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この日、珠吉は朝から忙しかった。というのも禿と飯炊き女が一人ずつ熱を出し、薬をもらいに行ったり代わりに用事を済ませたりしていたからだ。予定外の仕事のせいで朝からやるはずだった洗濯が後回しになってしまった。「日が短くなって乾きづらいのに」と思いながらようやく洗濯を終わらせたところで、今度は顔馴染みの三平に声をかけられますます機嫌が悪くなる。
「噂話でもいいんだ、何か聞いてないか?」
「何も聞いてないよ」
「ほんとにか? 直接関係ないことでもいいんだよ。辻待ちの話なら何でもいいからさ」
「だから本当に何も知らないってば」
「ほんとのほんとに?」
井戸で洗濯しているときからずっとこの調子だ。三平が知りたいのは新吉原で殺された辻待ち遊女のことで、知らないと言っても「どんな些細なことでもいいから」と裏庭にまでついてくる。
(知りたいことがあるにしてもしつこすぎる)
内心うんざりしていた珠吉は、干した遊女たちの肌着をパンパンと勢いよく叩いた。はためく洗濯物が女性の肌着だと気づいた三平は、すぐさま顔を真っ赤にしくるりと背を向ける。それでもなお「どんな小さなことでもいいんだよ」と口にした。
「だから何もないって言ってるでしょ」
「そうは言っても、この前死んだのは新吉原の遊女だ。最初の二人のあとは元吉原だったのに、またこっちに戻って来たってのには何か理由があるはずなんだ」
そう言いながら手帳をペラペラとめくり始めた。
三平は新聞社に勤めるブン屋、つまり新聞記者だ。ここしばらくは遊女の事件を追っているらしく、新吉原の遊女が立て続けに二人死んだときも毎日のように話を聞かせろとやって来た。牡丹楼だけでなくあちこちの妓楼に顔を出しているようで、珠吉のような下働きや禿たちに話を聞いて回っているらしい。
(姐さんたちに聞いても何も話しちゃくれないだろうからなぁ)
妓楼の遊女たちは口が堅い。座敷での会話はすべて胸の内に仕舞って外に出さないのが妓楼の流儀だからだ。辻待ちの遊女たちも面倒に巻き込まれたくないから答えてはくれないだろう。ところが若い禿は口が滑りやすく、下働きに至っては金を掴ませれば話す者もいるため珠吉に接触してきたに違いない。
「絶対に何か繋がりがあるはずなんだ。元吉原のほうは年齢も立場もバラバラだけど、新吉原の三人は全員が異国人の客を取っていたって話だしな」
三平の言葉に珠吉の手がほんのわずか動きを止めた。しかしすぐさま肌着を干す作業に戻る。
「何かあったら教えてくれよ」
「わかりました」
何か見聞きしても教える気などさらさらないものの一応そう答えておく。
(異国人を相手にしていた遊女、か)
辻待ちでも最近は異国人を相手にする遊女が増えているとは聞いていた。下手な若者より異国人のほうが金を持っているとわかっているからだろう。それに異国人は遊女にも優しい。そういうお国柄なのだと伊勢太夫が話していた。
(とくに異国人街に住んでいるような人は本物のお金持ちだって言ってたっけ)
お国では華族のような身分の人が多いそうだ。リチャードの金払いや仕草から「なるほど」と珠吉も納得した。
(もしかして客の取り合いとかだったのかな)
遊女を殺した犯人はまだ捕まっていない。だからか最近は新吉原でも辻待ちの遊女をあまり見かけなくなった。金はほしいが命を取られたのではたまらないからだろう。あれこれ考えながら洗濯物を干し終わった珠吉は、洗濯桶を片手に裏口から土間に入った。棚に桶を仕舞ったところで奥に人影があることに気づく。一瞬ギョッとしたものの、よく見れば吉乃太夫で竹製の飯籠から米をよそっているところだった。
「太夫、食事でしたら部屋に運びますよ」
「あぁ、いいんだ。水を飲みに来たついでに食べてしまおうと思っただけだから」
そう言いながらしゃもじを持つ手はやけに細い。遊女の中には細身がいいのだと言ってわざと飯を抜く者もいるが、吉乃太夫がそんな話をしたことはなかった。それなのに細すぎる腕に「もしや病でももらったのでは」と珠吉の表情が険しくなる。
椀によそった米の量も気になった。椀自体決して大きくはないのに、その半分も入っていない。腰を下ろしたそばに盆が見えるが、置いてあるのは湯飲みだけで漬け物の一つも添えられていなかった。それに米を口に運ぶ動きもやけにゆっくりで、よく見れば頬もわずかに痩けているように見える。
(病のようには見えないけど……もしかしてお客が減ったのが原因なのかな)
吉乃太夫は牡丹楼で一番人気の太夫だった。太夫になったのは二十五のときで、二十八になった今年の春には盛大な花魁道中も行われた。馴染みの客たちは太っ腹にもたくさんの金子を使い、牡丹楼に勤める遊女どころか下働きの珠吉にまで祝い金を振る舞う賑わいだった。ご贔屓の中には華族もいたらしく、西陣織の打ち掛けが届いたという話は有名だ。
ところが梅雨の頃から次第に客が減り、夏の盛りには伊勢太夫が一番人気になっていた。しかもご贔屓に大金持ちの異国人客までいるとなっては、もはや吉乃太夫が一番席に戻ることはないだろう。
妓楼に勤める遊女は人気をもっとも気にする。給金もだが、人気が自分の存在価値と直結するからだ。だから誰もが太い客を繋ぎとめるために自分を磨き、学や芸を身につける。太夫ともなれば華族のお姫様にも劣らないと言われるほどで、侍の時代には国主やその子息、家老ほどでなければ相手にされないと言われていた。
(そうやって努力しても、人気を失えば誰にも顧みられない)
たとえ太夫であっても落ちぶれれば妓楼の奥でひっそりと生きていくしかない。それが嫌で早くに身請けされたがる者もいれば、給金を貯めて自ら出て行く者もいた。しかし一番太夫にまで上り詰めた吉乃太夫が自ら妓楼を出て行くことはないだろう。「太夫としての自尊心が許さないだろうからねぇ」とは誰の言葉だっただろうか。
「何か入り用の物はありますか?」
「いまはとくにないねぇ。そうだ、この間の煙草のお駄賃がまだだったね」
そう言って太夫が懐から簪を一本取り出した。玉飾りの部分に珊瑚を削って作られた薄紅色の梅の花がついている。
「そんな高価な物はいただけません」
「気におしでないよ。それにわたしにはもう必要ないんだ」
たしかに太夫が身につけるには幼すぎる簪だ。しかし売ればそれなりの金になるはずで、そうするために懐に入れていたのではないだろうかと珠吉は考えた。
(でも、結局金子に換えることはできなかったってことか)
身の回りのものを売ってまで金子を手に入れるのは自尊心が許さなかったのだろう。薄暗い中で食事をする吉乃太夫に、珠吉はおとなしく「ありがとうございます」と頭を下げた。ここで頑なに断っては太夫の自尊心をさらに傷つけることになると知っているからだ。
(それにしても、あの吉乃太夫がこうなるなんてなぁ)
春の行列では目映いばかりに光り輝いていた。ところが半年も経たないうちにすっかり変わり果ててしまった。目まぐるしく変わっていく帝都さながらに、妓楼の人気もあっという間に移り変わっていく。
それに一抹の寂しさを感じつつ、珠吉は簪を仕舞おうと自分の部屋に戻った。襖を開けると、ちょうど茶々丸が窓からひょいと入ってくる。よく見れば口に焼いた鰯の干物を咥えていた。
「ちょっと、どこかでくすねてきたんじゃないよね?」
『失敬な。これは桜蘭楼の禿がくれたものだ』
「とか何とか言って、ほんとはねだったんじゃないの?」
『俺がそんな下品な真似をするものか』
「下品って、わたしにはいっつも鰻だのまんじゅうだのねだるくせに」
『それはおまえが……って、おまえ、何を持っている』
咥えていた干物を床に置いた茶々丸が緑色の目でじっと珠吉を見上げた。三本の尻尾が不機嫌そうに大きくゆらゆらと揺れている。
「何って別に何も……あぁ、もしかしてこれ?」
そう言いながら吉乃太夫にもらった簪を懐から取り出した。それを見た途端に茶々丸の尻尾の毛がぶわっと膨らんだ。三本全部の毛が膨らんだからか、まるで狸の尻尾のような姿になっている。
「茶々丸?」
『……なるほど、そういうことか』
「ちょっと、何なのさ」
尋ねても茶々丸はじっと簪を見るばかりだ。もう一度「ねぇってば」と珠吉が声をかけると、干物をちょんと前脚で引き寄せながら「にゃあ」とひと鳴きする。
『今夜、あの異国人は来るか?』
「異国人? もしかしてリチャード様のこと?」
『そうだ。あいつは今夜来るか?』
「そう聞いてるけど……ねぇ、リチャード様がどうかしたの? この前もじっと見てたでしょ?」
『ちょうどいいから確かめてみるぞ。珠吉、今夜あの異国人を迎えるときその簪をわざと落とせ。そして異国人に拾わせろ』
「えぇ? どういうこと?」
『いいから言ったとおりにするんだ』
珠吉が「意味がわからないんだけど」と口にしても、茶々丸は干物をガジガジと噛み砕くばかりで何も言わない。ため息をついた珠吉は「いったい何なのさ」と言いながら簪を懐に仕舞い、残りの仕事を片付けるべく部屋を出て行った。




