5
「茶々丸、どうして元吉原で遊女が殺されるってわかったの? ねぇ、茶々丸ってば」
店先の縁台で新聞の見出しを見た珠吉は、すぐさま足元にいた茶々丸を問いただした。ところが茶々丸は縁台にぴょんと飛び乗り前脚で顔を洗うばかりで何も言わない。その後も話す気がないのか、くわっと大あくびをして毛繕いを始めてしまった。
「茶々丸ってば」
珠吉の声に「うるさいぞ」と言わんばかりに尻を向けて三本の尻尾を揺らす。あまりの態度に「茶々丸!」と声を荒げたところで「やぁ」と声をかけられてハッとした。
「……リチャード様」
「太夫に聞いたとおり、やはりきみは猫と話ができるようだね」
「そういうわけじゃありませんけど……」
ちらりと茶々丸を見ると呆れたような眼差しで珠吉を見ている。それにキッと睨み返し、それとは真逆の笑顔でリチャードにお辞儀をした。リチャードの後ろにはいつもどおり茶髪の従者が付き従っている。
珠吉が顔を上げると従者と視線が合った。茶々丸より濃い緑色の目がじっと珠吉を見ている。睨むような様子には見えないものの好意的な雰囲気でもない。前にも睨まれたことを思い出した珠吉は、「何か粗相でもしたっけ?」と気にしながらもリチャードのほうを見た。
「伊勢太夫ならまだお休みです」
「いや、今日はきみに会いに来たんだ」
「わたしにですか?」
「この前話しただろう?」
そう言いながらリチャードが藤の花を模した簪を差し出した。差し込み部分は漆塗りで、先端から藤の花が豊かに垂れ下がっている。藤娘を想像させる簪は昔からあるが、花の部分がこれほどキラキラと光るものは見たことがない。光り方から、珠吉は「西洋の高価な石かな」と当たりを付けた。
(そういや最近は西洋の石がついた結婚指輪なんてものも流行ってたっけ)
結婚指輪にはダイヤという石をつけるのが流行りだと聞いた。光る石にも種類があるらしく、遊女たちがなんとか堂という店のチラシを見て騒いでいたのを思い出す。一番人気は一際きらりと光るダイヤで、真っ赤なルビーという石も人気らしい。そういえば大店のご隠居が孫にねだられて真珠の指輪を買ってやったのだという話も聞いた。
(この花が何の石でできてるかはわからないけど、きっと高価なものなんだろう)
そういうものは太夫に贈るべきだ。やはり断ろうと珠吉が口を開きかけたところで「挿してあげよう」と言ってリチャードが髪に挿してしまった。頭のてっぺんで団子のように結んだだけの髪にはもったいない代物だ。
「よく似合っている」
満足そうなリチャードには悪いが、ただの下働きがこんな高価なものを頂戴するわけにはいかない。
「お見受けするに、こちらは西洋の石でできた藤の花じゃありませんか?」
指先で垂れ下がる藤の花にツンと触れる。
「ほう、見ただけで宝石だとわかるのか?」
「いいえ。ただ、こんなに光り輝いているのは大層高価なものではないかと思っただけです。そのようなものを頂戴するわけにはまいりません」
「ひと目見ただけで宝石だと言い当てられるのは、きみの目がいいからだ。実は知り合いのご令嬢に見せたことがあるんだけれどね。素敵なガラス細工ですねと言われて笑ってしまったよ。しかしきみは違った。そういう人に使ってもらうのがこの簪も嬉しいんじゃないかな」
にこりと微笑むリチャードの様子から、返したところで断られるに違いないと悟った。困ったなと思いながら曖昧に微笑む。
(太いお客はとにかくいい気分にさせろっていうのが妓楼では当たり前なんだけど)
つまり珠吉の言葉には世辞が混じっていたということだ。そうするように下働きの珠吉でさえ躾けられているのが妓楼なのだ。
たしかに珠吉は大門の外にいる同い年の子たちに比べれば目が肥えている。新吉原の牡丹楼といえば昔から何人もの太夫を生んだ妓楼で、調度品一つにしても相当値打ちのあるものばかりだ。とくに太夫が身に着けるものは豪華絢爛で、小さい頃からそれらを見てきた珠吉には本物か偽物かの区別がなんとなくわかる。
(だからって、それをそのまま口に出したりはしない)
そういう鼻持ちならない女は嫌われる。とくに妓楼では可愛げのある女のほうが生きやすい。そのことをよく知っている珠吉は「リチャード様がくださるものですから、きっと高価なものに違いないと思っただけです」と答えたが、すぐさま「嘘はよくないな」と返されてしまった。
「どういう意味でしょうか?」
「きみは目利き並の目をしていると、この間伊勢太夫が教えてくれたんだ。それを確かめたくてこの簪を持って来た。あぁ、試すなんてひどい男だと思わないでくれ」
「そんなことは思いませんけど、目利きなんて大袈裟です。太夫はきっとリチャード様を楽しませようとそんな話をしたんだと思います」
「いいや、きみは本物を見る目を持っている。牡丹楼には優れた調度品があるから自然と見る目が養われるとはいえ、生まれ持った才能もあるのだろう。この間の狐の話といい、きみは太夫が話していたとおりおもしろい子どもだ」
「それは……どうも」
「きみが太夫になったら、きっとすぐに人気者になるだろうね」
(太夫どころか遊女になる予定もありませんけどね)
胸の内でそう答えながらも「そのときはぜひいらしてください。うんとおもてなしさせていただきます」と頭を下げた。
「その頃にはきっとわたしはおじさんだ」
「リチャード様はお年を召されてもきっと素敵でいらっしゃいます。それに異国人の殿方は大歓迎です」
滅多に口にしない世辞だからか頬が引きつり始めた。それをごまかすように微笑むと、どこからか茶々丸の「にゃあ」という鳴き声が聞こえてくる。
振り返ったものの縁台に黒猫の姿はない。きょろきょろと見回すと、再び「にゃあ」と聞こえてきた。もしやとリチャードの足元を見ると、その奥に立つ従者の足元に座っているのが目に入る。しかも靴を前脚でちょんちょんとつついていた。
「こら、茶々丸」
客のなかには猫を嫌う者もいる。従者がそういう人なら蹴られてしまうかもしれない。そう思って慌てて注意したものの、茶々丸はなぜか従者から離れようとしなかった。もう一度「茶々丸」と口にしたところで、珠吉は首筋がぞわっとするような感覚に襲われた。
慌てて顔を上げると、従者の緑色の目がじっと珠吉を見ていた。やはり猫を嫌っているのかと思ったが、足元の茶々丸を気にしているようには見えない。それでは主人のほうが猫嫌いかとリチャードを見てもニコニコと笑っている。それなのに従者は厳しい表情を珠吉に向け続けていた。
(この前といい、どうしてそんな目で見るんだろう)
見られているからといって不躾に見つめ返すわけにもいかない。この場を離れるのがいいだろうと判断した珠吉は、「大層なものをありがとうございました」と深々と頭を下げて話を切り上げることにした。
「また今度おもしろい話を聞かせてくれ」
「リチャード様が満足してくださるような話ができるかわかりませんが、太夫に言ってくだされば座敷にお伺いします」
「いや、夜の席じゃなくて昼間にしよう。さすがに子どもをああいう場所に呼ぶのは気が引ける」
「昼間のほうが忙しいんだけどな」と思いつつ「では、機会がありましたら」と微笑んだ。
「楽しみにしている」
機嫌よくそう告げたリチャードは、本当に簪を持って来ただけなのか大門のほうへと歩き出した。「金持ちの考えることはわからないな」と若干呆れながら背中を見送る。
(いまのは遊女の睦言と同じだったんだけど、リチャード様、気づいてなさそうだなぁ)
本当に呼ばれたらどうしようとため息をついたところで従者が振り返った。相変わらず冷たい眼差しで珠吉を見るが、珠吉のほうはそんな目を向けられる理由がわからない。「何かしたかなぁ」と首を傾げつつ、リチャードに挿してもらった簪を懐に仕舞いながら店の入り口へと足を向けた。
『今夜抜け出すぞ』
「え?」
見ると珠吉の足元で茶々丸が三本の尻尾をゆらゆら揺らしていた。
『今夜また元吉原で遊女が殺される。そこを押さえる』
「押さえるって、何を言い出すのさ。そういうことは警察に任せれば……って、ちょっと待って。どうして今夜殺されるってわかるの? やっぱり元吉原の事件にも妖が関わってるってこと?」
『行けばわかる』
茶々丸はそれだけ言うと、店には入らず尻尾を揺らしながら通りへと歩き出した。昼の時間は老舗の妓楼を回るのが茶々丸の日課で、今日もあちこちに顔を出しては食べ物をもらうつもりなのだろう。「本当に食い意地が張った化け猫だな」と呆れながら、珠吉は新聞の見出しと茶々丸の言葉が気になって仕方がなかった。
(結局、茶々丸は何も教えてくれなかったし……あーもうっ! いろいろ気になって仕事に身が入らないじゃないか)
下働きの日中は何かと忙しい。それに働かなくては飯が食えない。気になることがあっても手を休めることはできなかった。
珠吉はあれこれ考えながらも掃除や洗濯、お使いをひたすらこなした。途中、ブン屋の三平に捕まったときには元吉原について根掘り葉掘り聞かれうんざりした。元吉原に行ったことすらない珠吉に尋ねたところで話すことは何もない。若干苛々しながら三平を追い返し、そうこうしているうちに辺りはすっかり暗くなっていた。
この日の夜も牡丹楼は相変わらず華やかで賑やかだった。伊勢太夫の元には馴染みの大店の先代が訪れ、ほかの遊女にも客が次々とやって来る。吉乃太夫も夕方から贔屓の客の相手をしていて、珠吉は誰からも呼び出されることなく早くに部屋に引き上げることができた。
部屋にはいつの間に戻って来たのか茶々丸の姿があった。緑色の目をツイと葛籠に向け、「さっさと着替えろ」と無言で訴える。
「わかったから、ちょっと待ってて」
葛籠から取り出したのは藍染めの着物だ。若い娘が着るには地味な柄で、元は珠吉が小さい頃に可愛がってくれていた遊女のものだった。その遊女は病をもらって随分前にあの世に旅立ってしまった。「これは里の母が持たせてくれたものなの」と聞かされた着物は形見となり、仕立て直してからも大事に着ている。
「本当に抜け出すの?」
『当然だ。今夜を逃せば次にいつ遭遇できるかわからないからな。ほら、さっさと行くぞ』
「ちょっと、裾に爪を引っかけないでってば」
念のためにと珠吉は手拭いでほっかむりをしてから裏口に回った。賑やかな表通りを避けるように小道を選び、足早に大門へと向かう。
帝都がまだ侍の都だった頃、吉原のような場所は出入りが厳しく制限されていた。とくに遊女や禿といった女の出入りには厳しく、許可を得ないまま外に出れば連れ戻された後に折檻されるのが普通だった。
しかしいまはそこまで厳しくない。客は昼夜問わず出入り自由で、珠吉のような下働きなら女でも近くの門前町に行くことができた。身元がしっかりした者であれば遊女を大門の外に呼ぶこともできる。もちろん金子はべらぼうにかかるが、馴染みのお大尽が自分の屋敷や客をもてなすための洋館に太夫を呼ぶことも少なくない。
それでも珠吉が地味な着物に着替え、さらにほっかむりまでしたのは人攫いを懸念してのことだった。若い娘は異国人に高く売れるからと各地で人攫いが横行している。警察の取り締まりが厳しい帝都での被害者は少ないものの、絶対に安全だという保証はない。
「ねぇ、本当に元吉原に行くの?」
『もちろん』
「でも、」
『おまえが襲われそうになったら俺が守ってやるから安心しろ』
茶々丸の言葉に顔をしかめつつ小走りで大門をくぐり抜ける。そのまま馬車鉄道に向かおうとした珠吉に茶々丸が「にゃあ」と声を上げた。
『こっちだ』
言われるままついていくと、そこは人気のない細い道だった。「どうしてこんなところに?」と首を傾げる珠吉の前で、茶々丸がぼふんと煙を上げ巨大な化け猫へと姿を変える。
「ちょっと茶々丸っ」
誰かに化け猫の姿を見られたら大変な騒ぎになる。そう思って慌ててたしなめたが、茶々丸は気にすることなく「急ぐぞ」と言いながら大きな前脚で地面を掻いた。
「そんな姿で出歩いたら……って、ひぇっ」
珠吉の口から妙な声が上がった。グッと近づいた茶々丸に帯の後ろを咥えられ驚いたのも束の間で、両足が地面から離れひょいと空に放り投げられる。突然の出来事に悲鳴を上げることもできず慌てて目を瞑った。地面に叩きつけられると覚悟した珠吉だったが、体がぶつかったのはなぜか柔らかいものだった。
(……このもふっとしたものはいったい……?)
そっと瞼を開くと真っ黒なものが目に入った。手に触れている黒いものは毛で、艶々と柔らかな手触りには覚えがある。「まさか」と視線を上げた先で三本の長い尻尾がゆらゆらと揺れていた。
『掴まってろ』
「掴まってろって、ちょっと待って!」
黒い体がぐぅんとしなやかに伸びた。そうかと思えば目の前の尻尾がブンと揺れ、同時に体がふわっと浮くような感覚に襲われる。
「だから待ってってば!」
覚束ない感覚に、慌てて目の前で揺れる尻尾の一本にしがみついた。
『尻尾を掴むな!』
「そんなこと言われても急に動く茶々丸が悪い!」
『しがみつくなら首にしろ!』
「それって反対側だから!」
『二階から一階の屋根に飛び乗るくらいだ、反対を向くくらい訳ないだろう!』
「いつの話をしてるのさ!」
屋根に乗ったのは子どもの頃の話だ。あのあとまだ太夫になる前だった伊勢太夫に散々泣かれ叱られた。あのとき自分は思っていたより大事にされているのだとわかり、それからは無茶なことをしなくなった。
なんとか体を動かし太い首にしがみついた珠吉は、目の前が真っ暗なことに「え?」と驚いた。おそるおそる下を見ると家々の屋根らしきものがある。犬よりずっと大きくなった茶々丸は屋根を歩くどころか空を飛んでいたのだ。
「なんで空を飛んでるのさ!」
『それが一番早いからだ』
「だからって、誰かに見られたらどうするの!」
『ガス燈くらいでこの高さが照らされることはない』
「そうかもしれないけど……って、ちょっと!」
うるさいと言わんばかりに茶々丸の体が再びぐぅんと伸びた。まるで宙を駆けるように真っ黒な脚が力強く動く。頬に当たる風が一層強くなり、珠吉は慌てて首にしがみついた。
初めての空の移動はあまりに恐ろしく、一階の屋根よりはるかに高い場所に自分がいるのだと思うだけで肝が冷えた。暗い中を移動しているせいか、目を開いているのか閉じているのかわからなくなる。茶々丸の毛が真っ黒なこともあり、まるで一人で宙を飛んでいるような錯覚さえした。
珠吉が目を回していると、目的地に着いたのか茶々丸の体が急降下しトンと地面に脚をつけたのがわかった。
『着いたぞ』
「……ひどい目に遭った」
『化け猫の背に乗せてもらっておいて、よくそんなことが言えるな』
「頼んだわけじゃないから」
文句を言いながらなんとか地面に下りる。ふらつく足に力を入れながらぐるりと見回した。
(見たことない街だな)
あちこちに赤い灯りがあるからか新吉原のように見えなくもない。しかし新吉原よりずっと暗く、それでいて同じくらい淫靡な雰囲気が漂っていた。
『ここが元吉原だ』
茶々丸の言葉に、珠吉はもう一度周囲を見渡した。




