#1 心は揺れなくていい。──カタルシスがわからない私の創作1週間。
(2026/2/3)
今まで、それなりに物語を摂取して生きてきた自負はある。
学生時代、毎日のように通った図書館。DNAの本でクローン羊のドリー(実は私より年上だ)に驚愕したあの日も、格安のDVDプレイヤーでGEOのB級映画を漁った日々も。「普通の人以上、好きな人未満」の中途半端な温度で、私は物語という事象を眺めてきた。
そんな私が、ふと思い立って小説を書き始めたのは、つい先週のことだ。
米子から大阪へ向かう高速バスの窓外。溶けていく雪景色を眺めながら、「なんだか書いてみたくなっちゃった」という、ただそれだけの、ひどく頼りない衝動だった。
そこからの1週間で、短編を6作。
文字通り、寝る間を惜しんで書き殴った。不器用な情熱は、金曜日の電車内で私に「人生初の過呼吸」をもたらした。息の仕方を忘れ、指先は痺れ、頭痛が走る。どうやら寝不足はお肌だけでなく、生命維持そのものの敵だったらしい。
それほどの熱量で挑んだ創作で、私はある決定的な「欠陥」にぶつかった。
「私、カタルシスに価値を見出していない」
ここでいう感動とは、心を揺さぶられる情動のことだ。
私は構造として物語を理解できても、それが情動経験に結びつかない。伏線と回収、緊張と緩和。それらが「記号」として見えた瞬間に冷めてしまう。「よく作られているな」と感心はしても、心は踊らない。
私の魂を唯一動かしたのは、映画『リリィ・シュシュのすべて』の、あの映像美と残酷さが同居した「嫌な」感覚だけだった。
この冷めきった感性は、作り手として致命的ではないのか?
オープンチャットで感想をもらい、さらに愕然とした。私はただ事象の連なりとして書いたはずの場所に、読者は「感動の息吹」を見出していたのだ。
みんな、そんなに感動したいの?
みんな、そんなに心を揺らしたいの?
頭の中で「カタルシス」と「フリ」と「カルタシス」……なぜだか「サンドリヨン」という言葉までが輪になって踊る。カタルシスに振り回され、3時間もAIと討論し、気づけば4時間も考え続けている。私はまるで、本性を暴かれてしぼんでいく「荒地の魔女」の気分だった。
けれど、ぐるぐる考えた末に、私は開き直ることにした。
「だったら、記号的にカタルシスを作ればいい。フィクションなんだから」
別に、小説家先生になりたいわけじゃない。
欲しい物語はAIが無料で吐き出してくれる時代だ。それでも私が書きたいのは、私が見たい世界を、自分の手で作り出したいからだ。そして、それを誰かと共有できたら、それはきっと素敵なことだから。
『SAVE THE CAT』も、インデントのルールも、カタルシスの作法も。
それらはあくまで「型」であって、本質ではない。
今の私が書きたいのは、カタルシスが主役の物語ではなく、全体を見通した時にようやく輪郭が見える、そんな静かな世界なのだ。
1週間前には知らなかった、この「産みの苦しみ」と「パズルのような楽しさ」。
感性が死んでいるのか、それとも新しい何かが生まれようとしているのか。
どちらにせよ、最後まで読ませるだけの文章力くらいは鍛えておきたい。
カタルシスに背を向けたまま、私は今夜もキーボードを叩く。
ガンバ、私。
ガンバ、大阪。




