2
日が暮れると新吉原は妖しくも美しい灯りに包まれる。赤く揺れる独特の光に呼び寄せられるように男たちが大門をくぐり、大小様々な妓楼へと吸い込まれていく様子は文明開化が進んでも変わらない光景だった。
珠吉はそんな新吉原でも指折りの老舗である牡丹楼の下働きとして働いていた。主な仕事は遊女たちの世話で、手先が器用だから簡単な繕い物のほかに髪結いの真似事をすることもある。今夜は牡丹楼一の人気花魁、伊勢太夫の寝所を整える仕事を任されていた。絹でできた赤い布団に漆の枕、傍らには豪華な打ち掛けを立てかけ、枕元には酒と火鉢に煙管入れも用意しておく。
花魁の寝所にだけ使うことが許されているよい香りの油を入れた灯りを用意したところで珠吉を呼ぶ声がした。部屋を出ると三年目の禿が二番席に名を連ねる吉乃太夫が呼んでいると口にする。
部屋へ行き、廊下から「吉乃太夫、お呼びでしょうか」と声をかけた。「お入り」という返事に障子を開けると花魁姿の吉乃太夫が煙管片手に座っている。
「煙草を買ってきておくれでないかい?」
手元に煙草入れがあるものの、肝心の煙草の葉を切らしていたのだろう。
「わかりました。いつものでいいですか?」
「頼むよ」
そう言って太夫が銭を渡した。見ればちょうどひと箱分の銭で、珠吉は内心小さくため息をつく。別に駄賃がもらえないことを憂えたわけではない。
(この半年、吉乃太夫のお客が随分減った気がしてたけど気のせいじゃなかったんだな)
太夫ともなれば、ちょっとしたお使いでも駄賃をはずむものだ。それが駄賃を渡せないほどということは実入りがないということでもある。
(ちょっと前までは伊勢太夫と並ぶ花魁だったのに)
落ちる一方の吉乃太夫と違い、昇り龍のように人気が上がっているのが伊勢太夫だ。少し前からは、横濱の異国人街に滞在しているという金髪碧眼の色男までもが通うようになった。異国人は葵の元に通っている商館勤めの男の上司で、接待で訪れたところ伊勢太夫に惚れ込んでしまったらしい。今夜もお大尽らしく奥の座敷から賑やかな笑い声や三味線の音が聞こえている。
「急いで行ってきます」
「あぁ、お客は夜更けの一人きりだ。急がなくてもいいからね」
それには答えず、頭を下げて部屋を後にした。そうして階段を下りたところで茶々丸が近づき三本の尻尾でするりと珠吉の足元を撫でる。
「おまえもついてくる?」
『夜は危険だからな』
「まるで用心棒みたいだね」
『みたいじゃなく用心棒だろう?』
茶々丸の言葉にひょいと肩をすくめた珠吉は、妓楼の主人に使いに出る旨を伝えて店を出た。昼間と違って通りを歩く人のほとんどは男で、なかには酔っ払っている者もいる。猫のときは決して大きくない茶々丸では踏まれてしまうかもしれない。そう考えた珠吉は茶々丸を腕に抱えることにした。すっかり秋風が吹くようになったからか、抱えた小さな体がやけに温かく感じる。
「あったかいな」
『猫だからな』
「化け猫のくせに」
『猫には違いない』
珠吉と茶々丸の出会いがいつなのか珠吉は知らない。新吉原の大門前に捨てられていた赤ん坊の珠吉のそばに子猫の茶々丸がいたということしか聞いていないからだ。茶々丸自身も多くを語ることはなく、ただ「おまえの用心棒みたいなものだ」と言うだけだ。
珠吉を拾った牡丹楼の主人は大の猫好きだった。そのため珠吉と一緒に茶々丸も拾い、おくるみに入っていた書き付けどおり赤ん坊には珠吉、猫には茶々丸と名付けた。その後、一人と一匹は遊女たちに可愛がられながら育ち、気がつけば十六年もの月日が経っている。珠吉はすくすくと育ち、茶々丸も長寿猫、招き猫として新吉原ではちょっとした有名猫になった。おかげであちこちの妓楼で好物をもらうお大尽さながらの暮らしを送っている。
(どうして茶々丸も一緒に捨てられたかはわからないけど、自分が捨てられた理由はなんとなくわかる)
捨てられた理由は十中八九、妖が見えるせいだろう。茶々丸の尻尾が三本だということも最初から見えていた。おそらく赤ん坊のときから妖が見えていて、それを生みの親は恐れたに違いない。口がきけない赤ん坊でも一緒に暮らす親なら異変に気づく。
(小さい頃はよくおかしなことを口にしてたって姐さんたちも言ってたからなぁ)
それでもここは新吉原、様々な事情を抱えた人が多く集まる場所では大した問題ではなかった。赤ん坊のときから牡丹楼で暮らす珠吉は追い出されることもなく、こうして下働きとして働き続けている。
そんな珠吉は小さい頃から自分が普通でないことを自覚していた。自分に見えるものが周りの人にも見えているわけじゃない。そう自覚したのは四歳のときで、それからは妖のことを口にするのをぴたりとやめた。珠吉はそれくらい賢い子どもでもあった。
(きっと新吉原みたいな場所なら、わたしみたいな者でも生きていけるって思ったんだろう)
だから生みの親は大門の前に置き去りにしただ。もしくは遊郭に縁のある人だったのだろうか。
(おかげで五体満足に育ったけど、ちょっと小柄すぎるのがなぁ)
珠吉はなぜか体があまり大きくならなかった。小さい頃から十分な食事を与えられていたにも関わらず、十六になっても同年代の少女たちより小柄なままだ。ただ、そんな小柄な体だったからこそ禿になることもなく遊女の道に進まなくてよくなったのもたしかだった。
「ま、それ以前に遊女にはなれないけどさ」
『おまえが遊女になったら天地がひっくり返るぞ』
「うるさいな」
『それとも伊勢太夫のような人気者になるか……顔立ちは悪くないしそれなりに頭も回る。人相手ならたんと稼げるかもしれないな』
「馬鹿なこと言わない。そんなことよりさっさと買いに行かないと」
『そうだった。ついでにまんじゅうの一つでも買うというのはどうだ?』
茶々丸の言葉にため息をつきながら人混みをすり抜け、大通りの端にある小間物問屋に近づいたときだった。
「危ない!」
突然そんな声がしたかと思えば背後から抱きしめられた。突然のことに驚きながら慌てて顔を上げると、間近に金色の髪と碧い目があり再び驚く。
「いま真っ黒なものがきみに飛びかかったように見えたんだが……あぁ、驚かせてしまったかな」
流暢な言葉に三度驚きながらもよくよく顔を見た。新吉原でもたまに見かけるようになった金髪碧眼だが、見覚えのある整った顔立ちに珠吉が「あぁ!」と声を上げる。
「これはリチャード様でしたか」
「うん……? あぁ、きみはたしか伊勢太夫のところの」
「牡丹楼の下働きで珠吉と申します」
「そうだ、珠吉だ。太夫が可愛い妹分だと話していた子だ」
「妹分じゃあないんだけど」と思いながらぺこりと頭を下げた。
「大丈夫だったか? 咄嗟に抱き寄せたが、どこかぶつけてしまったりはしていないか?」
「いえ、とくには」
「そうか。一瞬猫かと思ったんだが、それにしてはやけに大きな影だった。襲いかかるつもりなのかと慌ててしまったよ。あの動きや大きさからすると猿だったのかな」
「新吉原に猿はいませんが……あぁいえ、狸の類いかもしれません。どちらにしてもありがとうございました」
もう一度深々と頭を下げながら、珠吉は視線の端で放り投げてしまった茶々丸を探していた。左右を見ても茶々丸の姿はなく「どこに行ったのやら」とわずかにため息が漏れる。
「ところで買い物かな?」
「はい。煙草の葉を一箱、頼まれまして」
「伊勢太夫にかい?」
「いえ、別の太夫にです」
「なるほど。もしかしてあそこの店かな?」
リチャードの視線の先には馴染みの小間物問屋があった。そこは新吉原で長く商いをする古い店で、大門の外にある小間物問屋とは少しだけ品揃えが違う。といっても大抵の品は揃うため、遊女の多くはここで必要な品を買っていた。
(でもって、お客たちは精が強くなる薬を買う、と)
もしかしてこの異国人もそうしたものを買いに来たのだろうか。暖簾をくぐりながらちらっと振り返る。しかし背後に異国人の姿はなく、どうやら店に用事があったわけではないらしい。
(奥座敷はとっくに賑わっていたはずだけど)
てっきりリチャードが到着したものだと思っていた。しかしここにいるということは、あの賑わいは別の誰かをもてなしていたということになる。「でも主人はリチャード様が来るって言ってたよなぁ」と首を傾げながら煙草の葉を一箱買い求めた。
店から出ると足元をするりと撫でる気配に気がついた。視線を向けると茶々丸が三本の尻尾をゆらゆらと左右に揺らしている。
「茶々丸、どこに行って……茶々丸?」
話しかけているのに茶々丸の緑眼は一点を見つめたままだ。視線の先には柳の木とリチャードの姿がある。
「どうかした?」
『嫌な匂いがした』
「え?」
『一瞬犬かと思ったが、それとは少し違う。だがよく似ている濁った匂いだった』
「それって、さっきわたしに襲いかかった黒いもののこと?」
『あれは妖になり損なった念のようなものだ。大方おまえの力に引かれて近づいてきたんだろう』
「それが嫌な匂いをさせてたってこと?」
小さく頷いたものの茶々丸の目はじっとリチャードを見つめている。いつもと違う様子に首を傾げながら珠吉もリチャードを見た。すると珠吉の姿に気づいたのか、にこりと微笑みながら右手を上げる。
「もしかして、あの人からもその匂いがするってこと?」
『……いや』
歯切れの悪い様子が気になるものの、伊勢太夫の太い客である異国人を無視して帰るわけにはいかない。少し悩みながらも珠吉はリチャードの元に行くことにした。
「てっきり今夜もお泊まりかと思っていたんですが、お早いお帰りですね」
「いや、太夫のところへはこれから行くんだよ」
「え? でも座敷ではすでに宴会が始まっていたような……」
「あぁ、それは僕の従者を先に行かせたからだろうね。太夫が気を遣ってもてなしてくれているんだろう」
おそらく先払いの金子をその従者に持たせたに違いない。金子さえ払ってくれれば、たとえ従者であってももてなすのが妓楼だ。「たしか従者も異国人だったな」と思い出した珠吉は「だから余計に賑やかだったってわけか」と納得した。
「では、牡丹楼までお供します」
「ありがとう」
そう言って歩き出したリチャードの半歩後ろを珠吉がついていく。その隣を歩く茶々丸は、三本の尻尾を忙しなく揺らし何度も珠吉の足元を叩いた。
(こんな様子の茶々丸は珍しいな)
気になったもののリチャードの周りに不穏な気配はない。もし妖が憑いているのなら珠吉にも見えるはずだが、そういった類いの影も見当たらなかった。
「そういえば、きみはおもしろい子だと太夫が話していた」
「おもしろい子、ですか?」
「不思議な話をよく知っていて、しかも猫とも話ができると聞いたよ」
「赤ん坊のときから猫と一緒なので、猫の気持ちはなんとなくわかるんです。不思議な話も新吉原ではよく聞く程度のものですよ」
「ちなみにどんな話が得意なんだい?」
珠吉は促されるまま少しだけ話をすることにした。こうやって客を案内するのも下働きの務めだからだ。
(こういうときは狐の話がいいんだ)
珠吉が得意なのは妖の話だ。だからといって自分が見聞きしたことをそのまま話すわけじゃない。人が眉をひそめるような恐ろしいことはほんの少し織り交ぜる程度にして、艶やかな内容のほうを盛って話に彩りをつける。そうした話は遊女たちに好評で、中には駄賃をくれる奇特な客もいた。そうした色っぽい話を二つしたところで牡丹楼に到着した。
「子どもだと思っていたが、きみの話はなかなか興味深い。こんなに聞き入ったのは久しぶりだよ。本にしたためて異国に持っていけば飛ぶように売れるんじゃないかな。きみにはその才能があると僕は思う」
珠吉は曖昧に微笑みながら「伊勢太夫がお待ちですよ」と促した。「本のこと、本気で考えてみないか?」と言うリチャードにぺこりと頭を下げると、そのまま一階の奥にある自分の部屋へと戻る。
「こんな話を本にだなんて、異国人っていうのは変なことを考えるんだな」
そうつぶやきながら奥の座敷の様子に聞き耳を立てる。しばらくすると座敷の賑わいが一層大きくなった。あの異国人が今夜も大盤振る舞いをしているのだろう。よほど景気がいいのかいつも気前よく金を出し、かと言って無理難題は口にしない。そうしたリチャードは帝都の富豪より遊女たちに人気があった。
(ああした客ばかりなら姐さんたちも楽なんだろうけど)
珠吉はそっと襖を開けると、足音を立てないように階段を上り吉乃太夫の部屋へと向かった。