#17 Simejiが変換できない「正しさ」について
(2026/2/9)
ふとした拍子に、「水平社宣言」という言葉を思い出した。
この重厚な響きを、現代のスマートフォンで入力しようとして驚く。Simejiで打っても、一発で変換候補に出てこないのだ。当たり前に共有されている言葉だと思い込んでいたが、機械の辞書からはこぼれ落ちているらしい。その事実に、私は少しばかりの寂しさと危うさを感じてしまう。
私の通っていた中学校では、「人権について考えよう」という時間が頻繁に設けられていた。
今思えば、その多くは「正しさの押しつけ」に近いものだったが、「水平社宣言」について学ぶ機会があったことだけは、私の人生において確かな価値があったと思う。
社会的に差別されてきた人々が蜂起し、自らの人権を勝ち取った象徴。その過程に、私は震えるような衝撃を受けた。
実は、この宣言が成されるまで、差別を受けていない「一般の人々」が、彼らの不遇を嘆いて何度も蜂起していたのだという。「こんな扱いは間違っている」「可哀想だ、何とかしなければ」と。
けれど、その声が届き、社会が動くことはなかった。
事態が動いたのは、他ならぬ当事者たちが、「自分たちにも人権があっていいのだ」と信じ、自ら声を上げた時だった。
――当事者の声でなければ、届かなかったのだ。
教科書に載っていた「荊冠旗」が、誇らしげに目に映る。先生の説明をよそに、私はその冊子にのめり込んでいた。
「自分の現状を変えられるのは、自分しかいない」
それは学校が意図した「人権教育」の正解ではなかったかもしれないが、私が「人間」でいるために最も必要な確信に思えた。
せっかく喋れる口があり、考える頭を持って生まれたのだ。
ただ用意された正しさを享受するのではなく、思考し、行動し、言葉にする。それが本当に正しいのか、自分の頭で検証し続けること。当たり前すぎて忘れてしまいそうになるが、これを放棄したまま「大人」と呼ばれることだけは、私は嫌だ。
SNSでポストする。快・不快を表情に出す。
そんな日々の些細な振る舞いも、一度立ち止まって考え直す必要があるかもしれない。
私の声が、いつか誰かに受理される、その日のために。
なーんてね。




