帰宅と孤独な食卓
ファビウス邸の重厚な扉は、相変わらず冷たく、そして重かった。
ルーカスは一度だけ、先ほど別れたばかりの温かいカフェを思い出し、その温もりを心のポケットにしまい込むように一つ息をつくと、意を決して扉に手をかけた。重々しく開いた扉の先。吹き抜けの高い天井を持つエントランスホールには、まるで彼の帰りを待っていたかのように、家族全員が揃っていた。
しかし、その表情に「心配」の色はひとかけらもない。むしろ、獲物を待ち構える蜘蛛の巣に、自ら飛び込んでしまった蝶のような気分だった。
特に、大理石の暖炉の前に腕を組んで立つ父、ギデオンの灰色の瞳は、まるで罪人を尋問する看守のように、冷え冷えとした光をたたえていた。
「……戻ったか」
地を這うような低い声が、ホールの高い天井に不気味に響く。その声だけで、部屋の温度が数度下がったように感じられた。
「はい、閣下」
ルーカスは反射的に背筋を伸ばし、そう答えるのが精一杯だった。この家では、実の父を「父上」と呼ぶことさえ許されていないのだ。
ギデオンはルーカスの姿を頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするようにじろりと一瞥した。透けていないことを確認すると、もう興味を失ったようにふいと顔をそむける。
「どうやって呪いを解いた。答えろ」
命令だった。弁明の余地も、言い訳の隙も与えない、絶対的な言葉の刃。
ルーカスは、ごくりと唾を飲み込んだ。頭の中が、一瞬で真っ白になる。
木漏れ日亭のこと、リネットさんのこと。正直に話すべきか? いや、ダメだ。あの人たちのことを知られれば、閣下はきっと、その不思議な力を自分のために利用しようとするに違いない。そうなれば、あの温かい場所は、きっと閣下の冷たい手によって踏みにじられてしまう。
恐怖が、彼の喉を締め付けた。嘘をつく? この絶対的な支配者である父に? もしバレたら、今度こそ本当に消されてしまうかもしれない。
どうすれば――。
彼が答えに窮し、唇を震わせた、まさにその時だった。
きゅ、と。
右手の小指に、まるで絹の糸が一本、優しく巻き付いたかのような不思議な感覚が走った。
それは、痛みではない。むしろ、温かい励ましのようだった。「大丈夫、約束を思い出して」と、リネットの明るい声が、心の奥で聞こえたような気がした。
そうだ、約束したんだ。僕は。
ルーカスは、心の奥から湧き上がる小さな勇気をかき集め、顔を上げた。
「……『有翼の獅子』様の、お慈悲を……いただけたのかもしれません」
我ながら、苦し紛れの答えだったと思う。だが、母が信じていたこの国の守護者の名前を借りるしか、もう思いつかなかったのだ。
だが、ギデオンはその答えを鼻で笑った。
「……黙れ。くだらん戯言を」
その冷たい一蹴に、ルーカスは父が国の守護聖獣であるはずの獅子に、一片の敬意も抱いていないことを悟る。
ベアトリスは扇子で口元を隠し、「まあ、神頼みとは。出来損ないらしい発想ですこと」と甲高い声で嘲笑った。
誰も信じてはいない。だが、それ以上追及する価値もない。彼らにとって、ルーカスはその程度の存在なのだ。
その時、これまで沈黙を保っていた兄のサイラスが、事務的な口調で告げた。
「ルーカス。退職の連絡を後回しにしていたため、向こうは何も伝わっていない。明日は通常通り出仕するように」
「はい、兄上」
その淡々とした言葉に、ルーカスはわずかな安堵を覚えた。戻る場所が、まだ残っていた。
そこへ、ノエルが悪意のない、だからこそ残酷な声を上げた。
「あ、ルーカス! お前、もう帰ってこないと思ってたからさ、今日の晩餐はいらないってコックに言っちゃったよ!」
「まあ、ノエルちゃん! なんて気の利く子なんでしょう!」
ノエルの言葉に、ベアトリスが勝ち誇ったように笑う。ギデオンは振り返りもせず、冷然と言い放った。
「……ならば、その通りに。いまさら用意させるのは、料理人の手を煩わせるだけだ」
決定事項だった。
ルーカスは何も言えず、ただ俯くしかなかった。サイラスだけが、何も言わずに部屋を出ていく。その背中は、相変わらず何を考えているのか、全く読めなかった。
真夜中。
巨大な屋敷が、まるで墓場のように静まり返った頃。
ルーカスは音を立てないよう、慣れた足取りで自室を抜け出し、厨房へと向かっていた。
煌々と明かりが灯っていた厨房も、今は暖炉の熾火だけが、ぼんやりと調理器具の影を壁に長く伸ばしている。彼は食糧庫の扉をそっと開けると、薄暗がりの中、目を凝らした。
いつものことだった。食事を抜かれるなんて、日常茶飯事だ。だから彼は、いつからか、こうして自分で自分の食事を確保する術を身につけていた。
パンの籠の中から、より新しいものを探し出す。ほんのりと残る麦の香りが頼りだ。野菜の木箱からは、まだ瑞々しさを保っている根菜を選び抜く。手に持った時の、ずしりとした重みと硬さで分かるのだ。傷んだ果物の中から、まだ食べられる部分を見つけ出す。長年の経験が、彼の目に、安全な食材を見分ける確かな「目利き」の力を与えていた。
ルーカスは手に入れた食材で、手早く簡単な冷菜をこしらえた。薄く切ったカブに、岩塩をぱらりとかけ、香草の切れ端を添える。それと、少し硬くなったパン。火は使えない。音も立てられない。それでも、彼にとっては十分すぎるほどの馳走だった。
それは、彼の心を慰めると同時に、この家での彼の立場を、何よりも雄弁に物語っていた。
だが、今日の彼は、少しだけ違った。
心のどこかに、あの『木漏れ日亭』の温かい光景と、カモミールティーの優しい香りが、確かに残っていたからだ。
明日からは、また仕事が始まる。
それでいい。彼はもう、この息苦しいだけの世界とは別に、温かい場所を知ったのだから。




