2話 乾燥さんは起きる
それが現在の夢か、過去の記憶なのか、いつまでも区別することができない。
けれど、いつまでも区別できなくてもいいだろう。それができたところで得になることも、不利益になることもないのだから。
嬉しいとか悲しいとか、そんなのはもうたくさんだ。
飽きてしまった。溢れてしまった。零れ落ちてしまった。滑り落ちてしまったのかもしれない。
ありとあらゆるものが、私の中から水となって溶けてしまった。
焼き焦げるような何かも、刃のように凍えるような何かも。
廃墟となったこの灰色の床に吸い込まれてしまった。
煤と埃にまみれた汚い床。この床から零れ落ちたものを吸い戻そうとしても、私の身体が汚れるだけだ。きっと病気になってしまう。今度こそ死んでしまうかもしれない。
けれど死ねない。私は死ねない。
だからそこに残されたのは愚か者だけ。
たまたま人の形をした愚か者だけ。
いや、人の形をしているからこそ、愚かなのかもしれない。
私にはもうわからない。
わからないまま追い求める愚者となってしまった。
成ったのではなく、元からそうなのかもしれないけれど。
言っただろう? 私にはわからないと。思考だってままならないと。
辛うじて区別できるのは、今見ている光景が偽物か本物か、ということだけだ。
見分け方は簡単だった。人がいるかいないかの差だった。
過去の記憶であろうとも、そこになければ幻も同然だ。
ああ、そこにあるのは幻だ。でも、幻だけれど、変化はある。
そこに変化があるなら、自ずと私も変化する。そういうものだ。
生き物はそういうものだと、無機物もそういうものだと、それは知っている。憶えている。
誰から聞かされたことかは……それは、それだけは、それだけでなく、思い出せない。
思い出せるのは、思い出せることだけ。深く刻まれたことでも、浅い擦り傷でもない。
しかし夢ならば。夢ならばまだ思い出せることが多い。最近ずっと……見ているから。
この夢かどうかわからない代物でない。『あの夢』だ。
決まってあの人が登場する、『あの夢』。
なぜ私は、『あの夢』を見続けていられるのだろう。あれを見て、何を得て、何を損するというのだろう。
誰かに……神とも呼べる存在から見させられているとしか思えない。それほどまでに何度も何度も繰り返しあの世界を見ている。
――なぜ? 私がこれを見て何になるというんだ?
わからない。わからないけれど……悪いものではないから、私は眠る。
悪いものだったとしても、きっと私は眠っていたけれど。
眼を瞑って、思考を閉じる。
変化のために。
己の変化のために。
静謐が破れ、色が訪れる。
あの人はいない……これは現在の夢? 過去の記憶?
それは家族? 家族ではない人?
知らない人が家族となって登場することもある。まだ判断はできない。
判断しようとしているけれど、そういう夢なのかもしれない。
何でもいい。早く変化よ訪れてくれ。
どちらにせよ、私の現実はあの世界だけなのだから。
それ以外夢。どれも夢。何もかもが夢。
……ああ。
そうこうしているうちに、また、夢の中に戻ってきた――。
『あの夢』だ。あの人が出てくる……『あの夢』だ。
乾燥さんはショートスリーパーだ。数時間しか眠っていないが学校生活に支障をきたしたことがない。数少ない自慢話になりえる話である。ご飯も小食気味で、それでも体調を崩したことは一度もなかった。不健康になったことはなかったし、運動神経も普通だった。
目覚まし時計が鳴る前に起きて、オフにする。鳴られたらうるさい。鳴られる前に鳴かないようにする。鳴くのなら、殺してしまえ、ホトトギス。別にあの将軍が好きなわけでも、嫌いなわけでもないが。あの四文字の記号にはどうしても関心が湧かない。
社会はどちらかといえば好きな部類ではあるけれど、それは暗記するだけでいいからであって、歴史に興味があるからではなかった。一夜漬けしやすいから、それだけだ。基本的に勉強は苦手意識を持っている。
しかしながら四時限目に比較的楽な数学があった。ここは心が湧きたって、うきうきとした気分で学校に行く準備をするところだろう。
この寝室を出て、まずは朝食を作るとしよう。いつもの質素な目玉焼きを乗せた食パンではなく、今日はパンケーキだ。あのほんのり甘くてケーキなのかパンなのか、朝食なのかスイーツなのか深い議論ができそうなパンケーキ。
なに、どうということはない。昨夜ちょっと、フライパンでパンケーキを作る母親の背中を見ただけだ。
懐かしいエプロン姿か、赤の他人なのかはわからない。
一人で暮らすには十分すぎる広さのある、ダイニングキッチン。白で統一されていて、静寂と料理音に笑い声を取り入れるためにテレビを付けている。完全に癖だ。拘っているわけではない。
卵と牛乳、砂糖を混ぜ合わせてから、薄力粉を混ぜ合わせる。聞こえてくるニュース番組は、まぁいつもの調子だった。笑えるニュースも、涙脆いニュースもない。交通事故があったらしいから、気を付けないと。
フライパンに油を引いて、おたま一杯分を流し入れた。じゅーっという音がする。少しうるさい。テレビが聞こえない。そう聞きたいほどのものでもないけれど。
しばらくぼうっと眺めて、良い感じに焼けてきたらフライ返しでひっくり返した。
あとこれを四回分するのか……四枚焼くけれど、三枚は冷蔵庫に保存しておく。そんな朝から食欲ないし。
そういえば、そのことを彼に話したら、そう……凄いねって言われたっけ。ショートスリーパーや、小食でも健康でいられることについて。羨ましいとは言われず、驚かれもせず、ただ珍しいなとだけ言われた。事実だけを言われた。
彼らしいなと思った。別の人とは違う反応をする。
昨日はお金を貸してもらったから、その分返さないと。確か百二十円だったはずだ。あとで財布の中身を確認しよう。
蜂蜜やバターを塗らず、素の味を楽しんで、それはもう味わって、私の朝食は静かに終わった。
ああいや、嘘だ。テレビの音があった。すっかり存在感を失っていた。いたんですか、あなた方。
ともかく制服に着替えて、財布や教科書を入れ間違えてないか確認して、歯磨きなどもやって……あぁそうそう、昨日読んだ小説を入れ忘れるところだった。危うく、危ないところだった。この小説はもう、二十回くらいは読んでいる気がするけれど、いいのだ。それで。
この小説があるかないかで、全然違う。問題はそこだけなのだから。内容は別に何だっていい。
壁を眺めるより、活字を眺めていた方がまだ生産的な気がするだけ。不審に思われないような気がするだけ。特に理由はそれだけで、違いというのもそれだけだ。
小説のタイトル……なんだっけっな。……そうだったそうだった、こんなタイトルだった。如何にもミステリー小説らしい……のかな。とりあえず長いシリーズで人気作だったから手に取って読んでみただけで、興味があるから買ったわけではない。
ミステリー以外のジャンルも、トップを張っている作品はだいたい読み終えている。が、どれも似たような感想だった。だからなるべく飽きないために、読んだ中で最も長いこのシリーズを何度も読み返すことにしたというわけである。小説自体の関心はとっくに薄まってしまっていて、だからか他の有名ではない小説は読まない。
まぁそれはともかく、家を出よう。ホームルームまでまだまだ時間があるし、何ならこの時間帯だと教室には一人二人しかいないが、それでも家を出よう。
外にいた方が、刺激がありそうだから。