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元吉原での一件があった十日後、リチャードが新吉原に姿を見せた。しかしいつも一緒にいた従者の姿はない。三つ揃えをピシッと着こなしているリチャードだが、その顔は神妙で険しくも見えた。
リチャードが大門から真っ直ぐに向かったのは牡丹楼だった。突然現れた話題の人物に店の主人は驚きながらも笑みを浮かべ、「珠吉!」と奥に声をかける。リチャードを見た珠吉は一瞬足を止めたものの余計なことは言わずお辞儀をし、伊勢太夫がいる二階の奥座敷に案内した。座敷に入るとすぐさまリチャードが正座をし深々と頭を下げる。
「本当に申し訳ないことをした」
「いきなりどうしたんです?」
「言い訳するつもりはない。だが直接謝らなくてと思って来た」
そう言って何度も「申し訳なかった」と頭を下げる。眉尻を下げた伊勢太夫が「リチャード様、どうぞ頭を上げてくださいな」と口にしても顔は畳を向いたままだ。
「リチャード様のせいじゃございませんよ。それに新吉原の事件とは関係ないというじゃありませんか」
「それでも不安がらせてしまったはずだ。……それに、万が一ということもある」
新吉原で死んだ三人は元吉原の事件とは関係ないと新聞で発表された。それでも気にかかるのだろう。頭を下げ続けるリチャードに伊勢太夫が困ったような表情を浮かべる。
「お役人様がちゃんとお調べなすったんです。あちらの事件と新吉原の事件は無関係だとお偉方もおっしゃっているという話じゃありませんか。新吉原で亡くなった遊女たちは皆流行病だったそうですし」
「しかし……」
なおもリチャードが眉を下げるのは、元吉原で六人の遊女を殺害した犯人がリチャードの従者ジョンだと判明したからだ。リチャード自身も警察署に呼ばれたらしく、顔には疲労の影が色濃く残っている。
ジョンが警察に捕まったのは珠吉が元吉原に行った翌日の早朝だった。襲われた遊女が意識を取り戻したのは明け方近くで、その足で警察に駆け込んで助けを求めた。話を聞いた警官が現場に向かうと、たしかに異国人が道ばたに倒れている。なぜ泡を吹いていたのかはわからないが、手にしていた刃物から警察署に連行されることになったと新聞にも書かれていた。
右腕を切られた遊女は幸いにも手当されていたからか重症には至らなかった。ただ誰に手当をされたのか覚えておらず、遊女を助けたのは「天狗の使い」だの「世直しの君」だのと世間を大いに賑わせている。
「ジョンは母国に送り返し、きっちりと罪を償わせる。彼を雇っていたわたしも責任を負う」
リチャードは帝都を管轄する府庁に迎賓館並の建物を寄付することを申し出た。警察には資金を提供したそうだが、大半は警察を管理している内務大臣の懐に入るのだろう。それで国としては手打ちにしたというわけだ。珠吉がそのことを聞いたのは妓楼の主人たちの集まりで、牡丹楼の座敷に集まった主人たちは「お国は懐が潤っていいだろうが」と顔をしかめていた。
そんな主人たちもいまではすっかりしかめ面をしなくなっている。理由はリチャードが元吉原に提供した資金で老舗妓楼の建て替えが決まったからだ。新吉原にも資金提供があり、新しい洋式の湯屋を作ることが決まっている。二度目の主人たちの集まりでそのことを耳にした珠吉は「なんとも羽振りがいいことで」と違う意味で感心した。
ただただ頭を下げるリチャードと困ったように微笑む伊勢太夫を見ながら、座敷の隅で珠吉が茶々丸に「ねぇ」と小声で話しかける。
「新吉原のほうは流行病で決着がついたんだね」
『刺し傷があったわけでもなし、首を絞めただとか毒を飲んだとかいった痕跡もなし。病死にするしかなかったんだろう』
「なるほどねぇ。そもそも犬神に殺されたなんて言っても誰も信じないか」
侍の時代ならともかく、いまの帝都に妖を信じるお偉いさんはいない。この国の古い価値観を捨ててこその文明開化だと声高に叫んでいる人たちだ。それでも高い賽銭を使って神に願い事をするのだから、人とは都合のよい生き物だと思っている庶民は少なくない。
「それにしてもあの従者の念、近くにいたリチャード様には何の影響もなかったのかな」
『あの異国人は妖を祓えるくらいだ。妬み嫉みを受けても無意識に祓っていたんじゃないか?』
「そんなにすごい力を持ってるようには見えないけどなぁ」
念より先に表情や言葉から何か感じられそうなものだが、もしかしたらそうしたことに疎いのかもしれない。だからこそあの従者は胸に抱える負の感情が膨らみ念にまでなったのだろう。
「あの従者の念のこと、言わないほうがよさそうだね。言っても信じなさそうだけど」
『下手に首を突っ込まず知らぬ存ぜぬが一番だ。それが世渡り上手というものだぞ』
「化け猫のくせに偉そうに」
『おまえも半分は化け猫だろう?』
髭をピクピクさせながら呆れたようにそう話す黒猫に、珠吉はつい「茶々丸!」と声を上げた。
「珠吉、どうしたの?」
伊勢太夫の問いかけに「あ、いえ、なんでもないです」と慌てて頭を下げる。その様子に三本の尻尾がぺしんと尻のあたりを叩いた。そんな一人と一匹を見ながら笑っていた伊勢太夫が「そうだ」とパチンと手を叩く。
「リチャード様、どうしても詫びたいとおっしゃるならそちらで珠吉を雇っていただけません?」
「この子を雇う?」
「え?」
見開く碧眼以上に目をまん丸と大きくしたのは珠吉のほうだ。何を言い出すのかと太夫を見るが、美しい笑みを浮かべるばかりで何を考えているのかわからない。
「しかし太夫、この子はいずれ遊女になるのだろう?」
「あら、そんな予定があったかしら? ねぇ、珠吉」
話を振られた珠吉が「あー……」と一度は口ごもり、それから「ええと……ないですね」と答えた。その言葉にリチャードが再び驚いた顔をする。
「どういうことだ? 遊郭にいる少女は遊女になるためにいるんじゃないのか?」
「それは禿のことですよ、リチャード様。珠吉は禿ではないし、ただの下働き。それに、いずれは大門の外に出ていく身。せっかくなら身元のしっかりした方に面倒を見ていただくのがよいと思ったのだけれど」
「どうかしらねぇ」と微笑む太夫に、今度は珠吉のほうが目を見開いた。たしかに珠吉自身、いずれ大門の外に出ようと考えていた。しかしそのことを太夫に話したことはない。いつかは外に出なくてはいけない身の上だと知っているのは店の主人だけだ。
「そうなのか?」
振り返ったリチャードになんと答えるべきか迷った。「ええと……そう、なんでしょうか」とおかしな返事をすると、「あらいやだ、珠吉ったら」と太夫が笑う。話がみえないリチャードは戸惑いながらも真面目な顔で「もしそうだったとしても雇うことはできない」ときっぱり口にした。
「そもそもこんな子どもを雇うことはしない。しかも幼い少女となればよくない噂も立つ。いくら太夫の願いであっても難しい」
「あら、珠吉は子どもじゃありませんよ」
「……なんだって?」
リチャードが驚いたように珠吉を見た。まるで検分するように頭のてっぺんから正座している足まで見つめる。見られる側の珠吉は「小柄で幼く見られるのには慣れてるけどさ」と少しばかり頬を膨らませた。
「珠吉は今年の春で十六になりましたから、この国では立派な大人です」
「……十六? ちょっと待て、この子の年齢が十六歳ということか?」
「えぇ。ね、珠吉」
「まぁ、そうですね」
「そんな……まさか。その小ささで十六だと? 東洋人はいったいどうなっているんだ?」
ブツブツとつぶやくリチャードに珠吉はなんとも言えない顔をした。「いったいいくつだと思っていたんだろう」と思い、「そういえばやたら子ども扱いしてたな」と思い返して顔をしかめる。そんな珠吉の様子に気づいた太夫が「ふふふ」と笑いながら言葉を続けた。
「それに珠吉は少女でもありません」
「……なんだって?」
「珠吉は男ですから、リチャード様が雇ったところで妙な噂が立つことはありませんと申し上げているんです。まぁ、大門を出るまでは少女ですから新吉原では多少の噂になるでしょうけれど」
碧眼が再び珠吉を見た。食い入るような視線を感じながら、珠吉のほうも驚きの表情で太夫を見ている。
珠吉が男だと知っているのは店の主人と、病で死んだ藍染めの持ち主だった遊女だけだ。藍染めの着物をくれた遊女は当時赤ん坊を亡くしたばかりで、そこに主人が珠吉を拾ってきた。遊女はすぐに世話することを申し出て、それからは我が子のように乳を飲ませ育てた。様子を見ていた主人も珠吉が本当は男の子だと知っていたが、妓楼だということもあって誰にも話していない。遊女も誰にも打ち明けることなく死んでしまった。伊勢太夫は当時禿として牡丹楼にいたが珠吉の秘密は知らないはずだ。
「この子が男……? いや、どこからどう見ても少女にしか見えない」
「そりゃあ牡丹楼の遊女たちがたんと世話を焼いた子ですからねぇ」
「……それでも男には……」
リチャードは「まさか」と言いながら、なおも珠吉を凝視している。
「珠吉は生まれてすぐに新吉原の大門前に捨てられていた赤ん坊なんです。訳ありに違いないと主人が引き取り、当時子どもを亡くしたばかりの遊女が世話をしたんです」
太夫が珠吉を見ながら「何人かはおまえのこと、知っていたのよ」と微笑んだ。
「珠吉は玉のように美しい赤ん坊だったから、秘密を知った遊女や禿は皆口をつぐんだの。だってあんなに可愛い子を放り出すなんてできやしないものねぇ」
「太夫……」
「それに男の子は女の子として育てると体が強い子に育つと言うでしょう? 皆でそう考えて女の子として育てることにしたの。それに大きくなるにつれてますます可愛くなるんだもの、皆本当に女の子だと思うようになったわ。どんな着物を着せようか、どんな簪が似合うか、あれこれ考えるのがそれはもう楽しくて」
そういえばと珠吉は小さい頃のことを思い出した。まだ五つか六つの頃、一日に何度も着替えさせられたことがあった。子どもだというのに白粉を付けられ紅をしたこともある。まるで小さな花魁のような珠吉に客たちも喜んでいた。
「そんな珠吉も十六、そろそろ男に戻ってもいい頃合いだと思うの。だけど女として大門を出るにはそれなりの理由が必要よ。そもそも身請け先がないまま外に出すのはもってのほか。その点、リチャード様なら安心してお任せできると思ったのだけれど」
「……本当に男なのか?」
「そんなにお疑いなら珠吉、股座のものを見せておやりな」
「はぁ!?」
「い、いや、それはさすがに」
ギョッとする珠吉の前でリチャードが目元を赤らめた。それを見た太夫が「あら、リチャード様は殿方も平気なのかしら」とからかい、それに慌てたように「違う」とリチャードが答える。
「ふふふ、赤くなるのはわかります。珠吉は牡丹楼でも一番の可愛さだもの」
笑っていた太夫が、珠吉を見ながら真面目な顔をした。
「おまえを妹分と思っているのは本当よ。どうしてやるのがいいか、いろいろ考えてもいたの。身請け先はしっかりしたところでないとと何人か宛を考えてはいたのだけれど、リチャード様が一番いいわ」
いまはそれほど厳しくない新吉原だが、下働きであっても若い娘が大門の外に出るのは簡単なことではない。遊女ほど厳しくはないものの身元のしっかりした身請け先がなければ妓楼の主人たちが納得するはずがなく、さらに余所の妓楼に「いらないのならこっちで引き取ろう」と言われかねないからだ。
その点、大金持ちで伊勢太夫の太い客でもあるリチャードなら誰も文句は言わない。余所の主人が横取りすることもない。
(それにリチャード様は横濱に住んでいる。横濱ならわたしの顔を知る者はほとんどいないだろうし、男になっても疑われることはない)
珠吉は「太夫姐さんは優しすぎる」と胸が熱くなった。
(いまがちょうど潮時ってやつなのかもな)
いまはまだ小柄でも、そのうち男らしい部分が出てくるだろう。三年前には精通も迎えた。遊女たちに懸想することはないが、この先どうなるかわからない。もし間違いを起こせば黙って置いてくれていた店の主人にも迷惑がかかる。
「ねぇリチャード様、わっちの可愛い妹分を引き受けてはくれないかねぇ」
煙管片手に流し目で見る伊勢太夫は間違いなく新吉原一の花魁だった。たちまち顔を赤くしたリチャードは、それでも即答はせずウンウンと唸り始める。そんなリチャードに太夫は「ねぇ?」と声をかけ続け、唸っていたリチャードも最後には覚悟を決めたように伊勢太夫の頼みを聞き入れた。
それからは驚くほどトントン拍子に話が進んだ。店の主人は涙を浮かべながら「よかった、よかった」と言い、伊勢太夫や葵といった珠吉のことを知る遊女たちも安堵の笑みを浮かべている。事情を知らない遊女や禿たちは驚きながらも「珠吉は器量よしだからねぇ」と喜んでいた。
こうして珠吉は年が明けて梅の花が咲く頃、牡丹楼を出てリチャードが住む横濱の異国人街へ行くことになった。それを聞いた余所の妓楼では「こりゃあ太夫の身請けよりすごいことが起きたぞ」と大層な話題になったが、それも年をまたぐ頃には落ち着くだろう。話を聞いたブン屋の三平は「どんな手を使ってたらし込んだんだ!?」としつこく纏わり付いたが、それにはさすがの珠吉も辟易し「うるさい」と何度も睨みつけた。
「いつかは外に出ようと思っていたけど、まさか遠い横濱に行くことになるなんてなぁ」
ようやく周囲の騒ぎが落ち着いた年の瀬が迫る中、珠吉はぼんやりと冬空を見上げながらそんなことを口にした。言葉にするとなんとなく現実味がわいてくるからか、少しだけ寂しい気持ちにもなる。
『横濱といえばハイカラな食べ物がたくさんあるらしいな』
「茶々丸は食べ物のことばかりだね」
『そのくらいしか楽しみがないからな』
「化け猫のくせに食い意地ばっかり」
『おまえだって半分は化け猫だろう?』
「自覚はないし猫にもなれないから違う」
『屁理屈をこねるな』
店先の縁台でムッと眉を寄せる珠吉に、隣で体をぐぅんと伸ばした茶々丸が三本の尻尾で腰をぺしっと叩いた。ジロッと睨む珠吉をよそに「さて、いまのうちにあちこち回っておくか」と言いながらトンと縁台から飛び降りる。
「やっぱり食い意地が張ってる」
珠吉の言葉に「にゃあ」と鳴いた茶々丸は、すらっと天に向かって伸ばした尻尾を機嫌良く揺らしながら通りを歩いて行く。そんな黒猫を見送った珠吉は「あっという間に冬になったなぁ」と澄んだ空を見上げ、「来年の今頃は横濱かぁ」と見知らぬ土地に思いを馳せた。




