸い字でこう書かれていた。

『いづみさんへ 

 私はあなたのことが好きです。一度お話がしたいです。明日の放課後、体育館裏で待っています』

 ころころとした丸い字。これを男子が書いたというなら、顔が引き攣ってしまう。

 これはいわゆる、恋文というやつだ。

「私の机に気付いたら入っていました。でも、これは女の子の字です。おかしいです」

 彼女は身振り手振りで説明する。

「これは本当に私宛てのものなのでしょうか? どうも腑に落ちません」

「俺にそれを解明しろと?」

「そうです。私にもわかるようにお願いします」

 彼女は身を乗り出す。

 俺は辟易しながらも、右手の爪を噛んだ。噛む、というよりは歯で爪を弾いているだけなので、爪が短くなりはしない。左手で本を閉じる。

 そうして俺は推理に至る。

 秒針が二、三周したところで考えがまとまった。

 和泉は目を輝かせ、俺の推理を今か今かと待ちわびている。そんな彼女の目からはどうにも逃れられない。

「結論から言うが、これはお前宛てではない」

「なぜですか?」

 彼女は首を傾げる。

「それは……」

 続きを言いかけたところで、彼女に制された。

「ちょっと待ってください。私に考えさせてください」

 彼女は目を瞑る。そしてすぐさま、その目を開いた。

「わかりません。ヒントを下さい」

 諦めが良いことで。良いだろう、推理させてやろう。

 彼女は左手で右肘を抱き、右手を顎に当てる。そして首を傾げてから、また目を瞑った。

 俺は先ずどこから説明すればいいかを考えた。よし、今日の一限の話からにしよう。

「今日、俺は同じクラスの稲生という男子と一緒に体育の授業を受けた。下の名前は、『女の子みたいだから』という理由で教えてもらえなかった。加えて、彼の下の名前はどうやら『い』から始まるらしい」

 ここまで言うと、彼女は俺の言いたいことに気が付く。

「なるほど、『いづみ』ですね。つまりこれは、『稲生君への手紙』なのですね」

 多分な、と俺は頷いた。

 彼女は傾けていた方とは逆に首を傾げる。

「でも、どうして私の机に?」

 その質問は予想していた。だから特に狼狽えず、

「どうして名前と苗字を間違えたのか、を考えてみろ」

 と返すことができた。和泉は依然として目を開けない。

「うーん、わかりません」

 彼女は唸る。傾いた首はさらに深く傾けられた。

「差出人は稲生の名前を知っている。では、名前を知らないのは誰だ?」

 少し謎めいた問い掛けになってしまったな、と言ってから思った。

 和泉は考える。その間ずっと唸り続けていた。考えている間は息をしていなかったのか、彼女は答える前に一度深呼吸をした。

「なるほど、『差出人』と『これを机に入れた人』は違うのですね」

 そうだ、と俺は首を縦に振った。彼女は続けて、

「つまり、差出人は他の誰かに恋文の投函を依頼したのですね」

 と目を開け、手を打った。

「そうだ。大方、『これをいづみさんの机に入れてもらえませんか?』とかそんな感じだろうな」

 いづみさん、と言われて和泉の机に入れてしまったのだ。

 しかし、彼女には重大な見落としがある。それに気が付けば、きっと彼女は「ああ、日本人らしくありませんでした」と肩を落とすだろう。

 和泉は自身の欲を最優先に行動する。それが満たされてからようやく次点の『他人の事情』を考え始める。そして、

「ああ! ではつまり、恋文は稲生君に届かなかった、と言うことではないですか。大変です。ああ、どうしましょう」

 と彼女は顔を青くする。

 時計をちらと見る。時刻は十七時前。下校時刻は十七時である。帰宅部の生徒はもう学校にいないだろう。

「稲生はもう帰っただろうし、どうしようもない」

 和泉はこの事に、もっと早く気が付くことができたはずだ。具体的には、俺が結論を言った時に。しかし彼女は、他人の事情よりも自らの欲を優先させた。それはつまり謙虚さが足りないということ。彼女は推理よりも、届かなかった恋文をどうするか、を優先しなければならなかった。立場をわきまえて遠慮しなければいけなかったのだ。

 しかし、時すでに遅し。後数分で完全下校の鐘が鳴る。

 和泉香穂子は少々我儘である。





 翌日。朝のホームルーム。

 担任の宮町先生が点呼をとる。「赤井、泉妻、和泉」といった具合に。そして今日、稲生の名前は呼ばれなかった。代わりに先生は、

「稲生君は今日、遠いご親戚のご葬儀でお休みです」

 と事も無げに言った。

 俺は「ご愁傷さまでございます」と心の中でつぶやいた。そして「ああ、これはいけない」と危険を予知した。

 いけない、和泉に悩みの種を与えてしまった。

 案の定、後ろの席の和泉が、

「どうしましょう、これでは差出人の方が待ち呆けてしまいます」

 と俺に相談を持ち掛けた。

 彼女の言いたいこと要約すると、

『手紙は届いていない。更に今日、稲生は休み。差出人は稲生が来るまで待っているだろう、彼が来ることはないというのに。それはあまりにかわいそうだ』ということであった。

 彼女にしては配慮ができているじゃないか、と思ったがそれは違った。

 彼女は、

「放課後体育館裏に行って、差出人に事情を話しましょう」

 と提案したのだ。

 だが、それはしてはならないことである。それは「あなたの恋文を覗き見ましたよ」と差出人に宣言するようなもの。青春を送っているであろうこの多感な時期にそんなことをすれば、差出人の自尊心を痛く傷つけるだけ。やるならもっと上手いやり方でやらなくてはいけない。だから、俺はこう彼女を否定した。

「それはダメだ。差出人のことを考えるとそんなことはできん。もうちょっと気を配れ」

 遠まわしに「日本人らしくないぞ」と言ったためか、和泉の表情からは不快の色が垣間見えた。

 続けて提案。

「そうだな、『稲生は今日忌引であること』を言い広めれば、ことは収まるだろう」

「どうしてですか?」

 和泉は不思議そうな顔をする。

「そうすれば、稲生が『たとえ行きたくても呼び出しには応じられないということ』が差出人に伝わる。事情を説明しなくても、な」

「なるほど良いアイデアですね」

 和泉香穂子の交友関係は割と広い。入学式の日に校舎見学をしていたことから考えて、行動力もある。そんな彼女なら、きっと昼休みにでも弁当を引っ提げて他のクラスへ駆けて行くだろう。

 俺はそんな彼女の姿を想像した。





 四限の終わりを告げるチャイムが鳴ると、和泉は足早に教室を出た。弁当箱を抱えていたところを見るに、俺の予想は外れていなかったようだ。

 いつものように机に弁当を広げる。前の席の赤井も器用な動きで後ろ向きに座ると、弁当を俺の机に広げる。そして彼は何か思い出したように「そういえば」と呟き、腕組みをしながら話し始めた。

「昨日、女子が俺のところへ来たんだ。確か五限目の移動教室の後だ。俺はいち早く教室に戻ったから教室には俺以外誰もいなかった。そこに彼女が来た。『手紙を机に入れてくれ』と言われた。今思うとあれは俗に言うラブレターだったのかもしれんな。女子が男子に手紙を送るとなれば、それしか考えられないよな?」

 そうだろうな、と俺は頷いた。

 それはあの恋文の事に違いない。しかし、どうもおかしい。俺の推理に当てはめると、赤井は『男子の机に』ではなく、『女子の机に』恋文を入れていなければならない。

 確認の意と、残されたわずかな可能性にかけて俺はこう彼に聞いた。

「お前、入れる机間違えたりしていないよな?」

「当たり前だ。何回か確認したしな」

 俺は落胆した。恋文は届いていたのだ。

 そして、赤井は俺に追い打ちをかけるように、

「稲生の名前が『いづみ』だとは、驚いた」

 と笑う。続けて、

「いやなに、その女子が『稲生いづみさんの机に入れてください』と言ったんだよ。そこで初めて知った。確かに女みたいな名前だ」

 と、にこやかな顔で話す。

 恋文の投函者は『いづみ』と『和泉』を間違えてはいなかった。それだけでなく『稲生いづみ』というフルネームまで知っていたのだ。更に確認も何度かした、と言う。

 これで、投函者が間違えて和泉の机に入れたという線はほぼ完全になくなった。

 俺は弁当をつつく箸を一旦止め、爪を噛む。

 そして推理に至る。悔しさからつい顎に力が入ってしまい、爪が欠けた。





 俺は一つの推理を携えて放課後の部室へ向かった。午後の授業中はその推理を詰めていく作業と、和泉にどう推理させるかで、ほとんど内容が頭に入ってこなかった。

 四棟の階段を上る。頭の中の推理を忘れないように何度か反芻する。

 よし、これでいいはずだ。今度こそ間違いない。

 欠けた親指の爪を人差し指でいじりながら部室の扉を開けた。

「何をしていたのですか?」

「ちょっとな」

 俺は彼女をはぐらかし、向かいに座る。

 和泉には先に部室へ行ってもらった。その間に俺は、やり切れなかった考え事と調べものを済ませたのだ。調べものは図書館で事足りた。考え事の方は調べもので大方解決した。

 後は彼女が目を瞑るだけ。

「実はな、昨日の推理には間違いがある」

「どういうことですか?」

「ああ、あの恋文、実は……」

 この先を言わせてもらえないことはわかる。

「ちょ、ちょっと待ってください。私に考えさせてください」

 彼女は案の定、目を瞑る。そしてすぐに目を開ける。

「わかりません。ヒントを下さい」

 俺が軽く頷くと、彼女は左手で右肘を抱き、右手を顎に当てる。首を傾げてから、また目を瞑った。

 良いだろう、推理させてやろう。

「今日、稲生は親戚の葬儀で学校を休んだ。これはお前も知っているだろう?」

「はい、ホームルームの時間に聞きました。ですから『稲生君は今日忌引だということ』を他のクラスに言いに行ったのです」

 和泉は確認するように何度が頷く。

 そして俺は、

「実はあの恋文、きちんと稲生の机に入れられていたらしい。赤井が入れたそうだ。お前の机と間違ったりもしていない」

 と肩をすくめる。

「本当ですか?」

「間違いないだろう」

 俺の言葉に和泉はさらに深く悩む。

 これだけではちと無理があったか、と俺はもう少し親切に導いてやることにした。

「では、日本の慣わしとして人が亡くなった後にすることは何だ?」

「通夜と葬儀ですね。それから、告別式もそうでしょうか?」

「そうだ。葬儀と告別式は同じ日に行われることが多い。そして稲生が参列したのは、葬儀なんだ」

 和泉は首を逆へ傾ける。

「ですが、それに何の関係が?」

「どれだけ急ぎ足で葬式が行われていたとしても葬儀が行われるのは、その親族が亡くなってから一日以上後になる」

 俺がやっていた調べものとは、まさにその葬式について。主に日程について調べていた。

「ああ、知っています。確か、亡くなってから二十四時間以内に火葬してはいけないのですよね?」

「そうだ、葬儀への参列は昨日以前から決まっていたことなんだ」

 通夜なら連絡がその日に来ることもあるだろうが、葬儀でそれは考えられない。考え事とは、この事だった。彼自身が葬儀へ参列することを前もって知っていた、という根拠か欲しかったのだ。

 要するに、これは一つの事情を示唆する。

 和泉は「うーん」と唸ってから、答えた。

「つまり、稲生君は『今日学校に来られないこと』を知っていたのですね」

 その通りだ、と俺は頷く。俺の相槌の後に彼女は目を開いた。そして半ば悲鳴のような声で「ああ!」と叫びながら手を打ち、

「だから、私の机に入れたのですね!」

 と、身を乗り出した。

 そう、和泉の机に恋文を入れたのは稲生。「学校に来られない」と分かっていたなら、「呼び出しには応じられない」ということも分かっていたはず。和泉の机に入れておけば「間違って投函してしまったのだ」と差出人を諦めさせることができる。あわよくば和泉がどうにかしてくれる、とも考えていたのかもしれない。

「でも、直接稲生君が差出人に事情を説明しに行けばよかったのではないですか?」

「人目をはばかるとそんなことは出来ないだろう。そもそも、それが出来たのなら苦労しない」

 そう俺は恋文を一瞥した。

「どういうことですか?」

「この恋文には重大な欠陥がある」

 俺は恋文を指差す。和泉は机に置かれたその恋文を見た。

 暫くの観察の後、彼女は一つ手を打った。

「ああ! 差出人の名前がありません!」

 差出人の名前がなければ、事情を説明しようにもできない。

 恋文が投函されたのは、五限目の後。翌日が忌引きとなれば、稲生に残されていた時間は、六限から放課後までの時間だ。差出人を特定するには時間が足りない。

 きっと和泉の机に入れる、というのは彼にとって苦肉の策だったのだろう。

 正直な話、俺は稲生を「根暗な奴、ひいては卑屈な奴」だと思っていた。しかし、俺が思う程そうではないらしい。稲生の行動心理はきっと「差出人に対して誠実でありたいから。折角の好意に対して失礼のないようにしたかったから」というものだろう。顔も、名前も、年齢も知らない相手の事をそこまで考えられるのだ、そんな彼が卑屈なわけがない。

 俺は彼の行動に得も言われぬ感情を抱いていた。

 恋文には署名がない。つまり、他人に読まれても差出人は特定されない。そこまで考えられている気がしてならない。

 俺はそんな彼の行動に、あまつさえ「なんと鮮やかなのだろうか!」と感嘆していた。それが『気を遣う』という日本人らしさであるにも関わらず、だ。

 日本人らしいことを悪徳とする俺は、それを許さない。「ダメだ、ダメだ」と自分を律すると、なぜかこの恋路の行く末が知りたくて堪らなくなった。





 稲生が休んだ次の日。俺はまた部室へ向かった。

 四棟三階の西端。東から数えて五つ目の部屋が文芸部部室だ。

 この学校の各教室には番号が割り振られている。例えば『四三五』なら、四棟三階の東から五番目にある教室なので、その数列は文芸部部室を表すことになる。

 四棟の西端まで来た。「文芸部」と書かれた表札の下には「四三五」と小さく記されている。

 もう一人の部員である和泉は、部室の前でひっそりと立っていた。今日は俺が鍵を取りに行く日であった。

 和泉は俺に気が付くと、ひらりと右向け右をした。

「ありがとうございます」

 いえいえ、どういたしまして、と俺は鍵を扉に挿した。立てつけの悪い扉を開けると、木と金属の擦れる音が廊下に響いた。

 いつもの席につく。ここ一週間ほど部室に通い同じ席に座っていたので、長机の東側が俺の席、向かいが和泉の席と固定されてしまった。特に不便も不満もない。強いて言うのであれば、西日が眩しいくらいだ。

 席に着くや否や和泉は少し落ち込んだ様子で口を開いた。

「そういえば、朝のホームルームで先生が『新入生の保護者向けの説明会を明日の放課後に行う』と言っていましたね」

 俺は頷く代わりに和泉を見た。彼女は続ける。

「それに伴って校舎へ入れなくなる、とも言っていました。明日は部活ができないのでしょうか?」

「それはないだろう。確かそれの会場は教室になる。もちろん一年生の教室だ。つまり立ち入りが制限されるのは三棟だけ、ということだ。この部室は四棟なのだから、部活ができないということはないだろう」

 そこまで言うと和泉はたいそうご機嫌な様子で、

「そういえば、そうでした。いらぬ心配でしたね。よかったです」

 と手を合わせて歓喜を表した。

 俺は備品の四六判を取り、昨日はさんだ栞のページを開いた。

 和泉香穂子には悩みごとが尽きない。

 昨日、一昨日は恋文。入学式の日には部室の鍵。

 入学して一週間が経とうとしている今、彼女が何かに悩まない日はない。

 そろそろ定理として認めてもよいのではないだろうか、などと考えている俺を彼女はあっさりと裏切った。

 和泉は俺の名を呼び、注意を引きつけてから、

「どうしましょう、悩み事がありません」

 と身を乗り出した。

「よかったじゃないか、悩み事がないのはいいことだ」

 俺は文庫へと視線を戻した。

「そうでしょうか?」

 そうだろう、と投げやりに言う俺に和泉は、

「あ! 『悩み事がないこと』が今の悩みです」

 と、また手を合わせた。

 ああ、これはついに定理になってしまったな、と俺は小説の続きを読む。当然、内容は頭に入ってこない。

 ようやく本に入り込めたな、と思った瞬間俺の集中は瞬く間に崩れ去った。

 がらり、と聞き覚えのある音。木と金属が擦れた音だ。扉の先には、見覚えのある人影があった。

 がらり、というオノマトペの厳つい印象とは真逆に、そこにいた彼は粛々としていた。

 あのう、と彼は控え気味にこちらの様子を窺うと一歩踏み出し、部室の敷居を跨いだ。

「相談があるんですけど、いいですか?」

 稲生が部室へと入ってきた。しきりに手を胸の下あたりで捩らせている。

 和泉が席を勧めた。長机の北の席に稲生は座った。

 俺は本を閉じた。稲生が「相談」と言うからには、何か悩みがあるということ。それを和泉が見逃すわけがない。

 俺は溜息混じりに、

「どうしたんだ?」

 と稲生に問うた。

「あの、昨日はありがとうございました。差出人の方に迷惑をかけずに済んだのは、泉妻君達のおかげです」

 いえいえ、どういたしまして。

 俺が相槌代わりに鼻を鳴らすと稲生は続ける。きっとここからが本題だ。

「実は今日こんなものが僕の机に入っていまして」

 彼はそう言って、長机にあるものを置いた。

 見覚えのあるカラフルな洋形封筒。中には文庫本よりも少し小さい便箋。

 和泉は稲生を見つめた。

「読んでもらって結構ですよ」

 と稲生は笑った。若干引き攣った笑顔であった。

 和泉は早速読み上げる。

「いのうさんへ

 先日は事情も考えずに手紙を送ってしまい申し訳ありません。まさか、お葬式だとは思ってもみませんでした。

 前回私が書いた手紙なのですが、署名を書くのをすっかり忘れていました。そのせいでなにやら苦労をかけてしまった、という噂も耳にしました。『文芸部の方が謎解きをしてくれたこと』も、です。

 せっかくなので、今回も謎を解いてもらいます。謎といっても、それほど大それたものではありません。どちらかというと、なぞなぞに近い、お粗末な謎です。

 では、早速。

 明日の放課後、学校の中心の教室で待っています。

 そこで先日のリベンジをさせてください」

 和泉は読み終えると「ほう」と一息ついた。そして目を輝かせて、俺を見る。

 俺は苦笑を作らずにはいられなかった。また、署名がない。

 和泉香穂子に悩み事は尽きない。どうやらそういう定理らしい。むしろ、悩み事が尽きない人物は和泉香穂子である、という定義かもしれない。

 そんな冗談で心を落ち着けながら、俺は爪を噛んだ。





 よし、と腹を括るのにそうそう時間はかからなかった。気が付けばもう西日が眩しい時刻。約束の時間は今日の放課後。下校時刻の五時まで残り一時間ほどだ。

 和泉の目は依然として輝いている。推理をさせろ、というのだろう。

 俺は諦念にため息をつき、最後までは言わせてもらえないであろう言葉を発する。

「学校の中心の教室、というのは……」

「待ってください! 私に考えさせてください!」

 彼女は身を乗り出す。握られた拳は、先日よりも力が入っていたように思う。

 案の定、言葉は途中で遮られた。しかし俺は特に狼狽えず、ただ肩をすくめた。

 いいだろう、推理させてやろう。

 和泉は考える体勢をとった。右肘を左手で抱き、右手を顎に当て、首を傾げるあのポーズだ。そして、最後に目を瞑りながら、

「ヒントを下さい」

 と言った。

 今までなら一度「わかりません」と諦めてからヒントを乞うていたのに、今回彼女はそれを省略しやがった。ずうずうしいことこの上ない。

 きょとんとしている稲生を横目に、俺は真相への道筋を仄めかす。

「普通に考えて『学校の中心の教室』というのが最も大きなヒントだろうな」

 手書きの恋文にわざわざ傍点まで打ってあるのだ、これがヒントでなければちと酷い。

「うーん、学校の敷地の中心ということでしょうか?」

 と言う和泉に俺は、

「いや、違うだろう。学校の中心は校庭だ」

 と反論した。

 学校の敷地は、校舎や中庭の『校舎群』と『校庭』に大きく分かれる。これら二つの面積比は、おおよそ校舎群が四、校庭が六。更にこれら二つは綺麗に南北で区切られている。校舎群が南、校庭は北である。したがって、この学校の中心は校庭のどこかとなる。

 この考え方だと教室ではなくなってしまう。

 和泉は首を逆へと傾ける。

 次に声が聞こえてきたのは、向かいの和泉からではなく、横からであった。

「校舎だけで考えれば、中心の教室は僕たちの教室あたりになるのかな?」

 と稲生。

 山の字を横に倒したような形に並ぶ校舎の中心は、三棟に当たる。更にその中心となると、俺達の教室が該当する。だがそれも違う。

「明日は保護者向けの説明会があって、三棟への立ち入りは制限される。それも違うだろう」

 俺は腕を組み、反論した。

 差出人が同級生であれば説明会がこの日に行われることは知っているはず。上級生であったとしても、説明会は例年行われるものなので『この時期に説明会がある』ということくらいは知っているだろう。

 加えて、差出人は一度、相手の事情を考慮しなかったという失敗を犯している。同じように、行くことのできない場所を指定するようなことは考えられない。

 続いて答えたのは和泉であった。

 手を打ち、目を開く。

「あ! 番号の中心というのはどうでしょう?」

 和泉の言いたいことは、「各教室に振られた番号の中心」だろう。

「それも三棟の教室になる。書き出せばわかる」

 人差し指を立てて反論。

 実を言うと、書き出さなくてもその中心が三棟になることは明白。

 一棟には、職員室や生徒指導部、進路指導部、用務員室などの主に教師や係員が使う部屋が集まっている。それらには番号が振られていない。となると、考えなければならないのは、二棟、三棟、四棟の三つ。それに位置する教室を番号順に並べれば必ず三棟のどこかが中心にくる。

 和泉はせっせと教室を紙に書き出していた。そして、数える。

「えーと……あ! 本当です! 番号の中心は私達の教室の隣ですね」

 和泉は落胆し、また考える姿勢に入る。

 そんな和泉に俺は、最後のヒントを出すことにした。

「学校の中心だぞ、普通は何を見て判断するか、考えてみろ」

 和泉は少し考えてから、徐に目を開ける。そして生徒手帳を取り出すと、「ああ!」と半ば悲鳴のような声をあげ、歓喜するのだ。

「なるほど、確かにこれなら中心は『天文部部室』ということになりますね」

 彼女が見たのは生徒手帳の地図。

 校庭の面積は校舎群の面積より大きい。

 しかし、手帳の敷地図には一つ一つに教室名と番号が記されている。更に校舎はそれぞれ三階まであるから二棟、三棟、四棟の三つだけで九列が並ぶことになる。それらに教室名と番号を記すとなるとさすがに紙幅が足りない。そこでなされた工夫が一つある。

 校庭と校舎群の面積比を少し変えてあるのだ。

 その敷地図は教室名と番号をそれぞれに記すために校舎群の面積が実際よりも広くとられている。具体的な比で言うと、校庭が四に対し校舎群が六。

 よって、手帳の敷地図の中心は四棟三階の真ん中、天文部部室となる。

 なるほど、と稲生は頷く。

 和泉は解読できた余韻に浸っている。

 俺は最後に、

「今日は木曜日。ならば明日、天文部は定休だ。告白の場所にはもってこいだろう」

 と付け加えた。

 確か天文部は木、金曜日が定休。自ずと二人きりの空間が作られるのだ。

 稲生は、

「ありがとうございました」

 と言って部室を出て行った。

 俺は鼻を鳴らす。和泉はまだ余韻に浸り、しばらく戻って来そうにない。

 西日がえらく眩しい。網膜が焼かれ、視界の一点が黒く淀む。カテーンを閉めて光を遮るが、視界の淀みは残ったままであった。

 暫くすると視界は元通りになる。

 恍惚とした表情の和泉を横目に読書を再開した。下校時刻まで残り三十分。

 今度は精読できそうだ。――ああ、この本はなんて面白いのだろう。





 純粋なものがあったとする。しかし大抵それは、『九十九・九パーセント』と評される。完全に純粋なものなどない、という観念が根底に存在しているからだ。

 では、なぜそのような観念が存在しているのか。答えは簡単である。他人の純粋を肯定するという行為は自らの不純を認めるようなものなのだ。己の欠点を自分で曝す輩がどこにいるというのか。もちろん、どこにもいない。要するにそれは人の防衛本能なのだ。

 純粋は極めて希少である。しかし、確かに存在する。

 世界は不純が多数を占めている。純粋は常に不純に曝されている。そんな状況下にある純粋はいつしか濁ってしまう。不純になってしまうのだ。そして不純になってしまうと、元には戻らない。だから、純粋は希少であるのだ。

 俺は和泉香穂子という不純と接してしまった。このままでは、いつしか濁ってしまうかもしれない。

 人は自分が濁ってしまったことに自分ではなかなか気が付かない。

 だから、こうして他人の告白シーンを覗き見るのも、全ては和泉香穂子という不純のせいなのだ。

 稲生が文芸部を訪ねてきた翌日。和泉は、

「天文部を覗きに行きましょう」

 と俺に提案した。

 やめとけ、と俺は却下したのだが彼女は、

「ストーキングも探偵の仕事です」

 と半ば強引に天文部部室まで連れて来られてしまった。

 確かに探偵ならば調査のためのストーキングは法的に正当化される。しかし俺も和泉も一介の高校生。探偵ではない。俺達がストーキングをすれば、それはただの犯罪である。

 俺に和泉を止める術はなかった。つまりは俺も覗きに行くことになってしまったのだ。

「悪いのは和泉だ、責任は全てこいつにある」

 とぶつくさ言いうものの、その実、稲生の恋路の続きが気になっていた俺は悪事と知りながらも、部室を覗き見た。

 窓が開けられた天文部部室には心地のいい春風が舞い込んだ。そこには一組の男女。稲生と恋文の差出人であろう女生徒だ。

 差出人は肩までの髪を耳にかけ、両手をもじもじとさせる。決心がついたのか、目線を稲生の方へ向けた。

「あ、あの、こんにちは」

 うん、と稲生は相槌を打った。

「猫垣さんだよね?」

「はい」

 この位置から稲生の表情は良く見えない。

「その、私、中学の時からいづみさんのことが好きでした!」

 猫垣のスカートの裾を握る手には、力が入っている。俺は彼女の迫力に呆気を取られてしまった。声が大きかったわけではない。ただ、彼女の小さい体躯とその迫力が妙なギャップを生じていたのだ。

 稲生は猫垣から目を逸らした。そんな彼に彼女は、

「よかったら、付き合ってください!」

 と畳みかける。

 付き合う、という単語が出てくると改めて「今、俺は悪いことをしているのだ」と確認させられた。

 そんな心理が働いたのか、俺は一旦二人から目を外した。

 隣の和泉は「おお」と拳を握り、二人を見つめている。

「他人の告白を見るのは、初めてです」

 和泉はそう呟いた。

 そう何回もあってたまるか。

「まあ」

 隣から奇妙な声が聞こえた。和泉は口に手を当て驚いた顔をしている。

 彼女に気を取られた俺は、稲生の返答を聞き逃してしまった。

 もう一度天文部部室を覗く。

 猫垣の目が合った気がした。――まずい。

 覗いていることがばれるのは非常にまずい。稲生ならまだ「手伝ってやったのだから覗くぐらい構わんだろう」と言えるが、猫垣にそんなことは言えない。俺はそこまで図々しくない。

 何より今はこの場から離れることが先決だ。――急げ。

 

 

 

 

 俺は和泉を連れて文芸部部室へと戻った。二つ隣の文芸部部室まで俺達は走る。距離にしてたった数十メートル。追われるような感覚のせいか息が切れた。

 部室へと到着。

 後ろから足音は聞こえない。追っては来ていないようだ。

 ようやく一息つくことができた。乱れた息を整える。

「猫垣さん泣いていましたね」

 和泉はそう言って席につく。

「そうだったか?」

「見ていなかったのですか?」

 俺は頷きながら椅子を引いた。そしてその椅子に座りながら、

「結局、あいつらは付き合うのか?」

 と彼女に問う。

「たぶんそうだと思います。泣くことを許すのは、きっと嬉しいときでしょうから」

「悲しい時だって泣くだろう」

 俺がそう言うと和泉はくすりと笑った。

「悲しい涙は堪えるものですが、嬉しい涙は溢れてくるものです」

 眉をひそめる俺に和泉は、また小さく笑う。

「何がそんなに可笑しいんだ」

「いえ、私にわかって泉妻君にわからないことがあるのだなあ、と思いまして」

 俺は「なにおう」と意気込んだが、どうも爪を噛む気にはなれなかった。


 タイトルにはかなり悩まされました。その末に「青く見ゆるは、」に致しました。これは次話にて回収されるかと思います。(たぶんね)

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