3話 無味乾燥な登校
人がいない――人がいない。どこもかしこも。
このまま誰にも会うことなく、待つ意味があるのかというほどに閑散とした信号を渡るのだろうかなんて考えていると、彼が来た。
白いセーラー服とは正反対に、黒い学ランを着こむ彼。昨日と変わらず背が高い。
「はよ、乾燥さん」
自分に挨拶をする人間は少ない。彼はその内の一人だ。
「おはようございます、無味くん。今日も早いですね」
「まぁな」
欠伸することなく答える彼。この時間帯は早朝は早朝でも、朝練している者が来るくらいには早い時間帯のはずだが。
「そういえば無味くんが欠伸をしている姿は見たことがありませんね。こんなに早く起きて、眠くないんですか?」
「俺は早寝早起きだからな。それなりに勉強やったら寝て、寝るのが早いから起きるのも早い。それだけだ」
「おやおや、これは面白いことを聞きました。だからですね、いつも「家では何してるの?」と訊いても「何も」と答えるのは」
「ああ、本当に何もないんだよ」
「何もなさそうですね。本当に」
すると赤かった信号が青に変わり、二人は歩き出した。歩調は同じ、足音も同じ、見ている方角も前方で同じである。
「ではいつもの如く、遠慮することなく気ままに私から話題を提示するとしましょう」
まずは気になったことを訊いてみる。その次は……その時になったら考えよう。
「無味くんは好きな将軍さんはいますか?」
「いない」
「じゃあ好きなホトトギスさんはいますか?」
「ホトトギスに種類があるのか?」
「ああいえ、語弊がありました。三つの詩みたいなのがあるじゃないですか。あれです。鳥としてのホトトギスにも細かい種類がありそうですが、私も知りません」
「鳴かぬならってやつか。なんでホトトギスにしたんだろうな」
「きっとホトトギスが好きだったんですよ」
「目の前にいたからじゃなくて?」
「そうかもしれませんね。その方が詩で例えた人にも幸せかもしれません。殺されてしまいますから」
「そうだな」
「刀で一刀両断されて、食べられてしまいますから」
「そこまでの想像は働かなかったよ」
感情のない声で残虐な行為を述べられるが、彼は同調しない。
そしてその時、二人は横断歩道を渡りきった。だが一分経っても、やはり車は見当たらない。
「鳥は好きですか? 無味くん」
「固いから好きじゃない。俺は豚肉派だ」
「奇遇ですね。私もです。調理が面倒ですから」
決して味の話ではなく、食感の話や調理の話。
笑いも情もない会話が続く。
「好きなホトトギスは待つやつかな。好きっていうか、一番自分に合ってる詩は」
「やっぱりそうですよね。待っていた方が気楽です」
「じゃあ乾燥さんも?」
「はい。ですが場合によっては、殺してしまうのもアリかもしれません」
「相変わらず情がないな、乾燥さんは」
「相変わらず感情が死んでますね、無味くんは」
お決まりのセリフは、やはり名詞が逆でも成り立つものだった。咄嗟に差し込んだ言葉だったけれど、乾燥さんは乗ってくれた。
これまでこのノリに彼女が乗らなかったことは、一度もない。
「まぁでも、わかるよ。時代が時代だし、ホトトギスを鳴かせなければ命がないんだったらたぶん俺もやる」
「死因がホトトギスを鳴かせなかったからなんて、嫌ですからね。災害や事故で亡くなったならまだしも、そんな超個人的なことで死んでしまったら未練たらたらです。たらたらだと思います。……いえ案外、時間が経ったら受け入れてしまうかもしれませんが」
「……けど、やっぱり」
少しの間を空けて、彼は訂正する。
「それでも待つかも。俺」
「死んでもいいんですか?」
驚くでもなく、間髪空けずに淡泊な声色で問う彼女に、彼は歩きながら答えた。
「どうなんだろう。あんまり考えたことないし、そういう状況に居合わせたことがないから。痛いのは嫌だけど、死ぬことに関してはどうなんだろう」
「じゃあ判明するまで生きてください。死にたいことが判明しても生きてください。私のために」
「……ん。それくらいの頼みなら、いいよ」
あまり深く考えずに、何となくで返事をした。
無理をして生きたいと思うわけでもないし、逆に無理をしてでも死にたいと思うわけでもない。
それくらいに、それほど価値があると思えない命ならば、人生ならば、彼女の判断に任せてしまってもいいだろう。
周りに流されるように生きても、流されるように死んでもそれほど大差はないはずだ。
もしかしたら差はあるのかもしれないし、自分の主張がどれほど世間から外れているのかが自覚できないけれど、まぁいいかと思うことにした。これから生きていく人生の中で、彼女以外にこんな質問をする人はいないだろうし、するとしても二度もしてこないだろう。
無味くんはちゃんとしていることはちゃんとしているけれど、適当なところは適当だ。大雑把だ。生き方が。
「では無味くん、これは興味本位で訊きますが」
「ん?」
「死んでくれと頼まれたら死にますか?」
「……うーん」
そこで初めて、彼女は彼の方に目線を移した。彼の向き前に固定したままで、彼女からの視線に気付かない。
そういう生死の話はあまり考えていなかったけれど、考えざるをえなくなった。乾燥さんに訊かれたからには。
死んでくれと頼まれたら死にますか? か……。
「苦しんで死んでくれって頼まれたら断るし、理由によっては断る。でも逆に言えば理由によっては納得して逝ってもいい。ケースバイケース」
「理由を知りたいということは、生きたいってことですよ。納得せずに死ぬことはできないのでしょう?」
「そう……かな?」
「そうですよ」
「乾燥さんは生きたい? 死にたい?」
「私は嫌ですよ。死ぬの」
「……」
彼は――歩みを止めた。
なぜ足を止めてしまったのかはついぞわからないけれど……何か途轍もない事実をカミングアウトされたような、そんな気分だった。
ぞわぞわとして、手が冷たくなる感覚だ。こうなることがないわけではないけれど、なぜ今なのだろう。
彼女は昨日、彼の思考はお見通しと言っていた。
ならば彼女は、彼がこういう反応をすることがわかっていたのだろうか?
わかって――言ったのだろうか。
少し先の位置でこちらを振り返る少女は、ほんのりと目を見開いて、けれど表情を変えることなく控えめに口を動かす。
「安心してください。生きたいわけではありません。まだ死にたくないだけです」
「……」
それを聞いて、彼は彼女と同じ位置まで歩いた。二人は再び学校を目指して進む。
「すみません。落ち込みましたか?」
「別に、人の生き方はそれぞれだし、落ち込んでないよ。ただかなり――驚いただけだ」
「そうですか。ショックを受けても沈みはしなかったんですね。なら良かったです」
「……」
なんだろう、この――どっしりと来る、未知の感覚は。理解不能だ。処理に困る。
けれど我慢しようとすればできるものだったし、感じないようにすることもできたので放っておいた。微熱と似たような感じである。
そうこうしていると、無味くんと乾燥さんの目的地に着いた。
平均的な偏差値の、平均的な大きさの高校。吹奏楽部の演奏や、運動部の掛け声が聞こえてくる中、彼彼女らは校門を通る。
「朝日を浴びて朝早くから登校するというのに、なんだか暗い話をしてしまいましたね」
「暗い話でもいいよ。俺は。嫌いじゃないし」
「では続けましょう」
「けど周りの連中が気にするだろうから、やめとこう。誰かの耳に入ったら面倒なことになりそうだ」
「さいですか。続けられそうにありませんね。断念します。担任の先生からも言われてますからね」
「ああ、『面倒な生き方をするな』って。それと『リア充は名乗り出て来るな』って」
そうして二人は、誰にも会うことなく下駄箱で靴を履き替え、一年の教室を目指す。