愛の祝福
『その愛、神様が祝福します』
婚約破棄を告げられて、最初に思った。
――明日から、お城に行かなくていいんだ。
王子妃教育も。
苦手な先生との授業も。
好きでもない人に、笑いかけることも。
もう、しなくていい。
「セラフィーナ! 聞いているのか!」
声を張り上げた婚約者を見て、私は慌てて頷いた。
「はい。婚約を破棄なさるのですね」
彼の隣には、私の妹がいた。
二人はしっかりと手を握り合っている。
「私はリリアーナとの間に、真実の愛を見つけた!」
「お姉様、ごめんなさい。でも、私たちの気持ちは本物なの」
そう。
それなら、よかった。
私は両手を重ねた。
「神様。どうか、お二人の真実の愛に祝福をお与えください」
その願いは、すぐに聞き届けられた。
*
私には、前世の記憶が少しだけある。
白い病室。
腕につながった点滴。
枕元に積んだ旅行の本。
どこか遠くへ行きたかった。
けれど、その願いがかなう前に死んでしまった。
『今度は、好きなことをたくさんするといい』
生まれる前、神様はそう言ってくれた。
『お金に困らないよう、公爵家にしておいた。二番目の子だから、家を継ぐ心配もないよ』
なんて親切な神様だろう。
私は温かな暗闇の中で、ほっとした。
『祝福もあげよう。お前の暮らす場所が豊かで、毎日が穏やかであるように』
額に、温かいものが触れた。
『ただし、私の愛し子だということは、秘密にしておくんだよ』
どうして?
声にはならなかったけれど、神様には伝わった。
『お前ではなく、祝福を欲しがる人が来てしまうからね』
そうして私は、エルディア公爵家の次女ではなく、二番目の子――長女として生まれた。
名前は、セラフィーナ。
三つ上に兄がいて、一つ下には妹がいた。
幼い頃の私は、幸せだった。
父は肩車をしてくれたし、母は寝る前に本を読んでくれた。
兄は庭の木に作った秘密基地へ連れていってくれた。
妹のリリアーナは、いつも私の後ろをついてきた。
「お姉様、待って!」
「走ったら転ぶわよ」
そう言った私の方が転んで、二人で泥だらけになったこともある。
領地では、毎年たくさんの作物が採れた。
夏の水不足も、冬の食料不足もなかった。
ひどい嵐が近づいても、収穫が終わるまで雨は降らなかった。
「今年も豊作だ!」
人々の笑顔を見るのが好きだった。
夜、窓から星を見上げて、私は小さくお礼を言った。
「神様、ありがとう」
返事の代わりに、胸がぽかぽかした。
ずっと、こんな毎日が続くと思っていた。
*
すべてが変わったのは、十歳の春だった。
王家のお茶会で、アレクシス王太子殿下が私の隣に座った。
殿下は、皿の上のお菓子を見て困っていた。
「これ、好きじゃないんだ」
砂糖漬けの橙だった。
「私のものと交換しますか?」
「いいの?」
「はい。私は好きなので」
たった、それだけ。
私は好きなお菓子を食べられて、殿下も嬉しそうだった。
それで終わりのはずだった。
ところが三日後、婚約の話が来た。
「王太子殿下が、お前を気に入られたそうだ」
父は少し誇らしげだった。
私は首を振った。
「結婚したくありません」
「今すぐではない。大人になってからの話だ」
「でも……私は、ここにいたいです」
父は私の頭を撫でた。
「王妃になれるのだぞ。きっと幸せになれる」
私が何を幸せだと思うのか、父は聞かなかった。
その年の夏、私は王都の屋敷へ移った。
家族は領地に残った。
「お姉様だけ、王都に住むなんてずるい!」
出発の日、妹が頬を膨らませた。
私は妹の手を握った。
「代わってあげたいくらいよ」
妹は、それを冗談だと思って笑った。
*
王子妃教育は、思っていたよりずっと大変だった。
朝から歴史を習い、昼には礼儀作法を習う。
午後は外国語。
夜は、その日の復習。
笑い方まで直された。
「歯を見せすぎてはいけません」
歩き方も直された。
「急いでいても、足音を立てないように」
食事の時まで気を抜けなかった。
「殿下が召し上がる速さに合わせなさい」
十一歳の冬、私は熱を出した。
寝台の中から、侍女にお願いした。
「お母様に、来てほしいと伝えて」
数日後、母から手紙が届いた。
――リリアーナが風邪をひいてしまったの。あなたには侍女もいるでしょう。よい子にしていてね。
私にも熱があることは、伝わったのだろうか。
分からなかった。
時々、両親は王都へ来た。
私は会える日を楽しみにした。
けれど、話したいことがうまく伝わらなくなった。
「外国の使節の方に、ご挨拶することになったのです」
「まあ、大役ね」
母はそう言って、それから妹の話をした。
「リリアーナはね、最近お菓子作りを始めたの。昨日は台所を粉だらけにしてしまって」
父が笑った。
母も笑った。
私も笑った。
そのあとで、言おうと思っていたことを忘れたふりをした。
本当は怖い。
間違えたら、先生に叱られる。
そばにいてほしい。
そういう言葉は、手紙にも書けなくなった。
*
十四歳になると、三年間通う決まりの学園に入った。
少しだけ期待していた。
友達とおしゃべりをしたり、帰りにお店へ寄ったり。
そんな毎日が始まるかもしれない。
けれど、授業が終わると城の馬車が迎えに来た。
「セラフィーナ様、今日は刺繍の授業です」
翌日は、ダンス。
その翌日は、外国語。
何度も誘いを断っているうちに、誰も誘ってくれなくなった。
一年後、妹が入学した。
リリアーナは、私とはまるで違った。
面白ければ、大きな声で笑う。
嫌なことは、嫌だと言う。
失敗しても、誰かが助けてくれると信じている。
「お姉様、もっと楽しめばいいのに」
妹は、簡単にそう言った。
楽しみ方を忘れてしまった私に。
殿下が妹と親しくなるのに、時間はかからなかった。
ある日、私は殿下と慈善式典の相談をしていた。
貧しい子供たちへ、冬の服を贈る式典だ。
そこへ妹が来た。
「殿下、お庭の薔薇がきれいですわ!」
「見に行こうか」
殿下は、すぐに立ち上がった。
「セラフィーナ、準備は君に任せる」
二人が去ったあと、私は残された書類を片づけた。
招待客の名前を確かめて、寄付の金額を計算する。
殿下が読む挨拶も、私が書いた。
式典の日、人々は殿下を褒めた。
「なんとお優しい王太子様だろう」
殿下の隣では、妹が誇らしげに笑っていた。
私は後ろに立って、その二人を見ていた。
*
卒業の半年前、父に手紙を書いた。
――殿下は、リリアーナを想っておられます。婚約を解消させてください。
返事は、すぐに来た。
――妹を疑うとは、姉として恥ずかしくないのか。
母からも届いた。
――あの子は、あなたほど強くないの。優しくしてあげてね。
私は手紙を机に置いた。
強いわけではなかった。
泣いても誰も来ないから、泣くのをやめただけだった。
それでも、両親は知らない。
知ろうとも、しなかった。
*
そして、卒業夜会。
殿下は大勢の前で、婚約破棄を告げた。
「リリアーナは、私を王太子としてではなく、一人の人間として愛してくれる!」
妹が、殿下の腕に寄り添った。
父も母も、その場にいた。
「お父様」
呼びかけると、父は目をそらした。
「お前と殿下の相性が、よくなかったのだろう」
母は妹の肩を撫でた。
「この子たちを、許してあげて」
兄は離れた場所から、黙って見ていた。
王家とのつながりは、妹がいれば守れる。
きっと、そう考えていたのだろう。
会場の人々は、誰も口を開かなかった。
私は、ゆっくり息を吐いた。
ああ、終わった。
十歳から続いた、私の役目が。
「お二人は、真実の愛で結ばれていらっしゃるのですね」
「もちろんだ!」
「はい、お姉様」
私は両手を重ねた。
毎晩、神様にお礼を言う時と同じように。
「どうか、お二人の真実の愛に祝福をお与えください」
温かな風が吹いた。
閉まっていた窓が、一斉に開いた。
『聞き届けた』
その声に、誰もが動きを止めた。
*
私の足元から、金色の光が広がった。
大神官が、震えながら膝をついた。
「神よ……!」
それを見て、人々が次々に頭を下げた。
殿下だけが、呆然と立っていた。
『わが愛し子が願った。ゆえに、この二人の愛を祝福する』
殿下と妹の左手に、金色の輪が浮かんだ。
指輪ではない。
肌に直接、光が刻まれていた。
「な、何だ、これは」
『二人の愛を、何人たりとも妨げてはならぬ』
神様の声が、広間いっぱいに響いた。
『王も、親も、国の都合も、この二人を引き離す理由にはならぬ』
妹は、最初だけ笑った。
けれど、次の言葉でその笑顔が消えた。
『また、この国で今後、王位を継ぐ者は、必ず真実の愛によって結ばれた伴侶を持つものとする』
空中に、光の文字が現れる。
『真実の愛と誓いながら、それが偽りであった者は、一年の後、その命を終える』
「お待ちください!」
殿下が叫んだ。
「命を失うなど、そのようなことは!」
『偽りなのか』
広間が静まり返った。
殿下は、答えなかった。
答えられなかった。
『真実ならば、恐れることはあるまい』
神様の声は、少しも怒っていなかった。
それが、かえって恐ろしかった。
その時、入口の扉が開いた。
「何が起きている!」
国王陛下だった。
別室で外国の使節を迎えていた陛下は、広間の光を見て足を止めた。
そして、息子と妹の手を見た。
「アレクシス。その輪は……」
『王よ』
陛下は、その場に膝をついた。
『この娘は、私の愛し子である』
光が、私を包んだ。
『豊かに、心安く生きるようにと、この世へ送り出した』
父が私を見た。
母は口元を押さえた。
兄が、一歩だけ近づいた。
『セラフィーナ。もう、秘密にしなくてよい』
私は頷いた。
「私は、生まれる時に神様の祝福をいただきました。愛し子であることは、誰にも話してはいけないと言われていたのです」
「なぜ……」
父の声が震えた。
「なぜ、私たちにも言わなかった」
私は父を見た。
「知っていたら、私の話を聞いてくださったのですか」
父は、何も言わなかった。
*
翌朝、王宮に呼ばれた。
国王陛下の前には、父と母、それから兄もいた。
殿下と妹の姿はなかった。
「私は、婚約破棄を許可していない」
陛下が言った。
父が顔を上げた。
「殿下からは、陛下もご承知だと……」
「なぜ、私に確かめなかった」
父は黙り込んだ。
陛下は私へ向き直った。
「セラフィーナ嬢。息子が、とんでもないことをした」
「……はい」
「婚約を、元に戻すことはできないだろうか」
「お断りいたします」
父と母が、同時に私を見た。
私は持ってきた封筒を、机に置いた。
「半年前にも、解消をお願いしました」
中には、両親からの手紙が入っていた。
陛下は一枚ずつ読んだ。
読み終わる頃には、その顔はすっかり疲れ切っていた。
「誰も、この娘の言葉を聞かなかったのだな」
母が小さく言った。
「娘のためを思って……」
「本人は、嫌だと伝えている」
母は俯いた。
陛下は額に手を当てた。
「七年か」
長い沈黙が落ちた。
「私は、この娘をよい妃に育てようとした。息子を支えてくれるようにと」
陛下が、私の手元を見た。
勉強のしすぎで、指には少し硬くなったところがある。
「その間、息子には何を教えていたのだ」
私は返事をしなかった。
「七年もそばにいた相手が、何を望んでいるかも知らず、皆の前で切り捨てるような男に……」
陛下の声が途切れた。
「育てたのは、私か」
*
神様の言葉は、国中の神殿に現れた。
隠すことはできなかった。
殿下と妹の金の輪も、消せなかった。
「王太子の位を取り上げれば、助かるのか」
陛下が大神官に尋ねた。
「すでに交わされた誓いは、消えません」
「二人を別れさせれば」
「神の祝福に逆らうことになります」
「では、どうすればよい!」
大神官は、深く頭を下げた。
「お二人が、真に愛し合うほかはございません」
陛下は立ち上がりかけ、そのまま椅子へ沈んだ。
「……それを、命じることはできぬではないか」
その夜、陛下は私に頭を下げた。
部屋には、私と陛下しかいなかった。
「一度だけ、神に慈悲を願ってくれまいか」
「陛下……」
「愚かな息子だ。だが、死なせたくない」
王冠を外した陛下は、ひどく年を取って見えた。
私は目を閉じた。
神様へ、二人を助けてほしいと願った。
けれど、新しい言葉は聞こえなかった。
ただ、胸の奥に静かな温かさがあった。
愛を祝福した。
その答えは、変わらなかった。
「申し訳ありません」
私が言うと、陛下は首を振った。
「そなたが謝ることではない」
そして、窓の外へ目を向けた。
「神に願う前に、息子の話を聞くべきだったのだろうな。そなたの話も」
*
国を出ると決めると、家族は私を引き留めた。
「領地へ帰りましょう」
母が言った。
「あなたの部屋も、そのままよ」
「帰りません」
「どうして? もう、お城へ通う必要もないのよ」
私は少し迷ってから答えた。
「どんな顔をして、家にいればよいのか分からないのです」
母は泣いた。
私はその涙を見ても、駆け寄れなかった。
兄は、旅の準備を手伝ってくれた。
身分を証明する書類と、私名義の財産をまとめてくれた。
「領地の祝福も、なくなるのか」
最後に、兄はそう尋ねた。
「多分」
「……そうか」
兄は長く黙っていた。
やがて、机の上に紙を置いた。
「以前、お前が話していた、穀物を分けて保存する方法を教えてほしい」
私は顔を上げた。
「あの時は、聞かずにすまなかった」
兄が頭を下げた。
私はすぐには答えられなかった。
それでも、紙を引き寄せて、知っていることを書いた。
許せるかどうかは、まだ分からなかった。
でも、領地で暮らす人たちが困るのは嫌だった。
*
出発前日、妹が来た。
高価なドレスも、きれいな髪飾りも、いつもどおりだった。
ただ、爪だけが短くなっていた。
何度も噛んだのだろう。
「お姉様。殿下が、王位を諦めてもいいって」
「そう」
「二人で静かに暮らそうって仰るの」
私は妹を見た。
「あなたは、どうしたいの?」
妹は唇を噛んだ。
「……分からないの」
しばらくして、涙が落ちた。
「王妃になれると思っていたの。皆に大切にされて、きれいな服を着て……」
「ええ」
「でも殿下は、僕より王妃の位が欲しかったのかって」
妹は両手で顔を覆った。
「好きだったのよ。優しくしてくださって、何でも褒めてくださって。でも、それ以外の殿下を、私、よく知らないの」
私は水を注いだ。
妹の前へ置いた。
「これから、知ればいいわ」
「嫌なところを見つけたら?」
「殿下にも、あるでしょうね」
「私の嫌なところも、知られてしまうわ」
「もう、少しは知られていると思う」
妹が顔を上げた。
私は嘘で慰めなかった。
「それでも一緒にいたいのか、二人で話して。私では、代わってあげられないから」
*
国境を越えた日は、雨だった。
馬車は揺れるし、風は冷たいし、道はぬかるんでいた。
それなのに私は、窓の外を見るのをやめられなかった。
知らない町。
知らない人。
屋台から漂ってくる、知らない料理の匂い。
『雨を止めようか』
懐かしい声がした。
私は首を振った。
「このままで、大丈夫です」
『そうかい』
「神様。次に住む場所は、自分で選んでもいいですか」
『もちろん』
「仕事も?」
『好きなものを』
「失敗しても?」
神様は少し笑ったようだった。
『その時は、愚痴を聞こう』
私は声を出して笑った。
向かいに座った旅の女性が、不思議そうにこちらを見た。
「何か、いいことでも?」
「はい」
私は頷いた。
「これから、たくさんありそうです」
*
一年後、国王は息子の部屋を訪れた。
日付が変わるまで、あと少しだった。
アレクシスとリリアーナは、並んで座っていた。
テーブルには、冷めたお茶が二つ置かれていた。
「父上」
息子の声は、幼い頃のようだった。
「私は、リリアーナを好きなのだと思います」
「うむ」
「でも、愛していると言ってもらうたびに、安心するのです。これで助かるかもしれない、と」
リリアーナが俯いた。
「私もです。殿下に優しくする時、これで本当の愛だと認められるかしらって、そればかり……」
二人は泣いていた。
王は、何も言えなかった。
「セラフィーナにも、同じことをさせていたのでしょうか」
アレクシスが尋ねた。
「私に嫌われないように。間違えないように。ずっと、そんなことを考えさせていたのでしょうか」
王は息子の隣に座った。
「……そうかもしれぬな」
「私は、それを退屈だと……」
息子の声が震えた。
王はその肩を抱いた。
国のためなら、いくつもの命令を出せた。
城門を閉めることも、兵を動かすこともできた。
だが、今夜だけは、何もできなかった。
「父上、怖いです」
「ああ」
「まだ、死にたくありません」
王は息子を抱く腕に力を込めた。
「私も、お前を失いたくない」
時計が鳴った。
金の輪が、ゆっくりと消えた。
その夜、二つの命が失われた。
夜が明けても、王は息子のそばを離れなかった。
*
知らせが届いた時、私は港町にいた。
商会で、外国から来た人たちの手伝いをしていた。
難しい言葉を知っていても、料理の名前が分からなくて困ることがある。
計算を間違え、年下の店員に教わったこともある。
失敗は、たくさんあった。
けれど、誰かの顔色を見て一日を終えることはなくなった。
私は仕事を休み、妹のために泣いた。
泥だらけで笑っていた、小さなリリアーナを思い出した。
楽しい思い出が消えることはなかった。
されたことも、消えなかった。
どちらも抱えたまま、私は窓辺に花を飾った。
王からも手紙が来た。
最後に、こう書かれていた。
――そなたの七年を、返すことはできない。せめて、これからの人生を王家のために使わせることはしない。
私は何度か読み返してから、机の引き出しへしまった。
*
秋、私は旅に出ることになった。
南へ向かう商隊が、通訳を探していたのだ。
「山を越えたら、大きな湖があるんだよ」
商会のおばさんが教えてくれた。
「魚がうまくてね。岸辺には白い花が咲く」
「湖……」
「行ったことは?」
「ありません」
十歳の誕生日に、行きたかった場所。
私は地図を開いた。
「そこで、一日お休みできますか?」
「それくらい、頼んでみなさいよ」
おばさんは笑った。
誰かに許してもらう前に、自分の望みを口にしていい。
私はまだ、それを練習しているところだった。
出発の朝、おばさんがお弁当を持たせてくれた。
パンと、焼いた肉と、小さな蜂蜜菓子。
隅には、砂糖漬けの橙も入っていた。
「あんた、これ好きだったでしょう」
「はい」
私は包みを大切に膝へ置いた。
馬車が動き出す。
窓を開けると、冷たい秋の風が頬に触れた。
『今度は、楽しみかい』
神様が尋ねた。
私は、地図の湖に指を置いた。
「はい。まずは、ここでお弁当を食べます」
それは、ずいぶん長く待った願いだった。
あれから、多くの月日が過ぎた
王は、愛の言葉を口にしなくなった。
私の父も、その前の王も。
そして、私も。
恋の詩を読まなくなったわけではない。
誰かを好ましく思うことが、なくなったわけでもない。
ただ、その気持ちに名前をつける時、必ず一度、口を閉じるようになった。
*
王宮の大広間には、神の言葉が浮かんでいる。
何代も前の王太子が、婚約者を捨てた夜から、ずっと。
――この国の王となる者は、真実の愛で結ばれた者を伴侶とせよ。
――偽りの愛を誓った者は、一年の後、その命を終える。
王太子は婚約者の妹を選び、真実の愛だと宣言した。
捨てられた婚約者は、二人への祝福を神に願った。
その娘は、神の愛し子だった。
願いは聞き届けられ、一年後、二人は同じ夜に死んだ。
以来、王家の婚姻は、国の祝い事であると同時に、恐ろしい賭けになった。
婚約を交わし、誓いを立てた者の手には、金の輪が現れた。
それが祝福なのか、それとも残された一年の印なのか。
本人たちにも、分からなかった。
*
先々代の王は、その輪を持たなかった。
私を養子に迎えた父の、そのまた養父に当たる人だ。
若い頃、彼は重臣たちにこう告げたという。
「私は、結婚しない」
重臣たちは当然、反対した。
「王となる者は、真実の愛で結ばれた伴侶を持たねばなりません」
「では、私に誰を選べというのだ」
誰も、答えられなかった。
先々代には婚約者がいた。
隣国の王女だった。
何度も会い、手紙を交わし、互いに好意を抱いていた。
けれど、誓いの日が近づくにつれ、王女の手紙は短くなった。
最後には、たった一文になった。
――私は、一年後が怖いのです。
先々代は、その手紙を持って隣国へ行った。
そして、自分から婚約の解消を願い出た。
王女が泣いて喜んだことを、彼は生涯、誰にも責めさせなかった。
*
戴冠式の朝、先々代は一人で広間に入った。
隣に立つ王妃はいない。
指に金の輪もない。
大神官は、王冠を持ったまま、もう一度尋ねた。
「よろしいのですか。神のお言葉に背くことになるかもしれません」
先々代は、天井の文字を見上げた。
「伴侶を迎えるなら、真実の愛で結ばれた者を選べ。私は、そう受け取った」
「しかし……」
「私は誰も迎えない。愛を誓わず、子も持たない」
広間には、息をする音さえ聞こえなかったという。
「それが過ちなら、裁きは私一人に」
先々代は膝をついた。
王冠が、その頭に載せられた。
何も起こらなかった。
雷も落ちなかった。
金の輪も、現れなかった。
けれど、人々が本当に恐れたのは、その日ではない。
一年後だった。
*
戴冠から一年目の夜、先々代は執務室にいた。
机の上には、翌年の水路工事の計画書があった。
侍従も医師も部屋に控え、大神官は隣室で祈っていた。
誰も時計を見ないふりをして、何度も見た。
「陛下。何か、お召し上がりになりますか」
侍従が尋ねると、先々代は答えた。
「明日の朝食は、温かいパンがいい」
侍従は泣きそうな顔で頷いた。
やがて、時計が鳴った。
日付が変わった。
先々代は、計画書に署名した。
そして窓を開け、長く息を吐いた。
翌朝、彼は温かいパンを食べた。
神の裁きは、訪れなかった。
*
神が認めたのか。
それとも、見逃しただけなのか。
その答えは、今も分からない。
先々代は翌年も、その次の年も生きた。
生涯独身を貫き、実の子を持たず、親族から少年を養子に迎えた。
それが、私の父だ。
父も同じ道を選んだ。
そして、伯爵家の三男だった私を迎えた。
「お前まで、同じようにする必要はない」
父は、私が成人した日にそう言った。
「誰かと暮らしたくなったら、よく話し合いなさい」
「父上は、そう思われたことがないのですか」
父は少し笑った。
「あるよ」
私は驚いた。
「それでも、結婚なさらなかったのですか」
「ああ」
父は窓辺に置かれた、小さな花瓶を見た。
時々、父を訪ねてくる女性が活けていく花だった。
「そばにいてくれるだけで、十分だった」
それ以上は、尋ねなかった。
*
「陛下。養子の候補をまとめました」
宰相が、机へ書類を置いた。
三人の子供の名前がある。
年齢も、性格も、好きな勉強も違っていた。
私は一枚ずつ読み、最初の頁へ戻った。
「会ってから決めたい」
「もちろんでございます」
「王になりたいかも、聞いておいてくれ」
宰相が顔を上げた。
「家の意向ではなく、本人にだ」
「……かしこまりました」
父も、私に聞いてくれた。
すぐに答えなくてよいと言って、何度も城へ招いてくれた。
父から、あの言葉を聞いたことは一度もない。
それでも、私が夜中に熱を出せば、朝までそばにいた。
初めて政務で失敗した時には、一緒に謝ってくれた。
亡くなる前、父は私の手を握った。
「お前を迎えてよかった」
私は、その言葉を今も覚えている。
*
夜、大広間を通った。
神の文字が、静かに光っていた。
その下で足を止め、私は先々代の肖像画を見上げた。
王妃も、王子も、隣にはいない。
一人きりの王。
けれど、その人が選んだ道の先に、父がいて、私がいる。
「……よく、お挑みになりましたね」
私は小さく呟いた。
返事はない。
神からも、肖像画からも。
王は、愛を口にしなくなった。
伴侶を迎えず、子も持たず、神の裁きに触れない場所で生きている。
それが臆病なのか、賢明なのか、私にはまだ分からない。
明日は、養子候補の子供たちと昼食を取る。
私は広間を出る前に、侍従へ声をかけた。
「明日の料理だが、子供たちの好物を聞いてくれ」
「三人とも、違うものを望まれたら?」
「三つ、用意すればよい」
侍従が笑った。
私はもう一度、先々代の肖像画を振り返った。
その顔が、少しだけ父に似て見えた。




