#15 「包まない小籠包」の幸福論
(2026/2/9)
今日は、「何かをちゃんと作って食べたい」という欲求が、静かに、けれど強く首をもたげてきた。
ここ数日、友人との外食や、身体の重さに負けて頼り切ったUber Eats、そしてコンビニ飯。外食中心の生活が続いていたことへの、生存本能的な反動かもしれない。
自分で作らなくても、手軽に栄養を摂取できる現代ニッポンには感謝しかない。けれど、そんな便利な食生活では、どうしても野菜が不足しがちになる。
私は肉と米をこよなく愛しているが、実は野菜も同じくらい好きだ。おそらく世間一般の平均値よりも、私は食事という行為に対して異様なほど高い執着心と愛着を持っている。
……ただし、ゴボウ。お前はダメだ。
重い腰を上げ、スーパーで食材を調達してきた。
とはいえ、工程の多い料理に挑むほどの体力はまだない。選んだのは、刻んで、混ぜて、火にかけるだけで成立する「包まない小籠包」だ。これなら好みのキノコを大量に投入できるし、今の私の気分にちょうどいい。
本当は薬味だって、自分の手ですりおろしたり刻んだりしたいところだが、今日は文明の利器に甘えることにする。チューブの生姜と、最初から刻まれているネギ。彼らに頼れば、風味こそ少し劣るが、それなりの「正解」に辿り着ける。しんどい時の心強い味方である。
ものの数分で完成した、なんちゃって小籠包。
片手鍋からダイレクトに食らうワイルドさと背徳感が、旨味をさらに引き立てる。スプーンで皮を破れば、溢れ出す肉汁。視覚が「美味しい」と確定したあとで、肉と野菜、そしてキノコの甘みが舌の上で混ざり合う。
そのまま食べてよし、味ポンでさっぱりと流し込んでもよし。
控えめに言って、作って良かった。心からそう思う。
何かを作れるだけの気力と体力が、自分に戻ってきていることの幸せ。
こうしたささやかな喜びをしみじみと味わうために、今の停滞した時間も必要だったのかもしれない。
腹が満たされるとともに、世界が少しだけ、正しい位置に戻ったような気がした。




