13
空気を激しく震わせる金属音は生き霊の心情を表しているかのようだった。ギギギとガラスを引っ掻くような音に茶碗や湯飲みがいくつも割れるような音まで混じっている。珠吉にはそう感じられたが、実際は生き霊の叫び声だったのかもしれない。
顔をしかめながら耳を塞いでいた珠吉は、生き霊が憤怒の表情で破裂するように霧散するのを見た。後には白い煙のようなものがわずかに漂っている。
「すごい声だったね」
『耳の中の毛まで逆立つかと思ったぞ』
生き霊は消えたものの、珠吉は頬や指先にビリリとした痺れを感じた。足元を見ると茶々丸の毛がぶわりと膨らんでいる。どうやら本人の意志ではないようで、前脚で顔に触れてはバチッと音を立て「にゃっ」と小さな悲鳴を上げていた。
「……いなくなったのか?」
右肩を見ながらリチャードが囁いた。「たぶん」と答えながら珠吉が手鏡を見せるとホッとしたような顔に変わる。
「それにしても上手ですね」
「何がだ?」
「さっきの話です。まるで本当に身請けするような口調でした」
「そうか? 別に大袈裟に言ったつもりも嘘をついたつもりもないんだが」
リチャードの返事に「そういうことか」と珠吉はため息をついた。
たしかにリチャードは嘘をついていない。仕事や給金だけでなく住む場所、衣服その他必要なものがあればすべて用意すると約束してくれたのも本当だ。そんなことをリチャードが言ったのは伊勢太夫の言葉があったからで、太夫は男物の服すら持っていない珠吉のためにと思って話をつけてくれたのだろう。そうしたことを「身一つで」と表現したのだろうが、あれでは惚れた遊女を身請けする男の言い方だ。
(「早くその日が来ないかと待ち遠しかった」っていうのは、単に妖話を聞きたいだけだろうし)
祖国にそうした話がないのか、リチャードは心から楽しみにしているようだ。しかも本気で本にしたいと考えているようで、狐のような話をいくつ知っているか聞かれたのはつい先日のことだ。
懐に手鏡を仕舞いながら、ちろっとリチャードを見る。「うん?」と珠吉を見る表情はいつもと変わらない。
(さっきのもこの人の素だとしたら、影で泣いてる人も多そうだな)
こういうのを無自覚の色男というのだろう。これは本格的に魔除けを持たせたほうがよさそうだ。
「生き霊はいなくなりました。ですが一時的なものかもしれません。念のためお札か何か持ったほうがいいですよ。そのほうが周囲に迷惑をかけないと思います」
「お札というのは?」
「お守り、魔除けといったものです」
「あぁ、あの可愛らしい巾着か」
ポンと手を叩くリチャードはすっかり元どおりだ。本人に取り憑かれていた自覚はないのだから危機感がなくて当然だろう。厄介な体質の雇い主に、珠吉は内心「祓う力があっても役立たずだ」とため息をついた。
「リチャード様が力を使いこなせれば魔除け要らずなんですけどね」
「どういうことだ?」
「だってリチャード様、妖や幽霊を祓う力をお持ちじゃないですか」
「……なんだって?」
『おい』と茶々丸が尻尾で足を叩いた。
『余計なことまで言うつもりか?』
茶々丸がそう言うとリチャードの視線が足元に移った。視線を感じた茶々丸が「なんだ?」と口にするとリチャードの顔がわずかに険しくなる。
『もしかして俺の声が聞こえているのか?』
「……聞こえているな」
生き霊が消えれば茶々丸の声も聞こえなくなると思っていたのか、リチャードが右手で目元を覆いながら大きなため息をついた。それは珠吉も同じで「えぇ?」と眉をひそめる。
「茶々丸、声が聞こえるのは一時的なものじゃなかったの?」
『そうだと思ったんだが……どういうことだ?』
「わたしにわかるはずないでしょ」
「きみの猫はやはり人語を話せるのか……」
二人と一匹がそれぞれ複雑そうな表情を浮かべる。
『これは予想なんだが……』
神妙な茶々丸の声に珠吉とリチャードが視線を向けた。
『祓う力が少しずつ開花しているのかもしれない』
「少しずつ力が強くなってるってこと?」
『強くというより使い方がわかってきた、ということかもしれないが』
珠吉は眉をひそめ、リチャードは「力の使い方?」と首を傾げている。
『力の使い方がわかれば魔除けの類いは必要ないだろう。もともと祓う力があるんだ、使いこなせれば生き霊に取り憑かれるなんてことは起きないはずだ』
「使い方ねぇ」
それよりも無自覚に女たちをその気にさせないようにすればいいんじゃないだろうか。そう思ったものの、さすがに口に出すことはしない。戸惑っているリチャードを見ながら「いまの話、わかります?」と珠吉が声をかけた。
「あぁ、なんとなくだが。つまりわたしには幽霊を追い払う力がある、そういうことだな?」
「はい」
「そんな力がわたしに……?」
両手を見ながら「幽霊を追い払う力か」とリチャードがつぶやく。
「信じられない」
「嘘は言ってません。……わたしはそういうものが見えるんで、間違いありません」
『おい』
「茶々丸の声も聞こえてるんだから、もう隠しとおすのは無理だよ」
『いいのか?』
茶々丸の問いかけに「仕方ないでしょ」と珠吉がため息を漏らす。
「わたしは鏡を使わなくても生き霊が見えていました。リチャード様、こんなわたしや茶々丸は恐ろしいですか?」
両手を見ていた碧眼が珠吉を見た。それから足元にいる黒猫を見る。しばらく交互に見ていたリチャードだが「いいや」と首を横に振った。
「怖いとは思わない。そもそも助けてもらったのにそんなことを思うはずがない」
「それはよかった。もし怖がられたら働き先を失うところでした」
珠吉の返事にリチャードが眉をひそめた。
「もしかして、わたしが身請け話を反故にすると思ったのか?」
「だって、普通はこんな気味の悪い者を雇いたいとは思わないですから」
「心外だな。わたしは太夫とした約束を破ったりはしない。太夫への気持ちはそんなに簡単に壊れるものじゃない」
力強い声に「どうしてこれで惚れた腫れたにならないんだろう」と珠吉は不思議に思った。そのくらいリチャードの声も表情も伊勢太夫を強く思っているように見える。しかしそれを指摘するほど珠吉も野暮ではない。
二人と一匹は連れ立って歩き出した。各々思うことがあるのか言葉を交わすことはなく、ときおり冷たい風がどこかの扉をカタカタと鳴らす音が聞こえてくる。小径を出て大きな通りに戻ると、いつもどおり赤い灯りが煌めく新吉原が広がっていた。その灯りにホッとしたのはリチャードで、それを斜め後ろで見ていた珠吉が「早まったかな」とほんの少し後悔する。
口ではああ言ったリチャードも、内心は珠吉を気味悪がっているに違いない。それでも伊勢太夫の頼みだからとすべてを呑み込むつもりなのだろう。
「そうだ」
不意にリチャードがくるりと振り返った。「きみを新しい従者にしよう」と言い、「そうだ、それがいい」と頷き始める。
「リチャード様、声をひそめてください」
「おっと、そうだった」
新吉原での珠吉は女だ。実は男だと知っているのはリチャードと伊勢太夫、それに店の主人やわずかな遊女だけで、新吉原を出るまでは男だとばれるわけにはいかない。
「それで、従者というのはどういうことですか?」
声をひそめつつそう尋ねる珠吉に「ちょうど新しい従者を雇わなくてはと思っていたところだったんだ」とリチャードが答える。
「常にわたしのそばにいる従者はこの国の言葉を流暢に話せる者でないと困る。ところが本国から連れて来た使用人たちは皆うまく話せない。いっそこの国で雇おうかと思っていたところだったんだ」
「従者って、あの人のような仕事をするってことですよね?」
「あぁ。わたしが行く先々に付いてきてもらうことになる。荷物持ちや先方への挨拶回り、車や宿泊先の手配、取引先とのやり取りを頼むこともある」
「ちょっと待ってください。そんなことわたしにできるはずありません。そもそも異国の言葉はからっきしなんです」
「それはかまわない。当面はこの国での仕事になる」
「そうだとしても、わたしは新吉原でしか働いたことがありません。それも洗濯や掃除をする下働きです。諸々の手配やご贔屓様への挨拶なんて無理です」
「無理ではないだろう」
「リチャード様」
「きみは長年あの伊勢太夫のそばにいたんだ。最初は慣れなくてもすぐに覚えられる。もちろんはじめは指導者をつけてやろう」
「でも、」
「わたしはきみを恐れたりはしない。従者としてそばにいてくれれば心強いとさえ思っている」
最後の言葉に珠吉はハッとした。リチャードは珠吉の気持ちを考え従者にと口にしたに違いない。妖や幽霊が見えても気にしない、そう言いたかったのだ。珠吉は開きかけた口を閉じ、深々と頭を下げた。それを見たリチャードは「よろしく頼む」と微笑んだ。
この日もリチャードはお大尽よろしく伊勢太夫の座敷で宴会を開いた。何度か酒を持っていった珠吉は、そのたびに太夫がニコニコと自分を見ることに首を傾げた。気のせいでなければ座敷に呼ばれた葵やほかの遊女もニコニコと満面の笑みを浮かべている。なんとなく居心地の悪さを感じた珠吉は酒を置くとすぐに座敷を離れ、「なんだかなぁ」と思いながら台所の仕事を手伝った。
それから数日後、珠吉は正式にリチャードの従者になることが決まった。喜んだのは伊勢太夫や葵といった珠吉の性別を知る遊女で、店の主人も「よかった、よかった」と涙ぐんでいる。自分が拾ってきた赤ん坊の未来が明るいことに、まるで孫に奉公先ができたような気持ちがしているのだろう。
「太夫姐さん、リチャード様に何か言いましたね?」
「あらあら、そんな怖い顔は駄目よ。せっかくの可愛い顔が台無しじゃあないの」
「姐さん!」
「珠吉は大事な妹分だから大事に雇ってくださいなと話をしただけよ?」
「……だからって、わたしにリチャード様の従者なんて務まるはずがないのに」
「あら、そうかしら。珠吉ならきっとどこにいても上手に生きられるわ。賢くて気が利いて、銭の勘定も文字の読み書きもできて、それに繕い物に髪結いだってできるんだから。それにこんなに可愛いのよ? 大門の外でもあっという間に人気者になるわね」
太夫の言葉に珠吉の目元がわずかに赤くなった。「お世辞がうまいんだから」と照れ隠しを口にしながら、遊女たちにもらった品を葛籠に仕舞う作業を続ける。
珠吉が牡丹楼から持って行くのは葛籠一つ分だ。「いくつでもかまわないよ」とはリチャードの言葉だが、遊女でもないのに大層な荷物を持参するのはよくない。そう考え一つ分だけと決めた。
「そうだ、吉乃太夫から餞別を預かっているの」
伊勢太夫が布に包まれた細長いものを取り出した。布を開くと煙管が入っている。よく見れば吉乃太夫が大事にしていたもので、太夫になったときにご贔屓に頂戴したものだと話していた。
「こんな大事なもの、受け取れません」
「そうお言いでないよ。これは吉乃太夫のおまえへの気持ちなんだから」
「でも、」
「受け取っておやりなさいな。そのほうが吉乃太夫もきっと元気になるわ」
そう言われてしまえば頷くしかない。「はい」と受け取った珠吉は丁寧に布で巻くと、葛籠の一番上に置いた。
一時、命が危ういと言われた吉乃太夫だったが、少し前から回復の兆しを見せ始めていた。いまでは重湯を口にし、そろそろ粥をも食べられそうなほどだ。それに一番驚いたのは医者で、首を傾げながらも「もう大丈夫でしょう」と口にした。
その理由を珠吉は知っていた。吉乃太夫に纏わり付いていたネズミが綺麗さっぱり消えたからだ。ネズミを消したのは珠吉が買ってきた洋紅で、どうやら懐に仕舞っている間に照魔鏡の影響を受けたらしい。照魔鏡は妖を映し出す鏡のはずだが、リチャードがそばにいたからか何かしらの力を宿したのだろう。そんな手鏡に珠吉の懐の中で触れていた洋紅に祓う力が宿り、最後の化粧にと唇に塗ったことでネズミの犬神を追い払った。どういう仕組みか茶々丸もよくわからないようだが、紅は元々邪気を祓うと言われている。そうした力が増したのかもしれない。
煙管の横に伊勢太夫にもらった櫛を入れた。伊勢太夫の部屋での作業はこれで終わりだ。蓋をした珠吉に太夫が「本当によかった」と口にする。
「リチャード様が珠吉を従者にと言ってくださったこと、皆喜んでいるのよ」
「そうそう。妓楼の下働きが異国人のお金持ちの従者だなんて大層な出世じゃないの」
「葵姐さん、言い方」
「あら、皆そう思っているわよ?」
「太夫姐さんまで」
「何かあったら戻ってらっしゃい、とは言えないけれど、皆珠吉のことを思っているわ」
「……ありがとうございます」
「なぁに、泣いてるの?」
「そんなことありません」
「泣くならあたしの胸でお泣きよ」
「葵姐さん、お酒臭い」
「白粉とお酒の混じった匂いも懐かしい思い出になるさ」
「もう、葵姐さんったら飲み過ぎないでくださいよ。お薬を買いに行かされる下働きも大変なんですから」
牡丹楼の奥座敷に笑い声が広がった。珠吉の性別を知っている遊女は「出世頭だ」と喜び、知らない遊女や禿たちも「身請け、本当にようござんした」と喜んでいる。
(もうすぐここともお別れかぁ)
部屋に戻った珠吉は、障子を開け外を眺めた。珠吉が使っている一階奥の部屋からは裏庭に植えられた梅の木が見える。すでに蕾は膨らみ始め、あと少しで咲き出そうなあんばいだ。
『すぐに横濱に行くのか?』
「ううん。品川の屋敷にしばらくいて、それからだって聞いた」
『なんだ、ハイカラなものはまだ先か』
「茶々丸、ほんと食い意地が張ってるね」
『うるさい。ところで品川は仕事なのか?』
「そう聞いてる。銀座と四谷、あと新宿にも用事があるって言ってたけど」
『なるほど、これはまた何かを呼びそうな場所ばかりだな』
「えぇ……ちょっと、いやなこと言わないでくれる?」
『そうならないことを祈ろう』
三本の尻尾をゆらりと揺らした茶々丸が「ここは寒い」と言って部屋を出て行った。大方、店の入り口にある火鉢に当たりに行ったのだろう。昼が過ぎれば外も暖かくなる。その頃には馴染みの妓楼や蕎麦屋に好物をもらいに行くに違いない。
「品川に銀座、四谷、新宿かぁ」
いずれも珠吉には話でしか聞いたことがない場所ばかりだ。銀座の賑わいや四谷の妖話、新宿の貸座敷の話は知っているものの、どんなところか想像もつかない。どれも物語の向こう側のような場所だったが、従者となればリチャードに付き従って赴くことになる。
(楽しみといえば楽しみかな)
異国人の従者が自分に務まるかはわからない。それでも知らない世界に一歩踏み出すのはなんだか胸が躍るような気持ちがした。
(どんな毎日になるのかなぁ)
リチャードのところには茶々丸も一緒に行く。きっといま以上に賑やかになるに違いないと思いながら珠吉は紅梅の蕾を眺めた。




