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夢の欠片  作者: zebiaps
1/5

出会い

ザッ ザッ ザッ ザッ





規則的に反復する雪道を歩くような音。それ以外はごく稀に吹く風の音くらいで、辺りはやけに静かだった。





ザッ ザッ ザッ ザッ





ゆっくりとしたその音は止まることなく永続的に続き、まるで無限を思わせるような長い間ずっと繰り返していた。





ファン ファン ファン ファン





突然、小さなサイレンの音が聞こえ、段々と大きな音へ変化していった。その直後、永遠と続いていたゆっくりとした音が小刻みになり、それに重なるようにしてサイレンの音が小さくなって、そして聞こえなくなった。



辺りは静けさだけが残っていた。そこにある音はごく稀に吹く風の音だけで、他の音は何も聞こえない。また静かな闇が訪れた。



それからしばらくして小さな光が大きくなり、その光だけの真っ白な世界へ変わっていった。











久しぶりにスッキリとした静かな目覚めだった。俺は手を組んで思いっきり身体を伸ばすと、一気に脱力して起き上がった。



スッキリすぎて逆に怖いな。そう思わせるほど素晴らしい目覚めだったので、俺は何気なく壁掛けのアナログ時計で時間を確認した。それは学生の俺にとっては信じられない時刻を示していて、心を一瞬で真っ青に染めた。



「えぇ!?」



九時十三分。明らかに遅刻だった。



「嘘だろ……」



それから疾風のごとく制服に着替え、時間割を見て鞄の中の持ち物を整理した。



身だしなみを整えようと洗面所に向かうと、廊下を挟んで反対側にある台所に母さんが立っているのが見えた。母さんは俺に気がついて「おはよう」と笑いながら挨拶してきた。



「母さん、起こしてくれてもいいじゃんか!」



寝坊したのは自分のせいで、非があることは自覚している。ただ、さすがに見放すのは酷くないか。そう思って文句を言うと、母さんは正論で返してきた。



「なに言ってんの? ちゃんと起きない羚弥れいやが悪いんでしょ? 目覚まし時計だって買いなさいって言ったのに買わないし。高校生にもなって自分で起きられないなんて恥ずかしいよ?」



「うっ……」



元々勝てる戦いではなかっただけに、反抗する余地がない。



「すみませんでした!」



「フフッ」



なんか子供扱いされてるような……と一瞬思ったが、こんなことしてる場合じゃないと、洗面所に入った。



鏡を見ると、寝癖で髪型がライオンのように爆発していた。あまりにも凄すぎて、俺は二三秒動きを止めてしまった。



「すげえ……」



髪洗ったらセットしないとな、と思いながら洗面タオルを手に取った俺は、手際良く洗顔を終わらせ、髪、歯と素早く洗っていった。



最後に鏡を見て「よし!」と気合いを入れると、部屋から鞄を持ってきてリビングの受話器を手にとった。数字が書かれてあるボタンを何度か押した後、通話ボタンに親指を持っていき、受話器を耳に当てた。



プルルルルルルル



呼び出し音が何度か続き、若い女性の声が聞こえた。



「はい、秋篠高等学校です」



このやり取りが面倒なんだよな、と思いながら決まり文句を口にする。



「一年一組の遠矢羚弥です。山辺先生はいらっしゃいますか?」



受話器の向こうで所在を確認する声がした後、再び若い女性が電話に出た。



「現在授業中ですので、電話に出ることはできません。私の方から伝えておきます」



「そうですか。寝坊したので遅刻しますと伝えておいてください」



「分かりました」



「それでは失礼します」



受話器を置いた俺は、思わず「終わったぁ」と息交じりの声を吐き出した。そのやり取りを見ていたのか、「お疲れー」と母さんが言ってきた。



「もう行くの?」



「うん」



「気をつけてねー」



「うん。んじゃ、行ってきます」



「行ってらっしゃーい」



母さんが手を振ってきたので、俺も振り返しながら家を出た。











ミーン ミーン ミーン





蝉の鳴き声が耳に付くこの季節、学生は夏服姿となる。いつもは同じ格好の人が複数歩いているのだが、今日は当たり前とはいえ、そんなことは決してない。



暑いし遅刻してしまったし、急ぐこともないよな。そう思って俺は特に焦ることもなく、のんびり歩いていた。



ワイシャツの襟を前後に動かし、適度に涼しむ。



このような日に限って風がなく、蒸し暑さが妙に際立つのに少し苛立つ。『風よ、俺に恵みの一吹きを! 乾いた冷たい風をお願いします!』などと、叶うはずもないことを心で願っている時、ふと授業中に教室に入るよりも、休み時間に入った方が気まずくないよな、という考えが頭によぎった。



思えば思うほどその考えは強まり、時間稼ぎのために近くの公園へ入っていった。



入った途端にブランコを見つけ、俺は、真っ直ぐにそれに向かって歩いていった。





キー キー キー キー





乗ってみると周りに人がいないせいか、自分が漕ぐブランコの鎖がやけにうるさい。



何分くらいここにいればちょうどいいかなーと思い、起きた時間から今までの行動にかかった時間を計算する。



このままいけば二時間目と三時間目の間に行くには……三十分以上か……? 結構長いな。



そんなことを思いながら無意味にブランコを高く漕いでいた。





ガサッ





突然、後ろから木が大きく揺れる音がした。反射的にその方向を見た俺は、誤って片手を鎖から離してしまった。



「ぬぉっ!?」



叫び声と共に、ガタン、ガタンとブランコが激しく揺れる音が鳴り響いた。



「お、お前、何で裸なんだよ……」



痛さよりも驚きの方が大きかった。視線の先にいたのは、自分より少し幼いと思われる、全裸の女性だった。



「いや……」



彼女は俺を見て小刻みに身体を震わせ始めた。俺は瞬時に自分が原因だと気がつき、即座に視線をそらした。そしてワイシャツを脱いで彼女の方へ投げた。



「それ着ろよ。まともに質問するどころか、見ることも出来ねえ」



俺はそう言うと、体を完全に彼女に背けた。



それから何分か経ち、おそるおそる「大丈夫?」と訊いてみた。



「……うん」



まだワイシャツ一枚だから大丈夫ではないのだろう。ただ、彼女を放っておくわけにもいかないと思い、事情を訊いてみることにした。



「質問いいか?」



「……うん」



俺は彼女に向き直り、できるだけ下を見ないようにして質問を開始した。



「何で裸だったんだ?」



「……男の人がいろいろやってくれるし、泊めてくれたりもするから」



予想外の答えだった。



「いろいろって……いや、それよりもお前、家ないのか?」



「……うん」



「そうか……母さん、きっと許してくれるよな」



もう俺にとっての選択肢は一つしかなかった。俺は彼女の手を引っ張って無理矢理立たせると、そのまま手を引いて、走って家に引き返していった。



周りに人がいないのが幸いだった。











「母さん!」



息を切らしながら家に入った俺は、すぐさま頼みの綱を呼んだ。



「もう帰ってきたのー?」



俺の気持ちとは裏腹に、呑気な母さんはエプロンを着けたまま玄関に出てきた。そして、来た途端に驚愕の表情を浮かべた。



「上半身裸!? いやいやいやワイシャツしか着てない女の子もいるし! あんた何やったの!」



母さんは勘違いをしているようで、混乱した様子で叱りつけてきた。俺は首を全力で横に振りながら否定した。



「違う違う! 公園で泣いてたんだよ、この子。裸だったんだ。だから俺のワイシャツを着るように言ったんだよ。それより、この子家がないみたいなんだ。しばらく泊めてあげてもいいよね?」



母さんは表情を緩めて、母さんらしい言葉を口にした。



「もちろん」



そして、ワイシャツ一枚の女の子に軽く質問した。



「ねえ、名前は何て言うの?」



女の子は少し下を向き、小さな声で答えた。



「……咲森、由梨です」



「由梨ちゃんかー。可愛い名前だね! おばさんは真弓っていうんだよ。んー、じゃあ……いくつ?」



「十六です」



「えー!? 俺より歳上かよ……」



まさかの事実だった。ずっと歳下だと思っていたのに……



「まあまあ、別に歳上でも歳下でも関係ないでしょ。じゃあ由梨ちゃん、今はもう質問はしないから……頑張ってこの家に慣れていこっか。そしたら少しずつお互いのこと知っていこうね!」



「……はい」



「じゃ、ついてきてー」



由梨を連れてリビングの方へ歩いていく母さんの背中を見ながら、俺は良かったと胸をなで下ろした。そして、大事なことに気がついた。



「あ、そうだ。ワイシャツ着なきゃ」



今までの出来事が衝撃的すぎて、危うく忘れるところだった。さすがに裸では学校に行けねえわ、と思いながら苦笑し、新しくワイシャツを着て再び家を出ていった。











とりあえず真弓さんに着いていったのはいいとして、まさか服のコーディネートをされるとは思っていなかった。



「これなんかどう?」



選ばれた服のセンスは抜群で、私の答えは一つしかなかった。



「……何でもいいですよ」



決して適当に答えたわけでも、遠慮して答えたわけでもない。ただ、その返事が真弓さんには気に食わなかったようで、「そんなこと言わない!」と強く言われてしまった。



「年頃の女の子は可愛くするのが当たり前でしょ? それにしても、私の昔の服のサイズが合うなんて思わなかったなー」



「昔?」



「え? 何か言ったー?」



「いえ……」



「昔」と聞いて不自然だと思い、思わず口に出してしまった。真弓さんはどこからどう見ても二十代にしか見えないし、声や素振りから見ても若々しさが感じられる。自分を「おばさん」と名乗るのもおかしいと思えるくらいだ。何かとてつもない美容の秘訣とか、素晴らしいメイク技術でもあるのだろうか。それとも、十歳になる前に出産したとか……あの男子のお母さんなら、四十近くはいっていてもおかしくないはずなのに。



「それにしても、何でも似合うとはこのことね! 羨ましいわぁー」



「そうですか……」



結局、白いワンピースに決まり、服選びを終了すると家の案内をされた。



「うちは3LDKでね、一応、風呂もトイレもあるのよー」



「凄いですね」



まだ若いのに一軒家を持ってる時点で結構なものだと思う。旦那さんの稼ぎがいいのだろうか。……いや、若くないんだっけ。



「そうでもないよー。私が大学行って間も無く、両親が事故に遭っちゃってねー、財産とこの家が残ったのさー。幸いなことにローンは完済しててねー、あまりお金はかからないんだよー」



「そうなんですか……大学はどうされたんですか?」



「仕送りとかも無くなっちゃったから、生活の安定のために中退したんだー。今はレシピ本とか売って生活してるんだよー」



この様子だと、旦那さんが稼ぎの元となっているわけではなさそうだ。



「それが結構売れるからさー、バイトもしなくていいし、たまにテレビ局からの収入も入るし、生活には余裕のよっちゃんだよー。だから、由梨ちゃんも家計のことはぜーんぜん気にしなくていいよー」



「え、真弓さんって結構有名だったりするんですか?」



「ハハ、まあまあかなー」



この人、のんびりしてるように見えて意外と凄い……



「あ、そうそう。ここが羚弥の部屋、その隣が由梨ちゃんの部屋ね!」



「羚弥って、さっき出かけた男子の名前ですか?」



「うん。だらしないから気をつけてねー」



羚弥君の隣の部屋か……



「好きに使っていいからねー」



「いつまでですか?」



「え? んー、由梨ちゃんの状況によるかな。ま、気にしなくていいよー」



「……ありがとうございます」



今までの悲惨な生活が頭をよぎって、つい泣きそうになった。



ありがとうございます、本当にありがとうございます。



「さて、暇だしテレビでも見よーっと」



こうして、私の新しい生活が始まった。











「なあ、殺人事件あったの知ってる?」



「え? いや、俺そんなにテレビ観ねえから分からんわ」



「あそうなの。子供が親を殺すっていう凄い事件だったから印象が強くてさ」



「ふーん。確かにそれは凄いな。よほど恨みがあったか、気が狂ったかどっちかかな」



「そうだろうね」



狙い通り休み時間に来た俺は、友人の本田学まなぶから物騒な事件があったという事実を聞かされていた。



「なあ、羚弥。その親を殺した事件さ、隣の県で起きたらしいんだよね。もし犯人がここに来たらどうする?」



「ないない。もし来たとしたらお前を盾にして逃げるかもな。ハハハ」



「てめぇ〜」





キーン コーン カーン コーン





チャイムが鳴り、俺たちはクラスの皆と共に席に着いた。その直後、社会の担当の教師が入室し、号令係が起立、気をつけ、礼の一連の動作を終わらせた。そして、授業が始まった。



次々と教科書やノートを開く者が現れる中、俺は突然、強烈な睡魔に襲われた。











ベキ バコン ガン バキ





物が壊れるような異様な音がしていた。明らかに人工的な音ではあったが、普通に過ごす日々の中ではまず聞くことがない音だった。





ドカン ガシャン バキバキ





その音は次第に激しさを増し、何をすればそのような音が出るのか分からなくなるまでに強烈な音に変わっていった。



その音が空間を支配してから何分か経った時、突然その音は止まった。そして、新たな音がした。





ガチャ キィィィィ





その音がしてから、しばらく沈黙が続いていた。その沈黙を破ったのは、誰かの声だった。



「何なんだよ……これ……」



その震えた声は幼い少年のようだったが、誰が発したものかは分からなかった。その後、誰かは思い出せないが聞き覚えのある声が聞こえた。



「お前、俺の言うこと聞かなかっただろう。だからお前の大切な物を沢山壊してあげたんだ」



そして、恐ろしい会話が始まった。



「な、俺はお前の奴隷じゃないんだぞ! 遊びに行くのなんか俺の自由だろう? 遊びに行くなってなんなんだよ!」



「俺の言うことを聞かないからこうなるんだよ。そもそも言葉遣いが気に食わねえ。『俺』とか『お前』とか言うんじゃねえ。また壊してもいいのか?」



「や、やめろ!」



「こ・と・ば・づ・か・い、は?」



「お願いします! やめてください……」



「条件は?」



「じょ、条件?」



「許されるために条件が必要なのは当たり前だろう。そうだな……何発殴られるからとか、何発蹴られるからとか、そういうやつだ」



「何だよそれ!」



「そうか。じゃあ今度はお前が頑張ってたあのゲーム、リセットしちゃおっかな〜」



「わ、わあああ!! 十発殴られるからやめてください!」



「足りねえなぁぁ!」



「ひっ、百発殴られるからやめてください……」



「よし」



その直後、悲鳴、泣き叫ぶ声が何度も何度も聞こえた。聞きたくないという気持ちとは裏腹に、勝手に耳に入るこの状況に嫌気が差していた時、視界は大きな光に包まれ、長い長い呪縛からようやく解放された。











「いつまで寝てんだよ!」



その声と同時に、後頭部に衝撃を感じた俺は、少し苛立ちながらも身体を起こした。そして頭を抑えながら、隣で口元に笑みを浮かべている学に怒声を放った。



「学、叩いたのお前か! 起こし方が乱暴すぎるだろうが!」



その声に何の怯みも見せない学は「ざまあみろ」と漏らした後、席に座っている俺と同じ目線になるまで中腰の姿勢になり、当たり前のことを口にした。



「昼休みになるまでぐっすり寝ているお前が悪い」



その言葉を聞いて、俺は黒板の上の時計を見た。針は学の言った通り、昼休みの時間帯であることを示していた。



「だからと言ってその起こし方はないだろう」



「そうか? 俺はお前にしか迷惑かけてないけど、お前は先生がお前を起こそうとする時間分の授業を妨害してんだぞ。まぁ、先生も諦めて授業を再開したとはいえ、一時的に授業を潰して皆に迷惑をかけたのは変わらない。悪いのはどっちだ?」



学は早口で捲し立てる。



「くっ……」



「そもそも失礼にもほどがあるだろう。寝坊して遅刻したくせに。何のために学校来てんだよ。腕を枕にして寝るくらいなら、授業ちゃんと聴いてその腕で板書しろよな。本当あり得ねえわ。第一……」



まだ正論が続きそうなところを腕を振って全力で遮る。



「分かった分かった! 俺が悪かったですよ!」



「分かればよろしい。ま、俺も途切れ途切れに寝てたしな」



「お前もかよ!」



「ハハハッ。それより昼休み終わっちまうぞ。飯食おうぜ」



「ああ、そうだな」



満足そうな学を横目に、俺は鞄から昼食を取り出した。そして、学が俺の前の席の机を後ろ向きにして繋げると、談笑を交えながら食べ始めた。



「なあ、今日遊ばね?」



しばらく会話が続いた後に、思い出すかのようにそう言われた俺は、一瞬「いいね」と言いそうになったが、由梨のことを思い出し、断ることにした。



「ごめん。無理だ」



「ええー、何で?」



「今日はいろいろあってね。忙しいんだ」



「マジかよ。暇だなー」



「ゲームでもしてろ」



「飽きたもん」



無駄にしつこい学に少しイラっとしながらも、俺は明らかに急いでると思われない程度の早さで昼食を食べると、席を立った。



「んじゃ、トイレ行ってくるわ」



「おう」





ブーーーブーーー





「ん?」



トイレに向かう途中、携帯のバイブが振動した。学校で携帯をいじることはタブーとされているため、ちょうどいいなと思いながら少し歩調を早めた。



トイレの個室に入った俺は、おもむろに携帯を取り出した。そしてメールの確認をした。



見ると母さんから、『由梨について』という件名のメールが届いていた。俺はそれを開き黙読した。



『さっきさー、由梨ちゃんの生活用具を揃えようと思って買い物に誘ったんだけど、何かに怯えてるみたいで着いてきてくれないんだよね。だから、お金は後で渡すから帰りに歯ブラシと可愛いお箸買ってきてー。頼んだ!』



俺は『了解』と返信すると、個室を出て、教室に戻っていった。











あの時私が羚弥君に会わなかったら、また私は悲惨な日々を過ごしていたのだろうか。



特にやることもなく、私は自分の部屋と言われたベットの上でそんなことを考えていた。



優しい人なんてこの世に存在しないんじゃないかって思ってた。でもそんなことないのかな。……いや、まだそんなことを思うのは早すぎる。今までだってそうだったじゃない。……でも、羚弥君や真弓さんの行動を思い返してみる限りは……。



少なくとも、こんなに居心地の良い場所に来たのは生まれて初めてかもしれない。そう思って私は辛かった日々を思い返した。











家も友達も何もかも失って、ただ大きな通りをひたすら歩き続けていたら、いつしか二日も経っていた。



足が痛くてたまらないし、お腹なんて減りすぎて頭がクラクラするし気持ち悪い。お風呂にも入ってないから服が臭いし、何よりも身体が冷え切っていて、酷く寒い。



でも、逃げ続けなければいけない。追っ手が来るから。



「おいおい、お姉ちゃん。一人で何やってんの?」



極限の疲れのせいか、ベンチでぐったりしていた私に、見知らぬ男性が声をかけてきた。でも、私は意識がはっきりしないせいか、上手く反応できずにいた。



「大丈夫かい? 服が汚れてるし、髪がぐしゃぐしゃだ。もしかして、家出したのかい?」



頷くこともできなかった。



「よし。一回、俺の家に連れてってやる。まず飯食って風呂に入れ」



そう言われて私はその男性の車に乗せられた。抵抗はできなかった。力が出ない。私はそのまま眠ってしまった。



気がついた時には男性の家に到着していた。住所は分からないし、だいたいの場所も特定できない。



危ないことは分かっていた。でも、食事、風呂の誘惑には勝てなかった。だから、車を降りたタイミングでも逃げ出さなかった。



「入れよ」



男性の言葉で、私はぐったりしながらその家に入っていった。どうやら一人暮らしのようだ。靴は男性ものしかなく、数が少ない。



「飯作ってあげるからそこのソファーにでも座ってて」



返事も頷きもしない私だったけど、この時の意識ははっきりしていた。おそらく、睡眠をとったからだろう。指示を聞き取るくらいはできた。だから素直に従った。周りを見ながら気を落ち着かせる。



男性が台所に立ってから数分経ち、ラーメンが私の前に出された。良い匂い、第一印象はそれだった。



「どうぞ」



その言葉で、私は野獣のように食いついた。他人の目線なんか関係ない。正直、味もどうでもよかった。とにかく食べたい。それしかなかった。口がいくらか火傷したけど、気がついたのは食べ終わった後だった。



その後、男性はすぐに風呂場へ案内してくれた。



「代わりの服、ここに置いておくからね」



そう言ってすぐに立ち去り、扉を閉めてくれた。私は心の中で感謝しながらすぐに服を脱ぎ、丁寧にシャワーを浴びた。そして、浴び終わると指定された服を身につけ、扉を開けて外に出た。



「お、上がったのかい?」



男性はすぐに気がついたようで、駆け寄ってきた。私は頷き、彼の目を見た。その時だった。恐怖を感じたのは。



「君、やっぱり可愛いよ」



男性はもう理性を失くしていた。いや、最初からこれが目的だったのかもしれない。抵抗できない私を襲い、まるでおもちゃのように扱った。暴れたり噛み付いたり、引っ掻いたりしても無駄で、結局は押さえつけられ何もできなかった。



この瞬間から、私は男が嫌いになった。



それからも生きるためだと思ってその行為を受け続けたけど、長くは続かなかった。



男が私を連れて外に出た時、あいつが来たのだ。



「な、なんだよ! お前、来んなよ!」



男は慌てふためき、悲鳴を上げて逃げ出した。私も捕まってはいけない、何のために逃げ続け、耐えてきたんだと思い、全速力で逃げた。幸い、運動神経がそこそこあるせいか、上手く撒くことはできたけど、これからも逃げ続けることに変わりはなかった。



それからも男に弄ばれる代償として、食事や睡眠を獲た。生きるためには仕方がない。そう思って耐え続けた。











本当に辛かった。もうあんな生活はしなくていいんだ。そう思って伸びをしていた時、真弓さんの大きな声が聞こえた。



「由梨ちゃん! ちょっと手伝ってー!」



何だろうと思って向かってみると、台所で真弓さんがカボチャをまな板の上に乗せて手招きしていた。



目の前まで行くと、謎の形をした銀色の物体を渡された。何だろう、これ。



「おばさんはカボチャ切るから、由梨ちゃんは芋の皮むきをよろしくね」



皮むき? これで? 一体どうやって……



考えても思いつきそうにないので、銀色の謎の物体の特徴を見て判断してみようと思った。



弓のような湾曲の形をした物に、丸みがかった縦長の物がついている。弓のような物の横には尖った物があって……どうやって使うんだろう。



気がつけばカボチャは小さくなってボールの中に入っていた。ふと真弓さんの顔を見ると、笑顔で図星を指された。



「もしかして、料理するところ見たことない?」



「……はい。初めてです」



「そっかー。高校生でピーラーを知らないのは、料理をやったことがあるかないか以前の問題だもんねー」



そこまで見透かされていたのか……



「ごめんね!? 馬鹿にしたわけじゃないのよ? 仕方ない仕方ない! それじゃ、一緒に作ろっか! ね! 料理はねー、女の武器にもなるし、何より楽しいんだよー!」



私も一度はやってみたいと思ったことがある。でも、今までの環境上、それはできなかった。真弓さんの職業になるくらいだし、相当楽しいに違いない。



「はい」



それから私は料理器具の説明をされながらカレーを作っていった。カレーは甘口のようで、カボチャが入るのも納得だった。



それが完成して間も無く、羚弥君が帰ってきた。



「ただいま」



「おかえりー!」



返事をしたのは真弓さんだけで、私はまだ出来なかった。











「母さん、歯ブラシと箸買ってきた」



「ああ、うん。由梨ちゃんに見せといてー」



「分かった」



そんな声が聞こえて私は咄嗟に自分の部屋に戻った。今までの生活の影響のせいか、男性恐怖症の今、羚弥君に会って怖がりたくはない。



そのうち、部屋の外から彼の声が聞こえてきた。



「由梨さん? 歯ブラシと箸買ってきたんだけど、見る?」



羚弥君が最低な人ではないと思ってはいる。でも、心の奥底ではそれが信用できなくて、ずっと聞こえていないふりを続けた。



それから数分経ち、真弓さんが夕飯を食べようと私と羚弥君を呼んだ。



でも、なかなか決心がつかなくて行くことはできなかった。お腹は素直にずっと鳴り続けているけど、そんなことはどうでもよかった。



こんなことしてたら真弓さんとも、羚弥君とも気まずい関係になってしまう。それだけは避けたい。できれば仲良くしてみたい。でも……決心がつかない。



私はなんて最低なんだろうと思って、私は馬鹿だ、何で人の親切を踏みにじるような真似をするのと、自分を責め続けた。



「由梨ちゃん? 入るよー」



真弓さんの声が聞こえたのは、それからしばらく後のことだった。



私は焦って流れていた涙をこすり、ドアの方を見た。きっと怒ってるに違いない。



「由梨ちゃん、食ーべよっ!」



「……え?」



待っていたのは予想外の展開だった。真弓さんがカレーを持って笑顔で入ってきたのだ。自分がなぜこうしているのか問い詰められると思っていた私は、驚きを隠せなかった。



「カレー、美味しいよー? 由梨ちゃんが作ったんだもーん。自分が作った料理って人一倍美味しいんだよー? 人生初めての料理くらい食べなきゃ!」



「怒らない……んですか?」



「えっ? 何でー?」



この瞬間、私の心の中の何かが崩れていった。



「いえ……何でもないです」



「じゃ、食べよっ! 美味しいよ、ほらー!」



真弓さんはスプーンと、カレーを差し出した。私はそれらを受け取ると、一口だけ口にした。



「……美味しい」



「でしょー? 芋はほくほくだし、カボチャもとろっとしてて最高だし。じゃあ、私は羚弥のとこ行ってるからねー」



「はい」



真弓さんは笑顔で部屋から出ていった。



その後、私はカレーを食べる手が止まらなかった。そのせいか数分で食べ終わってしまい、私は皿から視線をドアノブに向けた。



しばらく見つめた後、心の中で「よし!」と決心を固めた。



「……行かなきゃ!」



私は空っぽの皿を持って、部屋を飛び出した。











「今日さ、学校で子供が親を殺す事件があったって友達から聞いたんだけど、物騒な世の中になったよね」



「そうそう。私もテレビで観たわー。まだ犯人捕まってないんだってね。怖いよねー」



「怖いって言ったって、隣の県で起こった事件だよ? そこまで極端に怖がらなくても大丈夫だと思うけどね」



「そうかなぁ? 捕まらないためには何でもするんじゃないのー? ほら、お腹空いた時とかコンビニから盗み出したり、それこそ速く逃げるために自転車盗ったり、バスジャックしたり……こっちに来ちゃうじゃない!」



「いやー、でもそんなことしたら逆に目立つでしょ。あ、でも生きるためには絶対に食糧は盗まないといけないのか。でもさすがに変装とかして働き口探すでしょ」



お皿とスプーンが当たる音が時々鳴り響き、羚弥君と真弓さんの雑談する声が聞こえる。楽しげな話の内容ではないけど、口調や雰囲気で仲が良いことがすぐに分かる。



この中に入り、今から自分がする行動が空気を乱すことは私にも察しがついている。でも私は、やらなきゃ、と気持ちを引き締めながら扉を勢いよく開け、足を踏み入れた。



「これからお世話になります。よろしくお願いします!」



何をしたらよいか分からなくて、何をするのか迷うのはもう遅くて、気がつけば頭を下げていた。どんな反応をされるのかが怖くなって、心臓が激しく暴れ出した。



しばらくして、そんな私の手からお皿が消えた。



「堅いかたーい! もう挨拶は終わったじゃん? 気楽にしていいんだよー」



まるで当たり前だと言っているような、優しい口調だった。自分を既に受け入れてくれている、それが不思議で信じられなかった。



また涙が出てきた。止められない。必死に止めようと目をこすってみるけど、無駄だった。



そんな時、目の前に四角い白いものが差し出された。ハンカチだった。



「ほら、使いなよ」



私は黙って受け取ると、それを目に当てた。



「……制服、早く洗わねえとな」



羚弥君はそう呟いて部屋から出ていった。



一人残された私は、その場にしゃがみ込み、ただただ泣くしかできなかった。











「やっべー、カレーがズボンについてしまった……洗濯しても大丈夫かな?」



部屋に戻った俺は、制服で食べなければよかったと後悔した。明日も着ていくのに、洗って落ちなかったら最悪だ。



「手洗いで落ちるかな……」



とりあえず服を着替え、思い立ったが吉日と言わんばかりに実践してみる。



「お、意外といいじゃん。さすが手洗い」



カレーの色自体は完全に落ちた制服を洗濯機に放り込んだ。そして部屋に戻り、俺はやることもなくベットに横たわった。



寝るにはまだ早すぎるし、何しようかと思っていると、メールの着信音が鳴った。見ると母さんからのものだった。



『由梨ちゃんが話したいことがあるんだってさ。部屋開けといてー』



別に鍵なんかしてないのにと思いながら、『了解』と返信すると、すぐに部屋の外から声が聞こえてきた。



「……入ります」



少し小刻みに震えた声でそう言いながら、由梨が扉を開ける。俺は「おう」と返事をして、話したいことって何だろうと思いながら早速訊いてみる。



「どうしたの?」



そう質問すると、彼女は視線をそらして小さな声で答えた。



「謝りにきたの」



俺は不思議に思い、首を傾げて「何で?」と訊いた。すると彼女は、自分が男嫌いになった理由を語り、自分の過去の一部を明かした。そして、最後に間を空けて「ごめんなさい」と言った。



俺はその過去に驚き、心から同情した。



「そんなことがあったのか……いいよいいよ。だって仕方ないじゃん。そうなるのも当たり前だ。気にすんな」



「……うん」



彼女の表情はまだ晴れやかではなかった。まだどこか不安な様子で、相変わらず視線をそらしていた。俺はその様子から、まだ話したくないことがあるのだろうと推測したが、更に聞き出そうとはしなかった。



それからしばらく沈黙があった後に、彼女が聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声で「あなたは違うよね」と洩らした。俺は信用されてないなと思いながらも、よく聞き取れる声ではっきりと「大丈夫」と言った。



「俺は恋愛はしないって決めてるんだ。だから女に興味を持つこともない。安心しろ」



由梨の目は見開かれていた。



再びしばらくの沈黙があった後、俺は伸びをして口を開いた。



「もう十一時だ。そろそろ寝ようぜ」



ちらっと見た壁掛けのアナログ時計は、二十三時を少し過ぎた時刻を示しており、既に習慣づいていた俺の就寝時刻をとうに超えていた。



「そうだね。話聞いてくれてありがとね」



内に何かを秘めたような笑顔でそう言った由梨も、納得した様子で頷き、立ち上がって入口の方に身体を向けた。そして、振り返って口を動かした。



「おやすみ」



「おう。おやすみ」



返事をした直後、由梨はすぐに部屋から出ていった。



彼女の足音が聞こえなくなると、俺は明日の授業に備えて教科書類を鞄に入れた。そして、最後に寝具を整え終わると、大きなあくびをして毛布に潜り込んだ。











「たけし、宿題やった?」



「いや、やってない。ひろとは?」



「俺もやってない」



騒々しいざわめきの中から、小学生のものだと思われる声がはっきりと聞こえていた。



「まさやならやってんじゃね? おーい、まさや! 宿題やった?」



「やってねえ!」



やるべき宿題を終えていないのか、焦って答えを求めているのが分かる。



「じゃあ……こうたは?」



「やってねーよ」



「なんだよ。誰もやってないじゃんか。れんやは?」



「やってない」



「うわー……もうだめだ。説教が……」



「みんなやってないなら大丈夫だろ」



「連帯責任で私も被害受けるじゃん。仕方ないから見せてあげる」



「おー! ゆき、センキュー」



「あ、俺も!」



「これで叱られなくて済むぜ!」



ようやく目的のものに辿り着き、誰もがそれにすがりつこうとした瞬間、手遅れのお知らせが鳴った。



キーン コーン カーン コーン



歓喜の声が、一斉に悲鳴や悔しがるような声に変わり、大人の怒声が響き渡った。



それから間も無くして、視界は大きな光に包まれていった。











「羚弥君、起きなくていいの?」



ノックの音と共に、女性の声が頭に入り、俺は深い眠りから目覚めた。その声の主は由梨だった。



「学校遅れちゃうよ?」



部屋の外から聞こえるその天使のような声を耳にし、俺は時計を見た。七時。まだ間に合う。



『ナイス! 由梨!』



そう思いながら着替えを済ませ、軽く伸びをした俺は部屋から出た。そして、入口付近に立っていた由梨を見つけると、手を握って礼を言った。



「由梨、本当にありがとう! 母さん起こしてくれないんだよ」



由梨が一瞬顔を歪ませ、俺は彼女な男嫌いだったことを思い出して慌てて手を引っ込めた。



「そ、そうなんだ……間に合う?」



「うん。あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど……これからこの時間に毎日起こしにきてもらえないかな? どうも起きることができなくてさ」



その時、リビングの方から恐ろしい声が聞こえた。



「羚弥!! 目覚まし時計買いなさい!」



「うわぁ!」



その声に驚いた俺は、鞄を持ち、逃げるようにして家を飛び出した。

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