4話 無味乾燥に教室に入る
「第二の拠点とも呼べる我らの教室に辿り着きましたね」
「たぶんここを拠点なんて呼び方をしてるのは君くらいだと思う」
電気がついていないというのに、朝日の力で明るくなっていた。教室内の鞄はちらほらと見受けられ、自分たちより先に来た朝練の生徒たちが来ていることが察せられる。
無味くんの席は最も窓際の、黒板から見て最も遠い位置。扉から遠いが、ロッカーに近いし窓から景色を見渡せるので良いポジションに恵まれたと本人は満足している。
乾燥さんの席は、その隣だ。
「ですが拠点と呼んでもあながち間違いではないでしょう。高校生である私たちは生活のほぼ半分をここで費やしており、学校の中で中心とも呼べる場所は教室くらいなものでしょう。ロッカーや机は自由に魔改造していいことになってますし」
「切断したり変形したらきっと先生に怒られると思うよ」
「怒るというより、あの先生の場合は忠告ですね」
「それもそっか。じゃあ忠告を受けてから他の先生に怒られるな」
個性のない姿勢で移動して自分の席につき、カバンを机の横にかける彼。しかし彼女は、席につかずに彼の隣で立ったままであった。
どうしたのかと思い見ていると、乾燥さんは言った。
「……意外です。意外すぎる発言です」
そこまで意外に思われることが意外だと、「何が?」と訊き返す彼。
「いえ、どうやら私の思い違いだったようですが、無味くんはもっと他人に関心を持ち、理解している方だと思っていたので……あの先生が怒るような人ではないのは、一目瞭然でしょう?」
「なんでそんなことを思われていたのか、それこそわからないが、俺は他人に関心ないよ。理解もしてない」
アバウトとか、適当ですらなくて、視界の外だ。
「そうですか……。それならなぜ、私はそんなことを思ってしまったのでしょうか」
「それは俺の方が訊きたいくらいだけど、君にわからないならたぶんわからない――というか、むしろ俺から見たら、乾燥さんの方がよっぽど詳しくて、関心を持ってるように見えるよ。人の感情ってやつ」
「人の感情は、まぁ確かに好きですが、一部だけですし理解してません。理解してるのはあなただけです」
そうして彼女は、よくやく自分の席についた。彼の隣の席である。カバンを机の上に置く。
「昨日も言ってたけど、本当に俺の考えてることがわかるの?」
「はい、だいたいは」
「それにしてはさっき外れてたみたいだけど」
「はい。ですが間違ってるとも思えないんですよね。だって無味くん、友達がいるじゃないですか」
「あれは友達っていわないよ。友達というほどの仲じゃないし、あっちから一方的に絡まれるだけだ」
「ですが入学してから半年経ちますけど、縁切れてないんですよね? 互いに嫌悪を抱いてる様子もありませんし、傍から見れば仲が良さそうですよ?」
「あの二人のことは嫌いじゃないけど、それだけで友達認定するの? 友達の定義は……まぁ、曖昧だけどさ」
「曖昧ですよねー本当。けど私は、一応わかっているつもりですよ。これでも友達いたことありますし」
今はいませんが、と付け足す彼女。
何ら感傷もない。堂々とさえしていて、当たり前のように言って、それが彼には、少し羨ましかった。
憧れていた――のかもしれない。その在り方に。
それはなぜかは、考えたことがない。そのことを彼女に話したこともない。
「いたんだ。友達」
「いました。昔」
「じゃあ友達の定義って?」
「先ほども言ったように、それなりに長い間一緒にいても嫌な感じがしなければ、もう友達と呼べるのではないでしょうか? そんなもんですよ」
「そんなもん、か」
けれど彼は、実感できなかった。
「なので無味くんは、もっと他人に関心があるのかと思っていたのですが……」
「だから、あの二人は勝手に絡んでくるだけだって」
「ならば、私はどうなんですか?」
躊躇いを感じさせない言葉に、彼は黙った。
無機物のような黒い瞳でこちらを見る乾燥さん。声が出ない。
「……」
……。
…………。
…………ああ、そういえば。
乾燥さんには、関心がある。
「……ある。あった。あるけど……でも、きっと君にだけだ。他の人には関心がない」
「ああ、だからですね、私に関心があるなら、他の人にも関心があるだろうと勝手に思い込みました。納得です」
「?」
なぜ、彼女に関心があるのと他の人に関心があるのとで、結びついたのだろう。やっぱり乾燥さんのことはよくわからない。
それともう一つ不思議だったのは、納得していると言っている割に心なしか首を傾げていることだった。微妙に倒している。
「あ、忘れない内に渡しておきましょう」
と、何かに思い至ったのか、彼女は声を上げる。表現として手を軽く叩いたつもりなのだろうが、自分には動きが遅すぎて合わせているようにしか見えなかった。
それから彼女は、机の上に置いておいたカバンからガサゴソと取り出す。
「昨日のアイス代のこと?」
「はい、あの件は本当に感謝してます。無味くん以外にも声はかけたのですが、そうそうお金を貸してくれる人はおらず、困っていたんですよ。おかげで実験することができました。どうぞ、ぴったり普通の百二十円です」
「失敗したみたいだけどな」
百円玉一枚、十円玉二枚をぴったり渡されながら、彼は言葉を返す。
そう、失敗だ。
『他者の金で食う肉は美味い』――その言葉が本当かどうかを判明させるために買った棒アイス。先日帰り道で感想を聞いたところ、いつもの味と変わらないと言っていた。いつもの素っ気ない味だと。
ただ甘くて、冷たくて、それだけの味。
けれど失念したような様子はなく、ただただ感謝された。失敗してもよくて、試してみただけらしい。何となく予想もしていたそうだ。
それは自分も同じだった。彼女の感想を聞いて、そりゃあそうだと思った。そんなので味が変わるなら、幸福感を得れるなら、みんなもっとやってるだろうと。
くだらないと思いつつも、それでも少しは――心のどこかで、期待していたかもしれない。
「ですが、良い経験にもなりましたよ。こういうことを試している人はいなかったので、はっきりさせることができました」
「聞いたことがないからな。俺もその発想すらなかったし、思いついてもきっとやろうとしなかった」
「だから私がやるんです」
そう、乾燥さんは言った。
「ふと思ったのですが、これは本には当てはまるんですかね? 他者の金で買った本は、面白くなるのでしょうか?」
「どうだろう。けど、たぶん変わらないよ。それにもう、これ以上は貸したくない」
「えぇー」
露骨に残念がる声を出す乾燥さん。無表情で。
「昨日は協力してくれたのにですか? 食べ物でないとダメなんですか?」
「そういう問題じゃない。財布の紐が緩くなるからだ」
「……それは、問題ですね」
この前と同じように、再び静かになる彼女。納得しているらしい。
「仕方がありません。諦めましょう」
「うん」
「諦めて別の人から借りましょう」
「うん」
「借りる相手はメラメラくんです」
「それは困る。彼は俺の友人だ。それ以外にしてくれ」
「しかし他に借りられる相手がいません」
「諦めたらいいんじゃないか」
「……うーん」
考え込むように彼女は目を閉じた。そんなにも悩むなら貸してみたい気もするけれど、やめておこう。早速紐が緩くなってる気がする。このまま続けたら解けてしまいそうだ。
「わかりました。諦めます」
「うん」
「では代わりに、といっても既に予定していたことですが、明日私に付き合ってもらえませんか?」
「? どこに?」
明日は土曜日だ。家にいたいわけでもないし、やりたいことがあるわけでもない。散歩か図書館に行く予定だったので、前向きに訊いてみる。
すると彼女は、棒読みでありながらもはりきって答えた。
「映画館です」