第1話 許嫁は、ただの義務だと思っていた
俺には、許嫁がいる。
物心ついた頃から決まっていた相手で、家同士の取り決めで、将来は結婚するらしい。
らしい、というのは――俺自身が、あまり実感していないからだ。
彼女の名前は、桜庭紗月。
長い黒髪を背中に流した、整った顔立ちの少女で、成績も素行も申し分ない。
非の打ち所がない。
だからこそ、なのかもしれない。
紗月は、いつも俺に優しい。
朝は「おはようございます」と丁寧に挨拶をしてくれるし、食事の席では黙って俺の好物を取り分けてくれる。
困っていれば、さりげなく手を貸してくれる。
でも。
そこに、感情があるようには見えなかった。
それは、どこか事務的で。
「許嫁だから、そうしているだけ」
そう言われている気がしてならなかった。
ある日の放課後。
用事があって、少し遅れて校門を出たときだった。
少し先で、紗月が誰かと話しているのが見えた。
同じクラスの男子で、穏やかな笑みを浮かべながら、楽しそうに会話をしている。
紗月も――珍しく、柔らかく笑っていた。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
俺は、思わず足を止める。
ああ、なるほど。
あんな顔、俺には向けてくれたことがない。
きっと、彼女にとって俺は。
家が決めた相手で。
断れない義務で。
優しくしておくべき存在でしかない。
「……俺が、勘違いしてただけか」
小さく呟いて、視線を逸らす。
紗月がこちらに気づく前に、その場を離れた。
背中に、彼女の気配を感じながら。
俺は決めた。
必要以上に、踏み込むのはやめよう。
彼女が望まない関係を、続けるべきじゃない。
それが、許嫁としての――せめてもの、礼儀だと思ったから。
その時は、まだ知らなかった。
紗月があの笑顔を向けていた理由も。
そして、その決断が。
俺たちの距離を、ほんの少しだけ、遠ざけてしまうことも。




