#12 評価されにくい話を書いた自覚はある。それはそれとして褒められたい。
(2026/2/7)
小説を書いた。
一月二十六日、唐突に内側から突き上げてきた衝動に身を任せ、一週間で短編六作品を書き上げた。我ながら、心の赴くままにやり切ったという自負がある。技術や作法を学んだわけではないが、自分の中にある「表したいもの」の輪郭は、確かに捉えたつもりだった。
だが、濃密な達成感を味わった直後、困った感情が沸き立ってきた。
――承認欲求である。
これは、これまで創作という荒野に足を踏み入れてこなかった者の、手痛い弊害だと言える。
長く創作に携わっている者なら、「心血注いだものが評価されない」という冷や水を浴び、耐性を付けているのだろう。だが、私にはそれが皆無だ。煽り耐性はゼロ。作品を見てほしい、あわよくば肯定してほしいという欲求が、時間とともに蒸気のように湧き上がってくる。
厄介なのは、私の書いたものが決して「王道」ではないことだ。
読み手を選び、共感を強要しない。評価されにくいことは百も承知だ。それなのに、心は叫ぶ。世界の中心で愛を叫ぶ主人公のように、私もまた、液晶画面の中心で承認欲求を叫びたい。
ありがたいことに、レビューを頂いては舞い上がっている。
しかし、潤えば潤うほど、承認欲求の分厚い雲はさらに雨を降らせる。
スマホの画面では、カクヨムのアプリだけが異常な起動回数を記録している。通知のベルマークに赤い点がついているか、更新ボタンを叩く指が止まらない。
自分の中にこれほどの渇望があったのかという羞恥心と、「良いものを書いたのだから読まれるべきだ」という過信。どちらも救いようがなく、厄介だ。
この雨が上がったあと、虹がかかるのか、それとも泥だらけの轍が残るのか。
期待と羞恥の入り混じった動悸に耐えながら、私は今日もまた、通知の赤い印を探している。




