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愛の祝福

作者: みなみ
掲載日:2026/11/03

『その愛、神様が祝福します』


 婚約破棄を告げられて、最初に思った。


 ――明日から、お城に行かなくていいんだ。


 王子妃教育も。

 苦手な先生との授業も。

 好きでもない人に、笑いかけることも。


 もう、しなくていい。


「セラフィーナ! 聞いているのか!」


 声を張り上げた婚約者を見て、私は慌てて頷いた。


「はい。婚約を破棄なさるのですね」


 彼の隣には、私の妹がいた。


 二人はしっかりと手を握り合っている。


「私はリリアーナとの間に、真実の愛を見つけた!」


「お姉様、ごめんなさい。でも、私たちの気持ちは本物なの」


 そう。


 それなら、よかった。


 私は両手を重ねた。


「神様。どうか、お二人の真実の愛に祝福をお与えください」


 その願いは、すぐに聞き届けられた。


     *


 私には、前世の記憶が少しだけある。


 白い病室。

 腕につながった点滴。

 枕元に積んだ旅行の本。


 どこか遠くへ行きたかった。


 けれど、その願いがかなう前に死んでしまった。


『今度は、好きなことをたくさんするといい』


 生まれる前、神様はそう言ってくれた。


『お金に困らないよう、公爵家にしておいた。二番目の子だから、家を継ぐ心配もないよ』


 なんて親切な神様だろう。


 私は温かな暗闇の中で、ほっとした。


『祝福もあげよう。お前の暮らす場所が豊かで、毎日が穏やかであるように』


 額に、温かいものが触れた。


『ただし、私の愛し子だということは、秘密にしておくんだよ』


 どうして?


 声にはならなかったけれど、神様には伝わった。


『お前ではなく、祝福を欲しがる人が来てしまうからね』


 そうして私は、エルディア公爵家の次女ではなく、二番目の子――長女として生まれた。


 名前は、セラフィーナ。


 三つ上に兄がいて、一つ下には妹がいた。


 幼い頃の私は、幸せだった。


 父は肩車をしてくれたし、母は寝る前に本を読んでくれた。


 兄は庭の木に作った秘密基地へ連れていってくれた。


 妹のリリアーナは、いつも私の後ろをついてきた。


「お姉様、待って!」


「走ったら転ぶわよ」


 そう言った私の方が転んで、二人で泥だらけになったこともある。


 領地では、毎年たくさんの作物が採れた。


 夏の水不足も、冬の食料不足もなかった。


 ひどい嵐が近づいても、収穫が終わるまで雨は降らなかった。


「今年も豊作だ!」


 人々の笑顔を見るのが好きだった。


 夜、窓から星を見上げて、私は小さくお礼を言った。


「神様、ありがとう」


 返事の代わりに、胸がぽかぽかした。


 ずっと、こんな毎日が続くと思っていた。


     *


 すべてが変わったのは、十歳の春だった。


 王家のお茶会で、アレクシス王太子殿下が私の隣に座った。


 殿下は、皿の上のお菓子を見て困っていた。


「これ、好きじゃないんだ」


 砂糖漬けの橙だった。


「私のものと交換しますか?」


「いいの?」


「はい。私は好きなので」


 たった、それだけ。


 私は好きなお菓子を食べられて、殿下も嬉しそうだった。


 それで終わりのはずだった。


 ところが三日後、婚約の話が来た。


「王太子殿下が、お前を気に入られたそうだ」


 父は少し誇らしげだった。


 私は首を振った。


「結婚したくありません」


「今すぐではない。大人になってからの話だ」


「でも……私は、ここにいたいです」


 父は私の頭を撫でた。


「王妃になれるのだぞ。きっと幸せになれる」


 私が何を幸せだと思うのか、父は聞かなかった。


 その年の夏、私は王都の屋敷へ移った。


 家族は領地に残った。


「お姉様だけ、王都に住むなんてずるい!」


 出発の日、妹が頬を膨らませた。


 私は妹の手を握った。


「代わってあげたいくらいよ」


 妹は、それを冗談だと思って笑った。


     *


 王子妃教育は、思っていたよりずっと大変だった。


 朝から歴史を習い、昼には礼儀作法を習う。


 午後は外国語。


 夜は、その日の復習。


 笑い方まで直された。


「歯を見せすぎてはいけません」


 歩き方も直された。


「急いでいても、足音を立てないように」


 食事の時まで気を抜けなかった。


「殿下が召し上がる速さに合わせなさい」


 十一歳の冬、私は熱を出した。


 寝台の中から、侍女にお願いした。


「お母様に、来てほしいと伝えて」


 数日後、母から手紙が届いた。


 ――リリアーナが風邪をひいてしまったの。あなたには侍女もいるでしょう。よい子にしていてね。


 私にも熱があることは、伝わったのだろうか。


 分からなかった。


 時々、両親は王都へ来た。


 私は会える日を楽しみにした。


 けれど、話したいことがうまく伝わらなくなった。


「外国の使節の方に、ご挨拶することになったのです」


「まあ、大役ね」


 母はそう言って、それから妹の話をした。


「リリアーナはね、最近お菓子作りを始めたの。昨日は台所を粉だらけにしてしまって」


 父が笑った。


 母も笑った。


 私も笑った。


 そのあとで、言おうと思っていたことを忘れたふりをした。


 本当は怖い。


 間違えたら、先生に叱られる。


 そばにいてほしい。


 そういう言葉は、手紙にも書けなくなった。


     *


 十四歳になると、三年間通う決まりの学園に入った。


 少しだけ期待していた。


 友達とおしゃべりをしたり、帰りにお店へ寄ったり。


 そんな毎日が始まるかもしれない。


 けれど、授業が終わると城の馬車が迎えに来た。


「セラフィーナ様、今日は刺繍の授業です」


 翌日は、ダンス。


 その翌日は、外国語。


 何度も誘いを断っているうちに、誰も誘ってくれなくなった。


 一年後、妹が入学した。


 リリアーナは、私とはまるで違った。


 面白ければ、大きな声で笑う。


 嫌なことは、嫌だと言う。


 失敗しても、誰かが助けてくれると信じている。


「お姉様、もっと楽しめばいいのに」


 妹は、簡単にそう言った。


 楽しみ方を忘れてしまった私に。


 殿下が妹と親しくなるのに、時間はかからなかった。


 ある日、私は殿下と慈善式典の相談をしていた。


 貧しい子供たちへ、冬の服を贈る式典だ。


 そこへ妹が来た。


「殿下、お庭の薔薇がきれいですわ!」


「見に行こうか」


 殿下は、すぐに立ち上がった。


「セラフィーナ、準備は君に任せる」


 二人が去ったあと、私は残された書類を片づけた。


 招待客の名前を確かめて、寄付の金額を計算する。


 殿下が読む挨拶も、私が書いた。


 式典の日、人々は殿下を褒めた。


「なんとお優しい王太子様だろう」


 殿下の隣では、妹が誇らしげに笑っていた。


 私は後ろに立って、その二人を見ていた。


     *


 卒業の半年前、父に手紙を書いた。


 ――殿下は、リリアーナを想っておられます。婚約を解消させてください。


 返事は、すぐに来た。


 ――妹を疑うとは、姉として恥ずかしくないのか。


 母からも届いた。


 ――あの子は、あなたほど強くないの。優しくしてあげてね。


 私は手紙を机に置いた。


 強いわけではなかった。


 泣いても誰も来ないから、泣くのをやめただけだった。


 それでも、両親は知らない。


 知ろうとも、しなかった。


     *


 そして、卒業夜会。


 殿下は大勢の前で、婚約破棄を告げた。


「リリアーナは、私を王太子としてではなく、一人の人間として愛してくれる!」


 妹が、殿下の腕に寄り添った。


 父も母も、その場にいた。


「お父様」


 呼びかけると、父は目をそらした。


「お前と殿下の相性が、よくなかったのだろう」


 母は妹の肩を撫でた。


「この子たちを、許してあげて」


 兄は離れた場所から、黙って見ていた。


 王家とのつながりは、妹がいれば守れる。


 きっと、そう考えていたのだろう。


 会場の人々は、誰も口を開かなかった。


 私は、ゆっくり息を吐いた。


 ああ、終わった。


 十歳から続いた、私の役目が。


「お二人は、真実の愛で結ばれていらっしゃるのですね」


「もちろんだ!」


「はい、お姉様」


 私は両手を重ねた。


 毎晩、神様にお礼を言う時と同じように。


「どうか、お二人の真実の愛に祝福をお与えください」


 温かな風が吹いた。


 閉まっていた窓が、一斉に開いた。


『聞き届けた』


 その声に、誰もが動きを止めた。


     *


 私の足元から、金色の光が広がった。


 大神官が、震えながら膝をついた。


「神よ……!」


 それを見て、人々が次々に頭を下げた。


 殿下だけが、呆然と立っていた。


『わが愛し子が願った。ゆえに、この二人の愛を祝福する』


 殿下と妹の左手に、金色の輪が浮かんだ。


 指輪ではない。


 肌に直接、光が刻まれていた。


「な、何だ、これは」


『二人の愛を、何人たりとも妨げてはならぬ』


 神様の声が、広間いっぱいに響いた。


『王も、親も、国の都合も、この二人を引き離す理由にはならぬ』


 妹は、最初だけ笑った。


 けれど、次の言葉でその笑顔が消えた。


『また、この国で今後、王位を継ぐ者は、必ず真実の愛によって結ばれた伴侶を持つものとする』


 空中に、光の文字が現れる。


『真実の愛と誓いながら、それが偽りであった者は、一年の後、その命を終える』


「お待ちください!」


 殿下が叫んだ。


「命を失うなど、そのようなことは!」


『偽りなのか』


 広間が静まり返った。


 殿下は、答えなかった。


 答えられなかった。


『真実ならば、恐れることはあるまい』


 神様の声は、少しも怒っていなかった。


 それが、かえって恐ろしかった。


 その時、入口の扉が開いた。


「何が起きている!」


 国王陛下だった。


 別室で外国の使節を迎えていた陛下は、広間の光を見て足を止めた。


 そして、息子と妹の手を見た。


「アレクシス。その輪は……」


『王よ』


 陛下は、その場に膝をついた。


『この娘は、私の愛し子である』


 光が、私を包んだ。


『豊かに、心安く生きるようにと、この世へ送り出した』


 父が私を見た。


 母は口元を押さえた。


 兄が、一歩だけ近づいた。


『セラフィーナ。もう、秘密にしなくてよい』


 私は頷いた。


「私は、生まれる時に神様の祝福をいただきました。愛し子であることは、誰にも話してはいけないと言われていたのです」


「なぜ……」


 父の声が震えた。


「なぜ、私たちにも言わなかった」


 私は父を見た。


「知っていたら、私の話を聞いてくださったのですか」


 父は、何も言わなかった。


     *


 翌朝、王宮に呼ばれた。


 国王陛下の前には、父と母、それから兄もいた。


 殿下と妹の姿はなかった。


「私は、婚約破棄を許可していない」


 陛下が言った。


 父が顔を上げた。


「殿下からは、陛下もご承知だと……」


「なぜ、私に確かめなかった」


 父は黙り込んだ。


 陛下は私へ向き直った。


「セラフィーナ嬢。息子が、とんでもないことをした」


「……はい」


「婚約を、元に戻すことはできないだろうか」


「お断りいたします」


 父と母が、同時に私を見た。


 私は持ってきた封筒を、机に置いた。


「半年前にも、解消をお願いしました」


 中には、両親からの手紙が入っていた。


 陛下は一枚ずつ読んだ。


 読み終わる頃には、その顔はすっかり疲れ切っていた。


「誰も、この娘の言葉を聞かなかったのだな」


 母が小さく言った。


「娘のためを思って……」


「本人は、嫌だと伝えている」


 母は俯いた。


 陛下は額に手を当てた。


「七年か」


 長い沈黙が落ちた。


「私は、この娘をよい妃に育てようとした。息子を支えてくれるようにと」


 陛下が、私の手元を見た。


 勉強のしすぎで、指には少し硬くなったところがある。


「その間、息子には何を教えていたのだ」


 私は返事をしなかった。


「七年もそばにいた相手が、何を望んでいるかも知らず、皆の前で切り捨てるような男に……」


 陛下の声が途切れた。


「育てたのは、私か」


     *


 神様の言葉は、国中の神殿に現れた。


 隠すことはできなかった。


 殿下と妹の金の輪も、消せなかった。


「王太子の位を取り上げれば、助かるのか」


 陛下が大神官に尋ねた。


「すでに交わされた誓いは、消えません」


「二人を別れさせれば」


「神の祝福に逆らうことになります」


「では、どうすればよい!」


 大神官は、深く頭を下げた。


「お二人が、真に愛し合うほかはございません」


 陛下は立ち上がりかけ、そのまま椅子へ沈んだ。


「……それを、命じることはできぬではないか」


 その夜、陛下は私に頭を下げた。


 部屋には、私と陛下しかいなかった。


「一度だけ、神に慈悲を願ってくれまいか」


「陛下……」


「愚かな息子だ。だが、死なせたくない」


 王冠を外した陛下は、ひどく年を取って見えた。


 私は目を閉じた。


 神様へ、二人を助けてほしいと願った。


 けれど、新しい言葉は聞こえなかった。


 ただ、胸の奥に静かな温かさがあった。


 愛を祝福した。


 その答えは、変わらなかった。


「申し訳ありません」


 私が言うと、陛下は首を振った。


「そなたが謝ることではない」


 そして、窓の外へ目を向けた。


「神に願う前に、息子の話を聞くべきだったのだろうな。そなたの話も」


     *


 国を出ると決めると、家族は私を引き留めた。


「領地へ帰りましょう」


 母が言った。


「あなたの部屋も、そのままよ」


「帰りません」


「どうして? もう、お城へ通う必要もないのよ」


 私は少し迷ってから答えた。


「どんな顔をして、家にいればよいのか分からないのです」


 母は泣いた。


 私はその涙を見ても、駆け寄れなかった。


 兄は、旅の準備を手伝ってくれた。


 身分を証明する書類と、私名義の財産をまとめてくれた。


「領地の祝福も、なくなるのか」


 最後に、兄はそう尋ねた。


「多分」


「……そうか」


 兄は長く黙っていた。


 やがて、机の上に紙を置いた。


「以前、お前が話していた、穀物を分けて保存する方法を教えてほしい」


 私は顔を上げた。


「あの時は、聞かずにすまなかった」


 兄が頭を下げた。


 私はすぐには答えられなかった。


 それでも、紙を引き寄せて、知っていることを書いた。


 許せるかどうかは、まだ分からなかった。


 でも、領地で暮らす人たちが困るのは嫌だった。


     *


 出発前日、妹が来た。


 高価なドレスも、きれいな髪飾りも、いつもどおりだった。


 ただ、爪だけが短くなっていた。


 何度も噛んだのだろう。


「お姉様。殿下が、王位を諦めてもいいって」


「そう」


「二人で静かに暮らそうって仰るの」


 私は妹を見た。


「あなたは、どうしたいの?」


 妹は唇を噛んだ。


「……分からないの」


 しばらくして、涙が落ちた。


「王妃になれると思っていたの。皆に大切にされて、きれいな服を着て……」


「ええ」


「でも殿下は、僕より王妃の位が欲しかったのかって」


 妹は両手で顔を覆った。


「好きだったのよ。優しくしてくださって、何でも褒めてくださって。でも、それ以外の殿下を、私、よく知らないの」


 私は水を注いだ。


 妹の前へ置いた。


「これから、知ればいいわ」


「嫌なところを見つけたら?」


「殿下にも、あるでしょうね」


「私の嫌なところも、知られてしまうわ」


「もう、少しは知られていると思う」


 妹が顔を上げた。


 私は嘘で慰めなかった。


「それでも一緒にいたいのか、二人で話して。私では、代わってあげられないから」


     *


 国境を越えた日は、雨だった。


 馬車は揺れるし、風は冷たいし、道はぬかるんでいた。


 それなのに私は、窓の外を見るのをやめられなかった。


 知らない町。


 知らない人。


 屋台から漂ってくる、知らない料理の匂い。


『雨を止めようか』


 懐かしい声がした。


 私は首を振った。


「このままで、大丈夫です」


『そうかい』


「神様。次に住む場所は、自分で選んでもいいですか」


『もちろん』


「仕事も?」


『好きなものを』


「失敗しても?」


 神様は少し笑ったようだった。


『その時は、愚痴を聞こう』


 私は声を出して笑った。


 向かいに座った旅の女性が、不思議そうにこちらを見た。


「何か、いいことでも?」


「はい」


 私は頷いた。


「これから、たくさんありそうです」


     *


 一年後、国王は息子の部屋を訪れた。


 日付が変わるまで、あと少しだった。


 アレクシスとリリアーナは、並んで座っていた。


 テーブルには、冷めたお茶が二つ置かれていた。


「父上」


 息子の声は、幼い頃のようだった。


「私は、リリアーナを好きなのだと思います」


「うむ」


「でも、愛していると言ってもらうたびに、安心するのです。これで助かるかもしれない、と」


 リリアーナが俯いた。


「私もです。殿下に優しくする時、これで本当の愛だと認められるかしらって、そればかり……」


 二人は泣いていた。


 王は、何も言えなかった。


「セラフィーナにも、同じことをさせていたのでしょうか」


 アレクシスが尋ねた。


「私に嫌われないように。間違えないように。ずっと、そんなことを考えさせていたのでしょうか」


 王は息子の隣に座った。


「……そうかもしれぬな」


「私は、それを退屈だと……」


 息子の声が震えた。


 王はその肩を抱いた。


 国のためなら、いくつもの命令を出せた。


 城門を閉めることも、兵を動かすこともできた。


 だが、今夜だけは、何もできなかった。


「父上、怖いです」


「ああ」


「まだ、死にたくありません」


 王は息子を抱く腕に力を込めた。


「私も、お前を失いたくない」


 時計が鳴った。


 金の輪が、ゆっくりと消えた。


 その夜、二つの命が失われた。


 夜が明けても、王は息子のそばを離れなかった。


     *


 知らせが届いた時、私は港町にいた。


 商会で、外国から来た人たちの手伝いをしていた。


 難しい言葉を知っていても、料理の名前が分からなくて困ることがある。


 計算を間違え、年下の店員に教わったこともある。


 失敗は、たくさんあった。


 けれど、誰かの顔色を見て一日を終えることはなくなった。


 私は仕事を休み、妹のために泣いた。


 泥だらけで笑っていた、小さなリリアーナを思い出した。


 楽しい思い出が消えることはなかった。


 されたことも、消えなかった。


 どちらも抱えたまま、私は窓辺に花を飾った。


 王からも手紙が来た。


 最後に、こう書かれていた。


 ――そなたの七年を、返すことはできない。せめて、これからの人生を王家のために使わせることはしない。


 私は何度か読み返してから、机の引き出しへしまった。


     *


 秋、私は旅に出ることになった。


 南へ向かう商隊が、通訳を探していたのだ。


「山を越えたら、大きな湖があるんだよ」


 商会のおばさんが教えてくれた。


「魚がうまくてね。岸辺には白い花が咲く」


「湖……」


「行ったことは?」


「ありません」


 十歳の誕生日に、行きたかった場所。


 私は地図を開いた。


「そこで、一日お休みできますか?」


「それくらい、頼んでみなさいよ」


 おばさんは笑った。


 誰かに許してもらう前に、自分の望みを口にしていい。


 私はまだ、それを練習しているところだった。


 出発の朝、おばさんがお弁当を持たせてくれた。


 パンと、焼いた肉と、小さな蜂蜜菓子。


 隅には、砂糖漬けの橙も入っていた。


「あんた、これ好きだったでしょう」


「はい」


 私は包みを大切に膝へ置いた。


 馬車が動き出す。


 窓を開けると、冷たい秋の風が頬に触れた。


『今度は、楽しみかい』


 神様が尋ねた。


 私は、地図の湖に指を置いた。


「はい。まずは、ここでお弁当を食べます」


 それは、ずいぶん長く待った願いだった。



あれから、多くの月日が過ぎた


王は、愛の言葉を口にしなくなった。


 私の父も、その前の王も。


 そして、私も。


 恋の詩を読まなくなったわけではない。


 誰かを好ましく思うことが、なくなったわけでもない。


 ただ、その気持ちに名前をつける時、必ず一度、口を閉じるようになった。


     *


 王宮の大広間には、神の言葉が浮かんでいる。


 何代も前の王太子が、婚約者を捨てた夜から、ずっと。


 ――この国の王となる者は、真実の愛で結ばれた者を伴侶とせよ。


 ――偽りの愛を誓った者は、一年の後、その命を終える。


 王太子は婚約者の妹を選び、真実の愛だと宣言した。


 捨てられた婚約者は、二人への祝福を神に願った。


 その娘は、神の愛し子だった。


 願いは聞き届けられ、一年後、二人は同じ夜に死んだ。


 以来、王家の婚姻は、国の祝い事であると同時に、恐ろしい賭けになった。


 婚約を交わし、誓いを立てた者の手には、金の輪が現れた。


 それが祝福なのか、それとも残された一年の印なのか。


 本人たちにも、分からなかった。


     *


 先々代の王は、その輪を持たなかった。


 私を養子に迎えた父の、そのまた養父に当たる人だ。


 若い頃、彼は重臣たちにこう告げたという。


「私は、結婚しない」


 重臣たちは当然、反対した。


「王となる者は、真実の愛で結ばれた伴侶を持たねばなりません」


「では、私に誰を選べというのだ」


 誰も、答えられなかった。


 先々代には婚約者がいた。


 隣国の王女だった。


 何度も会い、手紙を交わし、互いに好意を抱いていた。


 けれど、誓いの日が近づくにつれ、王女の手紙は短くなった。


 最後には、たった一文になった。


 ――私は、一年後が怖いのです。


 先々代は、その手紙を持って隣国へ行った。


 そして、自分から婚約の解消を願い出た。


 王女が泣いて喜んだことを、彼は生涯、誰にも責めさせなかった。


     *


 戴冠式の朝、先々代は一人で広間に入った。


 隣に立つ王妃はいない。


 指に金の輪もない。


 大神官は、王冠を持ったまま、もう一度尋ねた。


「よろしいのですか。神のお言葉に背くことになるかもしれません」


 先々代は、天井の文字を見上げた。


「伴侶を迎えるなら、真実の愛で結ばれた者を選べ。私は、そう受け取った」


「しかし……」


「私は誰も迎えない。愛を誓わず、子も持たない」


 広間には、息をする音さえ聞こえなかったという。


「それが過ちなら、裁きは私一人に」


 先々代は膝をついた。


 王冠が、その頭に載せられた。


 何も起こらなかった。


 雷も落ちなかった。


 金の輪も、現れなかった。


 けれど、人々が本当に恐れたのは、その日ではない。


 一年後だった。


     *


 戴冠から一年目の夜、先々代は執務室にいた。


 机の上には、翌年の水路工事の計画書があった。


 侍従も医師も部屋に控え、大神官は隣室で祈っていた。


 誰も時計を見ないふりをして、何度も見た。


「陛下。何か、お召し上がりになりますか」


 侍従が尋ねると、先々代は答えた。


「明日の朝食は、温かいパンがいい」


 侍従は泣きそうな顔で頷いた。


 やがて、時計が鳴った。


 日付が変わった。


 先々代は、計画書に署名した。


 そして窓を開け、長く息を吐いた。


 翌朝、彼は温かいパンを食べた。


 神の裁きは、訪れなかった。


     *


 神が認めたのか。


 それとも、見逃しただけなのか。


 その答えは、今も分からない。


 先々代は翌年も、その次の年も生きた。


 生涯独身を貫き、実の子を持たず、親族から少年を養子に迎えた。


 それが、私の父だ。


 父も同じ道を選んだ。


 そして、伯爵家の三男だった私を迎えた。


「お前まで、同じようにする必要はない」


 父は、私が成人した日にそう言った。


「誰かと暮らしたくなったら、よく話し合いなさい」


「父上は、そう思われたことがないのですか」


 父は少し笑った。


「あるよ」


 私は驚いた。


「それでも、結婚なさらなかったのですか」


「ああ」


 父は窓辺に置かれた、小さな花瓶を見た。


 時々、父を訪ねてくる女性が活けていく花だった。


「そばにいてくれるだけで、十分だった」


 それ以上は、尋ねなかった。


     *


「陛下。養子の候補をまとめました」


 宰相が、机へ書類を置いた。


 三人の子供の名前がある。


 年齢も、性格も、好きな勉強も違っていた。


 私は一枚ずつ読み、最初の頁へ戻った。


「会ってから決めたい」


「もちろんでございます」


「王になりたいかも、聞いておいてくれ」


 宰相が顔を上げた。


「家の意向ではなく、本人にだ」


「……かしこまりました」


 父も、私に聞いてくれた。


 すぐに答えなくてよいと言って、何度も城へ招いてくれた。


 父から、あの言葉を聞いたことは一度もない。


 それでも、私が夜中に熱を出せば、朝までそばにいた。


 初めて政務で失敗した時には、一緒に謝ってくれた。


 亡くなる前、父は私の手を握った。


「お前を迎えてよかった」


 私は、その言葉を今も覚えている。


     *


 夜、大広間を通った。


 神の文字が、静かに光っていた。


 その下で足を止め、私は先々代の肖像画を見上げた。


 王妃も、王子も、隣にはいない。


 一人きりの王。


 けれど、その人が選んだ道の先に、父がいて、私がいる。


「……よく、お挑みになりましたね」


 私は小さく呟いた。


 返事はない。


 神からも、肖像画からも。


 王は、愛を口にしなくなった。


 伴侶を迎えず、子も持たず、神の裁きに触れない場所で生きている。


 それが臆病なのか、賢明なのか、私にはまだ分からない。


 明日は、養子候補の子供たちと昼食を取る。


 私は広間を出る前に、侍従へ声をかけた。


「明日の料理だが、子供たちの好物を聞いてくれ」


「三人とも、違うものを望まれたら?」


「三つ、用意すればよい」


 侍従が笑った。


 私はもう一度、先々代の肖像画を振り返った。


 その顔が、少しだけ父に似て見えた。

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