エピローグ 選び合った、その先で
婚約解消の話は、結局なかったことになった。
正確に言えば、「白紙に戻す」という選択肢そのものが、静かに消えた。
理由は単純だ。
俺たちが、はっきりと意思を示したから。
「このままでいい、ではなくて」
「この人がいい、と言えるようになりました」
そう言って頭を下げた紗月の横で、俺も同じように頭を下げた。
あの日の彼女は、少しだけ震えていたけれど。
それでも、俺の手をしっかりと握っていた。
それだけで、十分だった。
それからの日常は、驚くほど変わったようで、変わらなかった。
朝は同じ時間に起きて、同じ食卓を囲む。
並んで学校へ行き、並んで帰る。
ただ一つ違うのは。
名前を呼ぶことが、当たり前になったことだ。
「悠真」
不意に呼ばれるたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「紗月」
呼び返すと、彼女は少しだけ照れたように微笑う。
それだけで、一日が報われる気がした。
ある日の帰り道。
夕焼けに染まる住宅街を、二人で歩いていた。
「前は、ちゃんと話すのも緊張してました」
そう言って、紗月は小さく笑う。
「今も、緊張はしますけど……」
「それ、悪い意味じゃないよな」
「はい。大切にされてるって、分かるから」
そう言われて、俺の方が照れる。
許嫁だから一緒にいるのではない。
好きだから、隣にいる。
その事実が、こんなにも心を軽くするなんて、知らなかった。
家に着くと、自然な流れで同じソファに座る。
肩が触れて、指先が絡む。
以前なら、考えもしなかった距離だ。
「ねえ、悠真」
「どうした?」
「……好きです」
唐突で、でも真っ直ぐな言葉。
「俺もだよ」
返すと、紗月は安心したように目を細めた。
静かな時間。
テレビもつけず、ただ並んでいるだけなのに、満たされている。
「不思議ですね」
「何が?」
「許嫁の頃より、今の方が……ずっと安心します」
その言葉に、深く頷く。
「俺も。同じだ」
義務じゃない。
決まりでもない。
選び合ったからこそ、怖さも、不安も、分け合える。
その夜、別れる前。
玄関先で、紗月が一歩踏み出した。
「……今日は、帰りたくないって言ったら」
「言ったら?」
「困りますか?」
困るどころか。
嬉しくて、どうしていいか分からなくなる。
「……紗月」
名前を呼ぶと、彼女は小さく笑った。
「冗談です」
でも。
その笑顔は、どこか期待しているようにも見えて。
俺は、そっと彼女を抱き寄せた。
「いつか」
「ちゃんと、言えるようになろう」
「一緒に生きたい、って」
腕の中で、彼女が頷く。
「はい」
「その時まで、ゆっくりでいいです」
夜風が、静かに二人を包む。
許嫁だった頃には想像できなかった未来が、すぐそこにある。
それは義務でも、約束でもない。
何度でも、選び直せる未来。
そして今日もまた。
俺たちは、互いの名前を呼びながら、並んで歩いていく。




