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新吉原の珠吉は三尾の化け猫と明け暮らす  作者: 朏猫


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 伊勢太夫の手元にある西陣織はしばらく奥に仕舞われることになった。それにホッとしたのは骨の手を見た禿で、太夫が「大丈夫よ」と涙ぐむ禿の頭を撫でている。


(あれだけの着物を仕舞い込むのはもったいない気もするけど)


 しかし禿だけでなく遊女たちも怯え始めている。「仕方ないか」とため息をついた珠吉は「じゃあ行ってきます」と言って座敷を出た。


「頼むわね」

「はい」


 伊勢太夫にお使いを頼まれた珠吉は、店を出てからもあれこれ考えた。思い浮かぶのは手鏡のことで、着物よりこちらのほうがよほど気になっている。

 リチャードが土産物を持って来たとき、珠吉はいくつか付喪神が混じっていることに気がついた。付喪神は神と付くが、正確には神ではない。百年過ぎれば茶碗も神と年寄りが言うとおり、古い物に精霊が宿ったもの全般を指す言葉だ。リチャードが持ってきた物の多くは古いもので、ただ古いだけでなく大切に使われてきたものが多かった。その一つが珠吉が手にした手鏡だが、これだけはほかの付喪神と様子が違っていた。


「着物と同じで、てっきりあの手鏡も強めの妖だと思ったんだよね」

『付喪神も妖の一種だぞ』

「そうだけど、なんだかちょっと違う気がしたっていうかさ」

『おまえの勘もなかなかだな。あの鏡はただの付喪神じゃない。俺もすっかり見間違えた』


 茶々丸の言葉に「ん?」と珠吉が足を止めた。


「ちょっと待って。あの鏡、付喪神じゃなかったの? でも見た感じ付喪神だったでしょ?」

『付喪神にもいろいろあるんだ。物から妖になったものもいれば、そうでない道をたどったものもいる』


 そう言って茶々丸がトトトと前を歩いて行く。二人が向かっているのは通りの端にある小間物屋で洋紅を買いに行くところだ。紅は吉乃太夫のためのもので、いよいよ命が危ういと医者に言われた吉乃太夫のためにと伊勢太夫に紙幣を渡された。いわゆる死に化粧のための紅ということだろう。

 吉乃太夫はますますやせ細り、重湯すら口にするのがやっとの様子だ。吉乃太夫についていた禿は急激な変わりように世話を嫌がり、代わりに珠吉が一日に何度か様子を見ている。医者が言うには病ではないとのことだが、「それならどうしてこんなことに」と口にする遊女たちに答えられる者はいなかった。

 珠吉は犬神のことを誰にも言っていない。言えば大騒ぎになるからだ。元吉原で六人の遊女が殺された事件だけでも大変な騒ぎだったというのに、もし新吉原で死んだ三人が妖に呪い殺されたとわかればもっと大騒ぎになるだろう。誰の仕業だと犯人捜しが始まるかもしれない。たしかに恨みつらみを他人に向けた吉乃太夫の行為は許されないが、こうして罰を受けているうえにさらなる罰を受けるのは不憫すぎる。


「人を呪わば穴二つ、か」

『負の感情を抱くだけならいい。妖を使ったのがまずかったな』


 珠吉が口を閉じる。茶々丸もそれ以上は何も言わずトトトと前を歩いた。そんな一人と一匹に「やぁ」と明るい声をかける者がいた。振り返るとリチャードが立っている。相変わらずの三つ揃え姿で、さすがに寒いからか洒落たコートを羽織っていた。


「リチャード様」

「奇遇だな」


 そう言いながらリチャードがにこやかに近づいて来る。


「お使いかい?」

「はい」


 答えながら「そういえば前にもこの辺りで会ったっけ」と思い出した。


「ということは、あそこかな」


 小間物屋を指さすのもあのときと同じだ。違うのは以前は夜だったがいまは夕方で、通行人もそこそこいることだろうか。


(そういや、あのときネズミの犬神に襲われかけたんだっけ)


 そして吉乃太夫と犬神のことを知り、リチャードが妖を祓うことができることもわかった。あのときの偶然の出会いがきっかけで少しずつ何かが変わったような気がする。珠吉にとってはいいこともあったが、吉乃太夫のことを思うと複雑な気持ちになった。


(いずれ犬神のことはわかっただろうけどさ)


 小間物屋で洋紅を買い外に出ると、柳の木の下にリチャードがいた。あのときは伊勢太夫の太い客だから無視できないと思ったが、いまは自分の雇い主になる相手だからもっと無視できない。右肩のあたりを見て「今日はいないんだ」とホッとしながら洋紅を懐に仕舞い、リチャードの元へ行く。生き霊を怖いとは思わないが近づきたくないのが本音だ。


「今日いらっしゃるとは伺っていましたが、お早いですね」

「日本橋での仕事が予定より早くに終わったんでね」


 リチャードの半歩後ろを珠吉が歩く。その隣をトトトと茶々丸が付いてきた。


「そういえば初めてきみに狐の話を聞いたのもこの道だったな」

「お耳汚しでした」

「いや、あれはおもしろかった。あの後、結局ほかの話を聞かせてもらうことはできなかったが、今度からはいつでも聞かせてもらえる。実はそれも楽しみなんだ」

「ああした話でよければいつでも……あの、伺っておきたいことがあるんですが」

「なんだい?」

「以前お話しした狐の話には古い言葉遣いが混じっています。それでその、……もしかして難しかったのではと気になりまして」


 異国人には馴染みの薄い言葉もあっただろう。妓楼ならではの内容も混じっていた。もし理解が難しいなら妖の話でないほうがいいかもしれない。あのときはそこまで考えなかったが、雇い主となれば気を遣ったほうがいい。窺うような珠吉の表情に碧眼をきょとんとしたリチャードは、次の瞬間「大丈夫だ」と微笑んだ。


「祖国ではこの国の古典とやらも何冊か読んでいる。わたしの師匠はこの国の人でね。それはもう恐ろしいくらい熱心に言葉を教えてくれたよ」

「そうでしたか」


 なるほど、だからこれほど流暢に話をすることができるのだろう。


「ジョンのことも師匠は買っていたんだがな」


 碧眼が冬の寒空を見上げた。この国からリチャードの祖国までは船でひと月半ほどかかると聞いた。あの従者を乗せた船もそろそろ国に到着する頃だろう。その後の展開を思っているのか、リチャードの横顔は寂しそうにも悲しそうにも見えた。


「師匠が熱心だったおかげで、わたしはこうしてこの国で商売ができる。それに友人もできた。その点はありがたいと思っているんだが、下手に言葉が通じるせいで女性たちに声をかけられることも多くてね。それだけは不慣れなままだ」


 身分の高い異国人で言葉は流暢、しかも羽振りがいいとなれば見逃すまいと考える人も多いだろう。「どんなご令嬢も我こそはと躍起になりそうだ」と珠吉が想像したところで首筋がぞわっとした。ハッと斜め前にある右肩あたりを見ると煙のようなものが漂っている。突然現れた真っ白なそれはゆらりゆらりと揺れ、次第に何かを形作り始めた。


(あれは……顔?)


 ぼんやりとしているが、輪郭から女に違いない。しかし髪を結い上げているようには見えない。長さまではわからないが、どうも昨今流行りの釣り鐘型の帽子を被っているように見える。頭の次に輪郭がはっきりしたのは胸元だった。首や肩あたりは着物ではなく洋装だ。リチャードの身分から、富豪か華族のような身分の高い家のご令嬢に違いないと珠吉は予想した。

 顔あたりに視線を戻すと、ぼんやりしていた顔の中に大きな目のような穴が現れた。黒目はなく真っ黒な穴蔵だが、中心にちろちろと炎のような小さな明かりが見える。その目がぎょろりと左右に動き、斜め後ろを歩く珠吉を見て動きを止めた。


『見るな!』

「え……? って、なに……」


 茶々丸の声は聞こえたが遅かった。声がしたとき、珠吉はすでに穴蔵の目と視線が合っていた。慌てて視線を外そうとしたもののうまくいかず、突然目の前がぐらりと揺れたように感じ足を止める。激しい目眩に足元はフラフラと覚束なくなり、なぜか懐がグッと重くなった気がした。


「どうかしたか?」


 振り返ったリチャードが「大丈夫か?」と言いながら右手で珠吉の肩に触れようとした。それに茶々丸がぴょんと飛びかかり慌ててリチャードが手を引っ込める。


「きみの猫はまるでナイトのようだな。あぁ違う違う、わたしは心配しただけで不埒な気持ちは一切ない」


 茶々丸が睨みつけているのは右肩あたりに漂っている生き霊なのだが、それに気づかないリチャードは慌てたように黒猫に弁明していた。大丈夫だと言いかけた珠吉だが、すぐに不快な匂いがして「うっ」と口元を抑える。

 鼻に入ってきたのは強烈な腐臭だった。鰯が腐ったものに甘い何かをぶちまけたような胸が悪くなる臭いに珠吉が顔をしかめる。生き霊が発する臭いかはわからないが、このまま牡丹楼まで歩くのは難しい。そもそもこれほど強い気配の生き霊を牡丹楼に連れて行くわけにはいかなかった。


「こちらに」


 それだけ口にすると、なんとか脇の小径へと入った。訳がわからないままリチャードも後を追う。夜になれば辻待ちの遊女たちがいるこの辺りも、まだ時間が少し早いため人気はない。ここなら万が一生き霊が暴れても周囲に迷惑をかけることはないだろう。ひどい目眩に目元を覆いながらも珠吉は「しばらくこのままで」とリチャードに声をかけた。


「随分とひどい顔色だ。もしかして体調が悪かったのか?」

「いえ……それより、リチャード様のほうは?」

「え? わたしかい? いや、風邪すら引いていないが……」


 やはりリチャード自身は影響を受けるどころか生き霊にすら気づいていない。従者の負の念にもこうして気づかなかったのだろう。本人はそれでいいかもしれないが、そのせいで周囲に悪影響が出るのはよくない。珠吉と同じことを考えたのか、茶々丸が不機嫌そうに「にゃおん」と鳴いた。

 茶々丸の鳴き声に反応するかのように生き霊がゆらりゆらりと揺れ出した。そうして穴蔵のような目がぎろりと茶々丸を睨みつける。その目はすぐに珠吉へと移り、二つの穴蔵の下に口のような裂け目ができた。


 ――…………!


 裂け目から人の声とは明らかに違う音が響いた。あまりの音に珠吉は「うわっ」と声を上げ、茶々丸は三本の尻尾をこれでもかと膨らませながらフーッと唸っている。本当は化け猫本来の姿に戻りたいのだろうが、リチャードがいる手前我慢しているのだろう。


「本当に大丈夫か?」


 生き霊の声がまったく聞こえないのか、リチャードは相変わらず珠吉を心配そうに見ていた。それに頷くこともできず顔をしかめていると、「抱えて運ぼうか?」と言いながらリチャードが珠吉の肩を掴んだ。

 次の瞬間、懐から何かがゴトンとすべり落ちた。足元を見るとあの手鏡が落ちている。衝撃で外れたのか被せものがずれ、鏡面に空が映っていた。そこに一瞬、恐ろしい形相の女が映った。それに「え!?」と驚いたような声を上げたのはリチャードだった。


「なぜ彼女の顔が……?」


 つぶやく声に生き霊がゆらりと揺れた。

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