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その日の夕方、予定どおり牡丹楼にリチャードがやって来た。入り口をくぐるなり「お土産を持って来たよ」と告げるリチャードに、後から入ってきた従者が大きな袋を広げ次々と箱を並べ始める。「大層なものをありがとうございます」と頭を下げた主人が箱を開けると、中には香ばしい焼き菓子が所狭しと入っていた。
「まぁ!」
主人の後ろにいた遊女が声を上げた。その声を聞いたほかの遊女も次々と集まってくる。
「こんなにたくさんの西洋菓子は初めて見たわ!」
「ちょっと、行儀が悪いわよ」
気がつけば奥にいた禿や下働きの者たちまで顔を覗かせていた。一度に大勢が出てきたせいで店の入り口はちょっとした騒ぎになっている。
「横濱のレンガ通りに新しい洋菓子店ができてね。そこの焼き菓子だよ」
リチャードの説明に禿たちは箱を見る目を輝かせ、遊女たちはうっとりとした眼差しをリチャードに向けた。
「ジョン、後は頼んだよ」
「承知しました」
異国人の従者も主人に劣らず言葉が流暢だ。「異国でも金持ちはすごいんだな」と感心しながら「ご案内します」と珠吉がリチャードの前に進み出る。そうして伊勢太夫が待つ二階奥の座敷へと先導した。
階段を上がると吊り提灯の赤い光りが長い廊下を妖しく照らしていた。帝都では電氣で照らされる建物も増えてきたというが、新吉原の建物は昔ながらの景色を色濃く残している。それが客たちにはたまらないらしく、異国人の目にも珍しく映るのだろう。何度も見ている光景のはずなのにリチャードの口から「ほぅ」と感嘆するような声が漏れた。
珠吉は足音を立てずに廊下を歩いた。その後ろをリチャードが付いて来るが、時々キシ、キシと軋む音が聞こえる。あと少しで太夫の部屋だというところで珠吉が懐に手を忍ばせた。念のためにと手巾を巻いた簪を取り出し、「これなら玉飾りに傷はつかないだろう」と不自然にならない程度に身を屈めて手巾ごとするりと落とす。
コトン。
薄暗い廊下に軽い物音が響いた。
「うん? 何か落としたんじゃないか?」
音に気づいたリチャードが足を止めた。薄暗い中で玉飾りの梅がきらりと光る。二歩進んだところで「これはとんだ粗相を」と振り返ると、予想どおりリチャードが身を屈めて手巾と簪を拾い上げるところだった。
(拾わせることには成功したけど、これが何だって言うのさ)
きっとどこかで見ているに違いない茶々丸に胸の内で文句を言っていた珠吉の目が丸くなった。
(え……?)
リチャードの指が簪に触れた途端、簪から薄墨のような煙がぶわっと広がった。薄紅色の梅の飾りは泥水に浸されたような鈍い色に変わり、漆塗りの差し込み部分も薄汚れた茶色のような色に変わっていく。
「あの、」
もしやよくないものでも憑いていたかと慌てて手を伸ばしたが、珠吉が拾うより先にリチャードが手に取った。「しまった」と慌てる珠吉だが、リチャードの様子に変化はない。それどころか簪を覆っていた薄墨のようなものがパァッと霧散し、珠吉は違う意味で「えぇ?」と目を見開いた。まるで霧が晴れたかのように薄墨は消え、鈍い色をしていた簪も美しい珊瑚と漆の色に戻っている。
(いまのはいったい……?)
これまで様々な妖を見てきた珠吉も初めて見る現象だった。
「可愛らしい簪だな」
「……ありがとうございます」
手巾ごと差し出された簪を受け取ると、心なしか落とす前よりも軽くなったような気がした。
「そうだ、この前愛らしい簪を手に入れたんだが今度持って来てやろう。きっときみに似合うよ」
「え?」
突然の言葉に慌てて顔を上げた。見上げた先には機嫌よく微笑むリチャードの顔がある。
「わたしはただの下働きですから、そんな大層なものは頂戴できません」
「この間の楽しい時間のお礼だ」
「いえ、大したお話はしていませんから」
「きみにはそうだったとしても、わたしは十分楽しませてもらった」
「でも、」
「子どもにもてなしてもらったのに礼すらしないのでは、大人として情けないと思わないかい?」
そこまで言われては頑なに断るのもよくない。珠吉が「そこまでおっしゃるのでしたら」と答えたところで背後にある障子がすぅっと開いた。
「お出でなさいませ」
障子を開けたのは廊下の声に気づいた禿だった。ちらりと中を見ると、座敷の奥で花魁姿の伊勢太夫がにこやかに微笑みながら座っている。珠吉は廊下の端に座ると、頭を下げてリチャードが座敷に入るのを見送った。顔を上げようとしたところで茶色の髪をした従者の姿が見え、もう一度頭を下げる。
(……?)
直接見てはいないものの、目の前を通り過ぎる従者から鋭い眼差しで睨まれたような気がした。そう感じた直後、手にしていた簪がグッと重さを増す。
珠吉は障子が閉まった後もしばらく廊下に座ったまま簪を見ていた。何度見ても簪におかしなところはなく妖が憑いているような気配もない。それなのにリチャードが触れると薄墨のようなものが現れ、それもすぐさま霧散した。手渡された簪はわずかに軽くなり、ところが従者に睨まれたと感じた途端に再び重さを増した。
「……どういうこと?」
『やっぱりな』
「茶々丸」
首を傾げる珠吉の隣に、いつの間にか茶々丸が座っていた。緑色の目で簪を見つめながら「にゃあ」とひと鳴きする。
「やっぱりってどういうこと?」
『予想外のことも起きたがな』
そう言って三本の尻尾をゆらりと揺らした。
「茶々丸、わかるように話して」
『部屋に戻るぞ』
すっくと立ち上がった茶々丸は三本の尻尾を揺らしながら歩き出した。「なんなのさ」とため息をつきながらも大人しく珠吉もついていく。
階段を下りて店の入り口を通り過ぎると途端に廊下が真っ暗になった。この先は下働きたちが寝る部屋ばかりで、そこを油を使ってまで灯りを灯すことはない。小さい頃から歩き慣れた珠吉にはすっかりお馴染みの暗さで、ここで妖を見たこともあったなと思い返した。
(この簪、やっぱり何か憑いてるのかも)
そう思うとますます重くなったように感じた。
襖を開け、真っ暗な部屋に入る。窓から差し込む月明かりだけが小さな机を照らしていた。その机に簪を置いた珠吉は、傍らに座る茶々丸に「どういうこと?」と改めて訊ねた。
『あの異国人は妖を祓える。いや、よくないもの全般を無意識に祓っているのかもしれない』
「待って。ってことは、あの薄墨みたいなものはやっぱり妖だったってこと?」
顔をしかめた珠吉が「そんなのあり得ない」と口にした。
「もし妖が憑いていたならわたしにも見えたはず。でも太夫にもらったときも懐に入れたときも、これっぽっちも見えなかった」
『憑いていたのは妖のなり損ないだ。ほとんど念みたいな状態だったから俺にも正体がわからなかった』
「なり損ないって……」
『元は犬神のようなものの残骸だろう。だが、これは犬の匂いじゃない』
そう言いながらぴょんと机に乗った茶々丸が簪に顔を近づけクンクンと鼻を鳴らす。
『……この匂いはネズミだな。そういえば九州にはネズミを犬代わりにする方法があると聞いたことがある』
「まさかネズミで犬神を作ったってこと? じゃあ、この簪にはネズミの犬神が……?」
犬神は人を呪う妖で人が手助けしなくては生まれない。そこまで考えた珠吉はハッとした。この簪は吉乃太夫にもらったものだ。それに犬神が憑いていたということは、犬神を作ったのは吉乃太夫ということになる。
(だから太夫はあんな体に……?)
人を呪わば穴二つという言葉があるとおり、誰かを呪えばそれ相応のものが返ってくる。昔から頻繁に作られてきた犬神の恐ろしいところは返ってくるものが大きいことだ。
下手をすれば生み出した当人は命を奪われる。たとえ命を狙われなくても願いを叶えた犬神は生み出した人の元に戻ると言われていた。そうして当人だけでなく子々孫々まで憑くのだという。
『狐憑きという言葉があるが、狐がいない四国や九州、中国地方には犬神憑きの話が古くからあるんだ』
茶々丸の言葉に珠吉はますます顔をしかめた。そうした話を聞いてもなお犬神を作るのだから、人というのはなんと愚かで恐ろしいのだろう。
「そういえば、吉乃太夫は西の生まれだって聞いたことがある」
『里で聞いたことがあったのだろうな』
「まさか、吉乃太夫がわたしを呪おうとしたってこと……?」
『さぁて、どうだろうな。おまえではない誰かを呪いたい気持ちが持ち物に移ったんじゃないかと俺は見ている』
「わたしじゃない誰か……」
『一番席だった気持ちが捨てきれず、落ちぶれていく自分が許せなかったんじゃないのか? 通わなくなった客を恨み、また今度と言ったのにやって来ない客を恨み、ついには人気者となった伊勢太夫を妬んだ。そうした気持ちが膨らむのは、ここ新吉原ではよくあることだ』
「ちょっと待って。吉乃太夫が伊勢太夫を呪ってるとでも言いたいの?」
『あり得ない話ではないだろう? そうした強い感情は身の回りのものにも宿る。それに引き寄せられる妖もいる。強すぎる念は当人を変えてしまうこともある。おまえもそうやって妖になった女や引き寄せられた妖たちを何度も見てきたはずだ』
茶々丸の言葉に珠吉がグッと唇を噛み締めた。珠吉が覚えている一番古い記憶は、とある遊女の生き霊のような妖だった。長い髪に白い肌、目尻と唇に紅を引いた顔はよく見る遊女そのものだったが、穴蔵のようにくぼんだ目は髑髏のようだったのを覚えている。
美しい着物の袖口からにょきりと伸びる骨のような女の手をした妖を見たこともあった。美しい後ろ姿ながら顔がのっぺりとした妖を見たこともある。扇子を持った女房姿の妖や、血に染まった腰巻きを身につけ赤ん坊を抱いた妖を目にしたこともあった。
そういう女の妖を見かけるのは、この場所が女の念が溜まる新吉原だからだ。ここには生への執着だけでなく妬みや嫉み、苦しみや悲しみ、それに嘆きといった激しく深い感情が澱んでいる。そうした重い念が渦巻く中で遊女たちは客に夢を見せていた。そこには当然客側の念も重なる。そうした場所だからこそ様々な妖が引き寄せられ姿を現すのだろう。
「そう考えると、なんだか蠱毒を作るための場所みたいだね。大勢の女たちがひしめき合って、最後まで生き残った者だけが人気者に、頂点になれる」
『言い得て妙だな』
「そんなの悲しすぎる」
『それが妓楼だ。ずっと見てきたおまえもわかってるだろう』
「わかってるけど……もしかして、この界隈での遊女の死因って……」
簪を見ながら、珠吉は口にしかけた言葉を呑み込んだ。
『三平とかいうブン屋が共通点だと話していたことがあったな』
「たしか、新吉原の三人は異国人の客を取っていたって」
『伊勢太夫が不動の地位を築いたのは異国人の太い客がついたからだ。それがなければ吉乃太夫が一番席に返り咲く可能性もあっただろう』
「だから異国人を客にする遊女を……ってことか」
眉尻を下げた珠吉が可憐な梅の花の飾りをじっと見つめた。
『犬よりもネズミのほうが手に入りやすい。首を切り落とすのも楽だろう。そうやって用意したネズミの犬神がどれだけいるのか……。さすがの俺でも新吉原全体の匂いを嗅いで回るのは厳しいから把握するのは難しい。どちらにしても、その簪に憑いていたものは祓われたから安心していいぞ』
「でも、もし新しくネズミの犬神を作ったら、これからも遊女が狙われ続けるってことじゃないか」
『そうかもしれないし、そうでないかもしれない。吉乃太夫に呪詛をするほどの気力体力が残っていればこの先も続くかもしれないが、果たしてどうだろう』
茶々丸がブンと三本の尻尾を振った。そうして前脚で顔をくるりと撫でる。
「……もしそんなことをしたら、吉乃太夫は……」
『自業自得だ。そもそも犬神を作るのは吉乃太夫だけとは限らないだろうしな』
珠吉が再び眉尻を下げるのと同時に茶々丸が月を見上げた。
『動いたな』
「え?」
『次は元吉原のほうだ』
「何? どういうこと?」
『しばらく大人しくしていたようだが、今夜また揺れ動いた。近いうちに元吉原の遊女が命を落とすぞ』
茶々丸の言葉に珠吉はギョッとした。「まさか」と思っていたが数日後、新聞の見出しを見た珠吉は茶々丸の言葉が本当になったことを知った。




