ラスト・フロンティア
宇宙は、あまりにも広い。
だから、出会うはずのない軌道が、時として交差することがある。
一人は、過去の亡霊を追い、完璧な秩序を求める孤高の鷹。
一人は、明日の利益を嗅ぎつけ、混沌の中を生き抜く貪欲な鬣犬。
決して相容れないはずの二人が、辺境の採掘ステーションという閉ざされた舞台で、互いの牙を剥き出しにして出会う。利害と反発、そして予期せぬ共闘。これは、それぞれの孤独なブルースを奏でていた二つの魂が、不協和音を響かせながらも、やがて一つの逃走曲を奏で始める物語。
彼らがその果てに見るものは、求めていた真実か、あるいは、新たな絶望の始まりか。
1
宇宙は、静かすぎる。
クロエ・ヴァレンティーナは、愛機『シルフィード』のコクピットで、漆黒の空間に浮かぶ星々を眺めながら、何度目かも分からない思考に沈んでいた。
この静寂は、嘘だ。星々の間には、無数の悲鳴と、裏切りと、そして忘れ去られた者たちの溜息が、今も木霊している。
彼女は、過去の亡霊を追っていた。
五年前に死んだ男、デヴィッド・マイルズ。軍警察時代、彼女のパートナーであり、尊敬する先輩だった男。彼は、ある巨大企業の不正を追っている最中に、テロリストの爆弾によって命を落とした。クロエの、目の前で。
事件は、テロとして処理された。だが、クロエは信じていなかった。デヴィッドの死には、何か裏がある。彼が最後に遺した、「ロックボトムに、答えがある」という、暗号化された断片的なメッセージだけを頼りに、彼女はたった一人で調査を続けていた。
そして、ついに突き止めたのだ。
デヴィッドが追っていた不正の核心。それは、巨大エネルギー企業「ヘリオス・エネルギー社」が管理する、辺境の採掘ステーション『ロックボトム』の、サーバーの奥深くに眠っている、と。
だが、問題はそこからだった。
『ロックボトム』は、その名の通り、宇宙の「底」にある。公式の航路は厳しく管理され、全ての船は入港時に徹底的なスキャンを受ける。ギルドの正規IDを持つクロエですら、真っ当な方法で潜入し、サーバーにアクセスすることなど不可能に近い。
彼女は、自分のデータパッドに表示された、一人の男のプロフィールを、忌々しげに眺めた。
識別コード:RX-09。パイロット名、レックス。
自由航宙士ギルドの問題児。素行不良、金に汚い、トラブルメーカー。だが、その操縦技術と、裏社会へのコネクションは、ギルド内でも一目置かれている。
何より、彼は、『ロックボトム』への「非公式なルート」を持っているという噂があった。
「……ハイエナに、頭を下げるしかないというわけか」
クロエは、自嘲気味に呟くと、意を決して、彼のシップに通信回線を開いた。
プロとして、感情は排するべきだ。たとえ、相手がどれほど気に食わない男であろうとも。
その頃、レックスは、愛機『ラスカル』のコクピットで、足をコンソールに放り出しながら、ホログラムのピンナップグラビアを眺めていた。
彼の端末に、一件の通信依頼が入る。発信元は、クロエ・ヴァレンティーナ。ギルドでも有名な、あの潔癖症の元軍警だ。
「へえ、氷の女王様から、一体何の御用かね」
レックスは、面白半分で通信を受けた。モニターに、寸分の隙もなく整えられた、クロエの涼やかな顔が映し出される。
『レックス氏。あなたに、仕事の依頼があります』
その声は、まるで機械のように平坦で、感情がこもっていない。
「仕事ぉ?あんたみてえなお嬢様が、俺なんかに頼む仕事ってのは、一体どんな高級なやつなんだ?まさか、ディナーの送り迎えでもあるまいし」
レックスは、わざとらしくニヤニヤしながら言った。
『……ステーション『ロックボトム』への、潜入の手引きをお願いしたい』
クロエは、彼の挑発には乗ってこなかった。ただ、淡々と用件だけを告げる。
「ロックボトム?あそこは、ヘリオス社の縄張りだぜ。あんたほどの腕利きが、なんで正規のルートで行かねえんだ?」
『私の目的は、公式にはできません。あなたには、非公式なルートがあると聞きました。私を、気づかれずにステーションの内部まで運んでほしい。成功報酬は、言い値で支払いましょう』
「言い値、ねえ」
レックスは、顎を撫でた。これは、面白いことになった。この女、何かとんでもないことに首を突っ込んでいるらしい。そして、金払いは良さそうだ。
「いいぜ。乗ってやる。だが、俺にも条件がある。ちょうど、俺もロックボトムに用事があってな。ステーションの、ある特定の採掘区画まで、あんたのその最新鋭のセンサーで、警備網の穴を探すのを手伝ってもらう。どうだ?」
レックスの用事。それは、ステーション内で違法に採掘されている、高価な希少鉱石「ゼノクリスタル」の密輸だった。この仕事が成功すれば、半年は遊んで暮らせるだけのクレジットが手に入る。
モニターの向こうで、クロエは一瞬だけ、眉をひそめた。彼のやろうとしていることが、合法でないことくらい、すぐに察しがついたのだろう。
『……いいでしょう。あなたの依頼を、コンサルタント業務として、追加で引き受けます』
彼女は、あくまでビジネスライクな口調を崩さなかった。
「へっ、話が早くて助かるぜ。じゃあ、契約成立だ。せいぜい、俺の船で船酔いしないようにな、お嬢様」
通信が切れた後、レックスは腹を抱えて笑った。
あの氷の女王様を、自分のガラクタシップの貨物室に乗せてやる。考えただけで、愉快でたまらなかった。これは、最高の見世物になりそうだ。
2
数日後、指定されたデブリ帯の宙域で、二隻の船がランデブーした。
一隻は、闇に溶け込むような、滑らかで美しいステルスクラフト『シルフィード』。
もう一隻は、まるでスクラップの塊が意志を持って飛んでいるかのような、醜くも力強い改造シップ『ラスカル』。
美と醜。秩序と混沌。二隻は、それぞれのキャプテンの魂を、そのまま映し出しているかのようだった。
「……本当に、これで飛ぶのですか?」
『ラスカル』の、油と埃の匂いが充満する貨物室で、クロエは、自分の足元に転がっている正体不明の機械部品を、侮蔑の眼差しで見下ろしながら言った。彼女は、万が一の戦闘に備え、体にフィットした黒のフライトスーツを着込んでいるが、その姿は、このガラクタ置き場にはあまりにも不似合いだった。
「文句があるなら、今すぐ降りてもいいんだぜ、お嬢様」
レックスは、コクピットから顔を出し、ニヤニヤしながら言った。「俺の『ラスカル』はな、見た目は悪いが、仕事はきっちりこなすんだ。お前のそのピカピカのオモチャじゃ、逆立ちしたって通れねえ道を、こいつは通れるんだよ」
『ラスカル』の船底には、この潜入のために、特別な改造が施されていた。それは、ステーションから排出される、大量の鉱物性廃棄物を、船体周囲に吸着させ、擬似的な「デブリ迷彩」を施すという、レックスならではの、ダーティで独創的なシステムだった。
「この『ダスト・クローク』で、俺たちはただの『流れてきたデブリの塊』になる。ヘリオス社の監視衛星なんざ、赤子の手をひねるようなもんだ」
クロエは、そのあまりにも原始的なアイデアに、呆れて言葉も出なかった。だが、他に選択肢がないのも事実だった。彼女は、深いため息をつくと、貨物室の壁に体を固定した。
『ラスカル』は、巨大な廃棄物処理ダストシュートに紛れ込み、ゆっくりと『ロックボトム』へと接近していく。
ステーションは、巨大な円筒が何層にも重なったような、巨大な建造物だった。その表面には、無数のドックと、採掘ドリル、そして防御用の砲台が、ハリネズミのように突き出している。
船内に、時折、ゴツン、ゴツン、と、他のデブリがぶつかる鈍い音が響く。クロエは、目を閉じ、ただこの不快な時間が過ぎるのを待った。
レックスは、そんな彼女の様子を、モニター越しに見て、愉快そうに鼻を鳴らした。
『おい、お嬢様。そろそろ、あんたの出番だぜ』
通信越しに、レックスの声が響く。
『この先のセクター7-Cは、警備ドローンが巡回してる。あんたのその高級センサーで、奴らの巡回ルートの隙間を見つけ出してくれ』
クロエは、すぐさま自分の携帯端末を取り出し、『シルフィード』に搭載された高性能センサーからのデータを遠隔で受信した。彼女の端末の画面に、ステーション内部の、三次元的な警備網が、青い光の線で浮かび上がる。
「……3分後。第4ゲートと第5ゲートの間を、一体のドローンが通過します。その直後、17秒間だけ、監視の空白が生まれる。そこを抜けるしかありません」
彼女の分析は、迅速かつ正確だった。
『17秒か。上等だぜ』
レックスは、クロエの指示通りに、『ラスカル』を巧みに操り、廃棄物の流れから、そっと離脱した。そして、警備ドローンのセンサーの死角を縫うように、目的のセクターの、メンテナンス用の小さなハッチに、音もなく船体を接舷させた。
「……見事な操縦です」
クロエは、思わず呟いていた。彼のやり方は気に食わないが、その腕前だけは、認めざるを得なかった。
「へっ、褒めても何も出ねえぞ」
レックスは、ぶっきらぼうに言うと、ハッチを開けた。「さあ、着いたぜ。こっから先は、別行動だ。俺は、お宝の採掘ポイントに向かう。あんたは、目的のデータバンクとやらがある、管理区画に向かえ。2時間後に、ここで落ち合う。遅れるなよ」
二人は、互いに視線も合わせず、それぞれの目的のために、薄暗いステーションの通路へと消えていった。
3
クロエは、ステーションのメンテナンス用通路を、まるで幽霊のように、音もなく進んでいた。
軍警察時代に叩き込まれた潜入技術は、今も彼女の体に染み付いている。監視カメラの位置、警備員の巡回ルート、それら全てを記憶し、完璧なタイミングで死角を抜けていく。
管理区画は、ステーションの中枢部にあった。彼女は、あらかじめレックスから渡されていた、偽造IDカードを使って、いくつかのセキュリティドアを難なく突破した。
目的のデータサーバー室は、静まり返っていた。彼女は、携帯端末をサーバーのメインコンソールに接続し、暗号化されたデータバンクへのアクセスを開始した。
デヴィッドが遺した、最後のメッセージ。その中に隠されていた、いくつかのキーワード。それを入力すると、固く閉ざされていたファイルが、ゆっくりと開かれていく。
クロエの心臓が、高鳴った。五年間の、長くて孤独な追跡が、今、終わろうとしている。
彼女は、表示されたファイルを、息を詰めて読み始めた。それは、ヘリオス社が、この『ロックボトム』で行っていた、違法な兵器開発に関するデータだった。やはり、デヴィッドの追っていたことは、真実だったのだ。
だが、読み進めるうちに、クロエの表情が、徐々に凍りついていった。
ファイルの最後に、一つの音声ログが添付されていた。ファイル名は、『デヴィッド・マイルズから、本部への最終報告』。
クロエは、震える指で、そのファイルを再生した。
『……こちら、マイルズ。ヘリオス社の不正の証拠は、確保した。だが、問題が発生した。彼らは、俺が軍警察の人間であることに気づいたらしい。取引を持ちかけられた。この証拠を闇に葬る見返りに、莫大なクレジットと、家族の安全を保証すると……』
デヴィッドの、苦悩に満ちた声が、静かなサーバー室に響いた。
『……俺は、取引に応じることにした。すまない。俺は、正義よりも、家族を選んだ。この報告は、ただの保険だ。もし、俺の身に何かあれば、これが公になるように手配してある。だが、彼らが約束を守る限り、これは永遠に開かれることはない……』
クロエは、自分の耳を疑った。
デヴィッドは、正義の殉教者ではなかった。彼は、金と恐怖に屈し、真実を売り渡そうとしていた。裏切り者。
では、あの爆発は?テロは?
(まさか……)
最悪の想像が、彼女の頭をよぎる。デヴィッドは、ヘリオス社と取引をした後、口封じのために、テロに見せかけて消されたのではないか?
信じていたものが、足元から崩れ落ちていくような感覚。尊敬していた先輩の、英雄の、無残な素顔。
彼女が、五年間、人生を賭けて追い求めてきた「真実」とは、これだったというのか。
クロエは、その場に膝から崩れ落ちた。
「……嘘よ」
その時だった。
ステーション全体に、けたたましい警報音が鳴り響いた。
『侵入者発生!侵入者発生!全セクターを、レベルAの警戒態勢に移行!全ゲートをロックダウンします!』
罠だ。
クロエがデータにアクセスしたことをトリガーに、警報が作動したのだ。あるいは、レックスが、何かヘマをやらかしたのか。
どちらにせよ、もう逃げ道はなかった。
クロエは、虚ろな目で、赤く点滅する警告灯を、ただ見つめていた。
もう、どうでもいい。
彼女の心は、完全に折れてしまっていた。
4
「チクショウ!ヘマった!」
レックスは、採掘用の小型レーザーで、ゼノクリスタルの岩脈を切り出している最中に、警報音を聞いた。
見れば、通路の向こうから、武装した警備ドローンが数体、こちらに向かってきている。どうやら、彼の使った非正規の採掘ツールが、エネルギーの異常消費を探知されたらしい。
「クソが!あと少しだったのに!」
レックスは、切り出したばかりの、拳ほどの大きさのゼノクリスタルを、ポケットにねじ込むと、すぐさまその場から逃走した。
通路は、既に厚い隔壁で封鎖され始めている。彼は、持ち前の身体能力で、閉まりかける隔壁の下を、スライディングで滑り抜けた。
約束の場所である、メンテナンスハッチまで、息を切らして戻ってきた。だが、そこにクロエの姿はなかった。
「あの女、どこ行きやがった!?」
通信を試みるが、警報のせいで、ジャミングがかかって繋がらない。
レックスは、悪態をつきながら、『ラスカル』のコクピットに戻った。ステーションのドック管制は、外部からの船を全てロックアウトしている。このままでは、袋のネズミだ。
「こうなったら、力ずくだ!」
彼は、『ラスカル』のエンジンを始動させた。そして、船首にある、取って付けたような衝角を起動させる。
「俺の相棒の力、見せてやるぜ!」
『ラスカル』は、咆哮を上げると、一番近くにあった、貨物搬出用の巨大なシャッターに、猛然と突っ込んでいった。
凄まじい金属音と、衝撃。シャッターは、内側から歪み、ひしゃげ、やがて巨大な口を開けた。
船は、宇宙空間へと躍り出た。だが、その先には、ステーションの警備部隊が、既に包囲網を敷いて待ち構えていた。
「上等じゃねえか!」
レックスは、不敵に笑った。だが、多勢に無勢。彼が、数分後には宇宙のスクラップになる運命であることは、火を見るより明らかだった。
その時、彼の船に、一本の暗号化された通信が入った。クロエからだった。
『……レックス氏。聞こえますか』
その声は、ひどくか細く、生気がなかった。
「お嬢様!てめえ、今までどこにいやがった!こっちは、お陀仏寸前だぜ!」
『……もう、無駄です。罠だったのです。私たちは……』
「ゴチャゴチャ言ってねえで、とっとと逃げるぞ!お前のそのピカピカの船なら、あんなザコども、振り切れるだろ!」
『……私の船は、管理区画の近くにある、秘匿ドックにあります。ですが、もう、意味がありま…』
「意味があるかどうかなんて、後で考えろ!」
レックスは、怒鳴った。この女の、諦めきったような声が、無性に腹が立ったのだ。
「いいか、よく聞け!過去がどうだろうと、信じてたもんに裏切られようと、死んだら終わりだ!生きてりゃ、腹も減るし、ムカつくこともある!だが、それが生きてるってことだろうが!あんた、死にたいのか、生きたいのか、どっちだ!」
通信の向こうで、長い沈黙があった。
やがて、クロエの声が、震えながらも、しかし、確かな意志を持って、返ってきた。
『……生きたい』
「だろ!」
レックスは、ニヤリと笑った。「なら、話は早い。これから、宇宙で一番派手な脱出劇を始めるぞ」
5
レックスの作戦は、無謀そのものだった。
まず、彼が『ラスカル』で敵の注意を全力で引きつけ、包囲網に穴を開ける。その隙に、クロエが秘匿ドックから『シルフィード』を発進させる。
そして、ここからが本番だ。
クロエは、ステルスモードで敵の旗艦に接近し、その通信システムをハッキング。偽の「救援要請」と「偽の敵座標」を、警備部隊のネットワークに流し、敵の陣形を混乱させる。
その混乱に乗じて、二隻は、正反対の方向へと全力で離脱する。
「……正気ですか」クロエが聞いた。「あなたの船が、持ちこたえられるとは思えません」
「へっ、俺の相棒を、なめるなよ」
作戦は、開始された。
「野郎ども、こっちだ!この『ラスカル』様が、スクラップにしてやるぜ!」
レックスは、わざと派手に立ち回り、敵の攻撃を一身に集めた。船体は、レーザーを浴びて火花を散らし、あちこちの装甲板が剥がれ落ちていく。だが、彼は、まるで楽しむかのように、その弾幕の中を踊り続けた。
その、わずか数十秒の間に、クロエの『シルフィード』が、音もなく闇に滑り出した。
彼女は、まっすぐに敵の旗艦へと向かう。彼女の指が、コンソールの上で、精密なピアノを奏でるように動く。軍警察時代に培った、最高の電子戦技術。
数分後、警備部隊の通信網に、ノイズが走った。
『緊急事態!セクター9に、大規模な海賊船団が出現!』
『なんだと!?応援を要請する!』
偽の情報に、警備部隊の陣形が、目に見えて乱れ始めた。
「今だ!行け、お嬢様!」
『あなたも!』
二隻の船は、同時にブースターを点火した。
だが、敵の旗艦は、偽情報に惑わされなかった。その巨大な主砲が、逃走する『ラスカル』に、狙いを定めた。
「まずい!」クロエが叫んだ。
レックスの船では、あの威力は防げない。
その時、クロエは、ためらわなかった。彼女は、『シルフィード』を反転させると、レックスと敵旗艦の間に、割り込んだのだ。
そして、船に搭載されている、ただ一つの、しかし強力な防御兵装を展開した。それは、短時間だけ、船体の周囲に強力な磁場を展開し、プラズマやレーザーを屈折させる、「リフレクター・フィールド」。エネルギー消費が激しすぎて、数秒しか使えない、奥の手だ。
敵の主砲が、火を噴いた。
凄まじい光が、クロエの船を包み込む。だが、リフレクター・フィールドが、そのエネルギーを奇跡的に逸らし、致命傷だけは免れた。
『……借りが、できましたね』
通信機から、レックスの、呆れたような、しかし、どこか感心したような声が聞こえた。
「……これで、貸し借りなしです」
クロエは、そう答えると、再び船首を反転させ、闇の中へと消えていった。
6
『タルタロス』に帰還したレックスは、D-7セクターの、ゾルタンの店に転がり込んだ。
彼の『ラスカル』は、半壊と言っていい状態だった。だが、彼のポケットの中には、拳ほどの大きさの、鈍い輝きを放つゼノクリスタルが、一つだけ入っていた。
「爺さん、また壊しちまった。だが、こいつがある。修理代にはなるだろ?」
ゾルタンは、差し出されたクリスタルと、ボロボロの『ラスカル』を交互に見比べると、肩をすくめて言った。
「お前さんは、本当に、懲りないガキだな」
その頃、クロエは、自分の船室で、デヴィッドに関するデータを、全て消去していた。
彼女の追跡は、終わった。だが、それは、新たな始まりでもあった。
信じていた正義は、幻想だった。だが、最後に自分を救ったのは、自分が最も軽蔑していたはずの、ハイエナのような男の、単純で、力強い言葉だった。
(死んだら、終わり……か)
彼女は、自嘲気味に笑うと、ギルドの新しい依頼リストを開いた。
もう、過去の亡霊は追わない。これからは、自分の意志で、自分のための仕事を選ぶ。
出会うはずのなかった、二つの軌道。
それは、一度だけ交差し、そして、またそれぞれの闇の中へと、離れていった。
だが、彼らの心には、互いのブルースの残響が、確かに刻みつけられていた。
この広い宇宙のどこかで、また、あの不協和音が鳴り響く日が来るのかもしれない。
それは、まだ、誰も知らない物語。
(了)