5話 無味くんは友達と過ごす
乾燥さんの生き方は、とても上手いと俺は思う。
「――でさー……おい無味聞いてる?」
「聞いてない」
「そこは聞いてるフリくらいしようぜ……」
視線を右へと向けさせれば、読書をしている乾燥さんがいた。あれからすぐ会話に区切りをつけて、それからずっとこの調子である。
読んでいる小説はいつもと変わらない表紙。無機質で、ある種の作品のように動かず、存在感が無に等しく、集中している。集中しているように見せかけている。その姿は、クラスメイトを寄せ付けないオーラさえも放っていた。
実際、自分の知る限りあの読書姿に声をかけてるのは用のある先生や委員長くらいなものだ。もしかしたら始業式後の、まだコミュニティやグループが形成される前ならば、まだ声をかけられたことがあるかもしれない。けれどきっと、何事もなくやり取りを済ませたのだろう。なぜなら夏が終わり秋に差し掛かった十月である今ではもう、彼女に近づく者はいなくなった。
そうやって堂々と己の立ち位置は孤高であると周囲に知らしめ、かといって不快な思いもさせずやり過ごす彼女のバランスには、感服するものさえあった。注意はされず、気も使われず、気取られない。見られさえもしない。浮くことすらも。
そして彼女も、周囲に一切見向きもしないから、完璧だと思う。
ありとあらゆることに見向きもしないことができる彼女だからこそ、なせるわざだ。
もっと早くに目を付けていたらと、初めて彼女に目を付けたときに後悔した。そして目を付けた瞬間に実行していたなら――この二人からも絡まれることがなかっただろうに。
「よし、やっとこっち向いたな。話続けるぞ?」
前の席に座り、こちらに椅子ごと身体を向けるメラメラくんを一瞥する無味くん。すぐさま右側に視線を転がす。
「なぁ鉛筆、いつまでも設計図描いてないでこいつの話を聞いてやれよ。俺は考え事に忙しい」
「いつも何も考えてないくせに何言ってんの? いいから聞いてあげなよ。僕は設計図を描きながら聞いて理解して相槌を打ったよ」
「そんな芸当は極めた者にしかできない。だが俺は考え事に関しては素人だ。できそうにない」
しかし、鉛筆くんは手を動かすのをやめずに反論する。
「じゃあ考え事をやめればいいじゃん。そんなにメラメラの話聞きたくないの?」
「ああ」
「せめて嫌悪を込めて言ってくれよ。マジでつまんねぇ話に聞こえてくるじゃねぇか」
メラメラくんにそう言われ、仕方なく無味くんは持てる限りの感情を込めて吐き捨てた。
「とても不愉快だからその口を閉じてくれ」
「機械が言ってるようにしか聞こえん。もっと感情を込めろ感情を」
「……」
これでも感情を込めたつもりなのだが、難しい。
「仕方なねぇなー。ほら鉛筆、お前の手本を見せてやれ。今思っている嫌悪を口にしてみろ」
「ダメージ負いたがるなよ気持ち悪い」
「いいか無味! これが本物の嫌悪ってやつだ!」
「俺には違いがよくわからないが……確かに発音が少し違っていた」
「ちなみにこれ凄く傷つくから言うなよ。絶対言うなよ!」
「ん、わかった」
あっさりと、聞き分けのいい無味くん。鉛筆くんは未だに軽く拍子抜けするが、メラメラくんは構わず口火を切る。
「よし、わかってもらえたなら早速、俺の話を聞いてくれ無味。面白いのは保証するから」
「それは僕も保証するよ。僕の手を止めさせるには至らなかったけど、笑えるものではあった」
「ほら、鉛筆もこう言ってるしさ」
「指さしてゲラゲラ笑えるものだった」
「……え?」
「冗談だよ、冗談」
「そうか。なおさら俺はいい。メラメラが提示する話題に興味が湧いたことが一度もないからな」
笑みも何も、そんなものは求めていない。
素っ気ない態度の無味くんに、しかしそんなの知ったことかとメラメラくん。
「とにかく聞いてみろって、金請求するわけじゃないんだしさ。愚痴ってわけでもないし、一分程度で終わる話だ。それにどうせ校庭を眺めるくらいしかやることないんだろ?」
「校庭を眺める方が楽しいんだよ」
すると右側にいた鉛筆くんが、横槍を入れる。
「君は相変わらず物好きだよねー。風景を眺めるのは、まぁ確かに落ち着くけどさ、それを長時間できるのは乾燥さんと君くらいだよ」
「そうか?」
「それってもう極めてるんじゃない? やりながら話の一つや二つ聞けるでしょ。作業してるわけでもないんだし」
「メラメラがそれでいいなら」
「おう、俺はいいぜ」
笑って答える、メラメラくん。すぐに無味くんは、顔の向きを変えた。
それから変わらない校庭を眺めながら聞いたのは、一応、耳に入ってきて、頭で整理しながら理解できたのは――これまで聞いたことのない、新しい話だった。
笑えるらしい――失敗談だった。
楽し気に、彼は話していた。
無味くんは大して壮大でもない景色を眺めながら、薄っすらと相槌を打つ。打ちながら、
――ズズッ、ザザザッと。
さながらノイズのような、脳裏に迸った光景に、無味くんは一つ疑問を思いついた。
この話題とは無関係な、純粋無垢な問いだった。
「――なぁ」
「ん? どうした?」
視線を窓からメラメラくんの方に移した無味くん。語っている最中だったみたいだが、それでも彼は遮られたことを咎めない。
だから単刀直入に、簡潔に一言でまとめて質問した。
「お前らはどうして、俺に報告や説明をするんだ?」
「……んーーーーー…………」
先ほどの「ん」は疑問形だったけれど、今度は深く熟考するような「ん」だった。
太い腕を組んで、考えているようだ。待とう。
「何となくじゃない、そんなの」
メラメラくんが答えるより先に、鉛筆くんが答える。さっきより少し口元が緩んでいるように見えた。メラメラくんの話でそういう反応をする者は何人も見たことがあるが、自分の話でそんな反応するのは彼くらいなものだ。変な奴である。
しかしそんな彼に乗っかるようにして、唸っていたメラメラくんは同調する。
「そうだな。なんとなくだ。うん、これで納得できるか?」
「いや、全然」
「だよなぁ……」
即答する無味くんに、再び「んーーーー…………」と考え込むメラメラくん。どうやら考えなしらしい。
しかし、定規を用いてノートに線を引きながら、鉛筆くん。
「まぁいいじゃん。なんだって。言葉にすればできそうなものだけど、総じていえば何となくだよ。それとも僕たちの『報告や説明』に嫌気差してた?」
「別に、少し気になっただけだ。何か良いことあるのかなって」
「何となく良いから話してるんだよ。でなければみんな本を読んでるし、僕だって自分の席で設計図を描いてる」
――そうだよ。
だから、不思議で仕方ないんだよ。
けれどこれ以上聞いたところで、納得できる回答が返ってこない気がしたので言わなかった。
代わりに、頷いた。「ふーん……」と。
おそらくそれで、納得したと彼らは思い込むのだろう。メラメラくんは「なら良かった」と声を大きくして、鉛筆くんはメラメラくんの方へと軽く顔を上げる。
「それにしても、今回も失敗したね。無味の感情を揺さぶるの。あれだけ聞かせたがったってことは自信あったんでしょ?」
「まぁな。けど今に始まったことじゃない。またリベンジするよ」
「『失敗談語って失敗した』ご感想は?」
「……笑えない」
「だよね。僕もそう思う。心の底から。……と、そろそろホームルームだ。じゃあね」
言いながら、ノートや定規を抱えて自分の席へとおもむろに移動する鉛筆くん。メラメラくんも「また後でな」と椅子の向きを変えた。
他のクラスメイトが慌てて自分の席へと駆ける中、乾燥さんはゆっくりと本を閉じる――栞らしきものは、挟むことなく。
それから数十秒して、担任の先生が教室へと入ってきた。