#4 四辻の厄、あちら側の私。──愛媛県南予地方の節分
(2026/2/4)
この季節、都会の住宅街を歩いていて「道が綺麗だ」と驚くことがある。
私の故郷、愛媛県南予地方の節分を知る者からすれば、翌朝の十字路というものは、車に踏み潰された豆とティッシュの残骸が散らばる「戦跡」のような場所だからだ。
私の地元には、恵方巻きや豆まきとは別に、奇妙な風習が根付いている。
正式名称は知らない。ただ、私たちはそれを「豆を置きに行く」と呼ぶ。
ルールは明快で、けれど少しだけ恐ろしい。
ティッシュに満年齢+一つの豆(人によっては厄落としの小銭も)を包み、夜の四辻へと向かう。道中、一言も喋ってはならない。後ろを振り向いてもいけない。誰かに遭遇したら、家に戻ってやり直し。
暗闇の中、家族とニヤニヤ顔を見合わせながら、無言で四辻に厄を捨て置く。
子供の頃、「お金が落ちてる!」と拾おうとして、「厄をもらうからいけん!」と母に叱られた。誰かが捨てた厄を拾う代わりに、お礼としてお金を受け取る。そこには、そんな呪術的な等価交換の論理が働いているのだという。
それにしても、なぜ「四辻」なのだろうか。
古来、辻は現世と常世、あるいは黄泉の国が交わる場所だと言われてきた。
私たちは節分の夜、四辻というインターフェースを通じて、自分の厄を「あちら側の世界」へ勝手にアップロードして、肩代わりしてもらっているのかもしれない。
けれど、ふと思うのだ。
もし、あちら側の世界の私までもが、同じように豆を包んで四辻に向かっていたとしたら。
私たちが捨てた厄は、鏡合わせの世界で永遠にたらい回しにされているのではないか。そう考えると、捨てられた「厄」そのものが、なんだかひどく気の毒に思えてくる。
「ごめんね、厄。私にはどうすることも出来んのだよ」
そんなことを考えながら、私は土曜日に買っておいた焼肉を頬張る。
噛みしめる肉の味は、睡眠不足の身体に「生」の輪郭を突きつけてくる。睡眠と肉という、この上なく現世的な解決策のおかげで、私の厄はひとまず沈黙したようだ。
節分は旧暦の大晦日。
新年あけましておめでとうございます。
四辻に捨てた豆が誰かに踏まれ、土に還る頃。
私の新しい物語も、また少しずつ、動き出そうとしている。




